読む世界 Faile 4 「浅間隠れの美少女」

まるで小説のタイトルか、週刊誌の見出しのキャッチコピーのように思えるような表題になりました。

特別ロリコン趣味があるわけでもないのに、こんなタイトルになってしまったのには理由があったのですが、冒頭から呆れないで下さい。

実は今から大分前に、「隠れ里乱世伝」「歩き巫女忍び旅」という小説を書いた時の舞台となったところなのですが、この村には、「浅間隠れの美少女」が集められていたということが伝えられていたのです。そのようなことを知ったきっかけとなったのは、ある歴史のエッセイ集を読んでいたことだったのです。そこに書かれていたたった一行の紹介文・・・「浅間山北麓に、浅間隠れの美少女が住んでいる村があった」というものによってでした。そのたった一行だけしか書いていないところが、大変刺激的で、わたしは俄かに野次馬精神を刺激されてしまったのでした。

それから必死で、手がかりになるようなものはないかと探りつづけたのです。その結果ですが、ついにこの村だろうと見当をつけることができるところまで漕ぎつけるところまできたのです。

こんなお話を書くことにしたのは、たまたま現在のNHKの大河ドラマが武田信玄を扱っているので、記憶の彼方から引っ張り出してきたというわけなのです。それに間もなく夏休みもやって来ますから、ドライブがてらお出かけになってみるのもいいのではないかと思って、話題の一つとして提供することにしたわけです。

わたしは幸い夏は軽井沢へ行く機会がありましたので、国道18号線上にある、目星をつけたところへ行ってみることしたのです。それは浅間山北の山麓である、長野県北佐久郡東部町の古館(ふるみたち)というところでした。

「このあたりに、美少女だけが暮らしていたところはありませんか」

現地へ行って、すぐに出合った土地の人に訊いてみました。すると村人は、直ちに、

「ああ、お姫さまね」

と、言って、それが近くの農道の脇にあると教えてくれたのです。

ここまでは極めて順調だったのですが、それから先は、何を訊いても返答をして貰えず、困惑してしまったのです。残念ですが、それ以上質問をしつづけているわけにもいきません。しかし作家の感と言うものでしょうか、これは何か隠されていると思いました。地元の人が言った、「お姫さまね」という返事が、妙に気になっていたのです。

教えられたように、畑の中を抜けて、やや斜面になったところの一角に建てられた、簡単な神社風のものを発見して行ってみたのです。その前には巨岩の壁があり、彫刻が施されていました。しかしそれ以上に、興味深くなるようなものはありませんでした。これではただの巨岩信仰に過ぎないと思いました。しかしここのことを、村の人が「お姫様」という理由が、どうもすっきりとはしないのです。しかもここのことを、更に詳しく訊き出そうとしても、とにかく地元の人はあまり話をしたがらないのです。それからは、教育委員会で出版した郷土史を読んだり、「日本巫女史」などという、大変珍しい研究書から、ついに謎を解決する糸口を見つけ出したのです。

ちょうど集英社の編集長から、小説の依頼がありましたので、もう一度担当の編集者と一緒に現地へ向かいました。

そこでの取材を含めて、次第にはっきりとしてきたことは、信州とは言ってもこのあたりは何といっても、甲斐国の武田信玄とのかかわりが、かなり深いところであるということが、はっきりとしてきたのです。

東部町には求女川(もとめがわ)などという川があるのですが、これなどは武田信玄が晴信と言っていた若いころ、近くの祢津城の姫である里美姫と、その川辺で密会を楽しんでいたという話が残っていて、やがて晴信は、その里美姫を側室として甲斐国へ連れて行ったというのです。その故事に因んでつけられた川の名でありましょう。

余談ですが、祢津といえば実業家で、東武鉄道の創業者である根津嘉一郎、俳優の根津甚八氏などの出身地だと言われているところですが、わたしは先ずこの祢津城をきっかけにして、武田信玄の歴史にも踏み込んでいったのです。その結果、間もなく彼が信州とかなり密接に繋がっていることがはっきりとしてきました。

とにかく美少女が集団で暮らす村・・・それが突き止めたくて、夢中になって武田信玄と信州とのかかわりを調べていったのですが、やはり祢津城とのかかわりが深いということが判ったのです。実は信玄の甥で、勇将として名高かった望月盛時が、川中島の戦いで戦死したのをきっかけにして、その後室である千代女を、甲斐・信濃両国の巫女頭として任命したということを知ったのです。しかも彼女は、祢津へ住みつきそこで巫女館を運営したというのです。

