読む世界 Faile 3 「ビジュアル化の弊害」

昨今、若者の活字離れが、かなり問題になってきていますが、彼らの親である熟年の人でも、活字に関してはまるで無関心で、読むなどということは、大の苦手という人が多くなってきています。「脳トレ」などといって、ゲーム機で活字を書くというようなものが流行ったり、テレビではそういったものをバライティ番組で取り上げたりしていますが、年配者になると加齢の影響もあって、同じように活字を嫌うような状態になってきています。

日本の文化は、かなり長いこと活字文化によって支えられ、築き上げられてきたというのに、まさに活字文化は瀕死の状態にあるようです。

どうしてだ・・・と思ったりすることもあるのですが、わたしたちの青年期から起こり始めた、ある社会的な運動と無関係ではないと思うようになったのです。

所謂、表現のビジュアル化ということです。

活字、活字の文化によって、固められてきたすべての分野が、そのために硬直化してしまって、政治、文化、経済の面で、グローバル化し始めた世界の流れについていけなくなり始めた頃のことでした。

我々もグローバルな動きが、次第に加速していく勢いから、無関係ではいられない状態になっていたことを思い出します。おおむね1700〜1800年代あたりの状態は、いささか活字文化の影響大で、すべてが膠着状態に陥っていたように思います。このままでは、とても世界の動きからかけ離れていってしまうということが叫ばれて、その結果意識改革をしようという運動が盛んになっていきました。活字重視の重苦しいライフスタイルさえも変えてしまおうという勢いで、すべてをビジュアル化しようとし始めました。きっとあなたも、そんな時代があったということを思い出されることでしょう。その結果、わたしたちの身の回りのもので、表現に関しては、非常に柔らかくなってきているなと感じます。いささか旧世代のものとしては、不満になってしまうほど砕けてきました。そのために、すべての分野で、すべての年齢層の者に、理解しやすくなっていきました。低年齢の者にも、教育面でそれを活かすことができるようになりました。

たしかにその当座は、これまでの重苦しさから解放されて、ビジュアル化の結果については、かなり故意的に受け止めましたし、ビジュアルに表現しようという動きには、わたしもその加担者の一人であったという認識があります。

しかし・・・。

そうかといって、どこまでも活字世界を終えて、ビジュアル世界に突き進んでしまおうとは思いませんでした。これは旧文化の影響を強く受けながら育ってきた、世代的なものでしょうが、あまりビジュアル化が行き過ぎてくると、活字に対する願望が起こってくるのです。行き過ぎるとバランス感覚で、訂正しようとし始めるのですが、「これでいいのか」と思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

ビジュアルに描かれたものを、見て理解するということと、活字で書かれたものを、読んで理解するという二つの理解のし方には、大きな差があると思うのです。

前者は見たものを感覚的に理解するのだし、後者は目から入ったものを、一端脳を通過させて理解するのだ。その分だけ後者の場合は、訓練によって、つまり教育によって、大変難解なものでも理解できるようになるのだが、その分教育を受けない者にとっては、難解そのもので、理解することができないことになるでしょう。

それだけ前者は、簡単に理解を得ることが出来ますし、ビジュアルなものは、それほど理解するのに難解というものはないはずです。いってみれば、ビジュアル化をして理解を求めることで、脳を使うということは、ほとんどなくてもすんでしまいます。

活字による理解から、ビジュアル化されたものによる理解を求める機会があまりにも長期間にわたってしまったために、すっかり市民のほうの理解力が落ちてしまいました。別な言い方をすれば、若い年来の者ほど、幼児化してしまったということになりそうです。

昨今の若者の幼児化、理解力不足という問題は、活字離れとかなり関係があるように思えますが、どうでしょうか。もうすでに、20年以上前に起こったビジュアル化の結果が、今になって現れてきたのだと思っているのですが・・・☆