美少女たちはここにいたに違いありません。

千代女はそこへ美少女を集めて、巫女としての修錬をする場を設けたのです。しかも修行中に、村の若者と接触したために、恋に落ちたりしては、折角、巫女の養成をしようとした意図が果たせません。村の者ともまったく接触もさせずに、厳しい修行を積み重ねると、その美少女たちは春になると、旅に出て、占いをしながら更に修行を積んでくるというのです。そして秋になると、また巫女館へ戻って来るというのです。どうもそのあたりに、表面的な巫女の養成と言うだけではない、何か意図的なものが秘められているのではないかと、推理し始めたのでした。そして更に探っていくうちに、とうとう武田信玄や、美少女を集めたという千代女の、深慮遠謀に辿り着いたのでした。

冬の間村で修行すると、春になると全国各地へ美少女たちを送り出していましたが、占いをしながら修行をする風にして、各地を旅して来るのですが、そんな単純なことですむわけはありません。美少女の巫女たちは、さまざまな土地や、さまざまな人に出会いながら、各国の様子を探って、秋になると戻って来ていたのです。

なぜか・・・。

巫女頭の千代女は武田信玄の戦略に役立てようとして、美少女たちが集めた各国の情報を、彼に提供していたというわけなのです。

幼い美少女たちが、占をしながら旅をしていれば、疑われる心配もないし、鼻の下の長い男性も多かったでしょうから、美しい彼女たちを助けてやりたいと思う人も多かったはずです。千代女はそんな点を利用したに違いありません。なかなかしたたかな戦略ではありませんか。占をして歩くというのは、あくまでも美少女たちのしていることを、疑わせないための小道具だったに違いありません。

それにしても村の若い衆などは、彼女たちに何とか会う手立てはないかと、いつもわくわくしていたことでしょう。しかしそう簡単には逢うことは許されません。そうかといって、若者の高ぶる感情を無視していていることもできません。そんなことでは、いつかよくないことが起こるに違いありませんから、為政者は年に一回だけ美少女たちと出会える機会を与えました。それは秋の祭りの日でした。きっと若い衆は燃え立ったでしょうね。

とにかくこの美しく、愛らしい巫女たちと、戦国の武将はもちろんのこと、庶民たちは触れ合いながら、過酷な戦国時代を生きていったのです。

その後時代がたつにつれて、美しい少女が全国へ散っていくので、彼女たちのことを、人は「歩き巫女」と呼ぶようになりました。そして時間がたつにつれて、予想通り誘惑する者もあり、彼女たちの方から誘う者も現れたりして、いささかよろしくない噂が飛ぶようになってしまったのでした。

わたしが興味を抱いたのは、そのいかがわしい面ではなくて、あくまでも戦国の戦略として使われていた彼女たちの過酷な運命のほうで、戦国と言えば忍者という常識ではないものたちが存在していたということなのです。

現在は、当時を忍ばせるようなものはほとんど見当たりませんが、「古館」(ふるみたち)というバス停の名称や、お姫尊などという巨大な岩と社など、辛うじて歴史を偲ばせるものが、残っているように思えるのですが・・・。

美少女が全国へ散って旅をするのですから、時間の経過と共に、男と女の関係が生まれるようになり、「歩き巫女」の里のように言われるようになりました。そのために差別の素地が根付いてしまったのです。

そのために東部町へ行くと、かなり沢山の「差別をなくそう」というキャンペーンの広告塔が目に入ります。取材を始めた時の、村人のあいまいな返答の仕方には、そんな空気が背後にあったからでしょうね。

ちょうどそこは、国道18号線沿いにありますし、その途中には江戸時代の強豪力士、雷電の生家と言われるものもあったりで、この周辺には武田信玄とのかかわりのある望月、祢津、海野などというところもあります。特に海野宿などは、宿場町が残されていたりしますし、源平の合戦で知られた木曾義仲が、旗揚げをした川原も残っていまです。もし機会がありましたら、お出かけになってみては如何でしょうか☆

隠れ里乱世伝の舞台の写真
お姫様の本体の写真
歩き巫女忍び旅の写真