読む世界 Faile 6 「鳥肌が立ちすぎます」

近頃は、ようやく下火になってきましたが、それでもまだまだ、事あるごとに聞く言葉があります。

「鳥肌が立ちました」です。

現代人は、そんなに過敏症になってしまっているんでしょうか・・・。時代が刺激的なので、「鳥肌が立つ」ようなことが、やたらに多いのかもしれません。あっちでもこっちでも、テレビなどでインタービュウを受けた人は、「鳥肌が立った」「鳥肌が立ちました」と言っています。

パフォーマンスの尊重される時代の影響でしょうか、老いも若きも、大袈裟な表現が飛び交っています。とてもそんな、文学的な表現には縁のないようなギャルまでが、「鳥肌が立つ」を連発しているのですが、どうも気になって仕方がありません。あまり同じような表現を、しかも頻繁に聞かされていると、いつの間にかその言葉は重みを失ってしまって、耳障りで、しかも実に軽々しく聞こえてきてしまいます。

たしかに現代は、事件も多様化している上に、考えられないような事件が、頻繁に起こっています。時には言葉を失うようなことにも遭遇しますが、どんなことに遭遇しても、「鳥肌が立ちました」と実に淡々と発言します。それほど衝撃的で、感動的で、刺激的でもないのに、まるでファッションを弄ぶかのように、「鳥肌が立ちました」という言葉を連発しています。

一体、現代はどういう時代なのでしょうか・・・。

表現を支えている、素養の底の浅さを感じてしまって、どこか肌寒さを感じてしまうことがあります。ちょっとしたことぐらいでは、びっくりもしないほど刺激に馴れている上に、個性が尊重される時代だと言うのに、表現の仕方が、どうしてこう過敏症とも思えるような画一的な表現をするのでしょう。やはりその原因は、テレビ、ラジオなどの影響によるものだとしか思えません。

最近のテレビ、ラジオの番組は、どこの局ということもなく、とにかく矢鱈に激しく、刺激的で、衝撃的な番組が多く作られ、そこに登場するタレントたちも、ことごとくテンション高く、大騒ぎをして喋りまくります。きっとそんな中で、「鳥肌が立ちました」などと表現をした者でもいたのでしょう。そしてそれを見たり、聞いたりした視聴者である若者が、(これは面白い)とでも思ったのでしょうか、まるで表現のニュウ・ファッションでも見つけ出したかのように使い出してしまったに違いありません。その影響を受けて、タレントたちと同じように、やたらに大袈裟になっていってしまいました。あっちもこっちも、ファッションを弄ぶかのように、

「鳥肌が立ちました!」

です。

それまでまったくそんな表現を知らなかった若者までが、実に軽い口調で話しています。まわりを見回すと、突発的で、感情的で、刺激的で、かなり凶悪的な事件が、次々と起こります。時代がそうさせるとは言いながら、あまりにも短絡した事件が頻繁に起こります。もちろん中には感動的なことも起こりますが、そんな時に、その一つ一つについてどう表現したらいいのか判らずにいた者たちは、格好の言葉を発見したのでしょう。あっちでも「鳥肌が立ちました」、こっちでも「鳥肌が立ちました」を口にするようになってしまいました。

しかしあまりにも似つかわしくない若者が、そんな表現をするのを見ると、思わず聞いているほうが恥ずかしくなってしまいます。もっと他にその人らしい個性的な感動の表現法、言葉はないのでしょうか。問い正したくなってしまいます。

これまで「鳥肌が立つ」などという古臭い表現は、旧世代のものでしかないと思っていたのですが、それが昨今は、まるで玩具のように使われ氾濫しています。

影響力を云々されるテレビなどを見ていると、タレントの場合は、そんな仕事を要求されるわけですから仕方がないとして、やたらに作られたテンションから生み出された言葉まで、芸能人でもない人までが、まるでお笑い芸人のコピーのように氾濫しています。あっちでもこっちでも、「鳥肌が立ちました」とお答えになっています。しかも不可思議なのは、それを実に淡々とした表情で表現するということです。その言葉が持っている意味合いと、表現者の感動ぶりが、まるでシックリとしていないのです。とてもそんな表現をするとは思えないようなギャルたちまで、「鳥肌が立ちました」と連発していますね。

新しいことには、素早く飛びついていっても仕方がありませんが、こんな古い表現法が好まれるというのは、どうしたことなのでしょうか・・・。やっぱり珍しいのでしょうね。

あまり新しいものの発掘ばかりで、すっかり慣れてしまったこともあるのでしょう。何かちょっと違った雰囲気のあるもの、つまり古いものに興味が集まるのでしょう。

たしかにある時代から、時代の変化を求める動きが激しくなって、とにかく古いものはすべてのところで排除してきてしまいましたが、そのために、ちょっと前のことは、何も知らされないまま成長してしまった者が多くなってきました。

昔は、そう滅多に大袈裟な表現をしませんでした。

「鳥肌が立った」という時はそれなりの意味があったはずです。それなのに昨今は、それほど大したことでもないのに使われるので、どうも言葉に重みがなくなってしまって、実に軽々しく聞こえてきてしまいます。そんな時は、却って不愉快になってしまいます。

何事につけてもテンションを高くという風潮から、その典型的な形で、感動した様子を表現する言葉として、「鳥肌が立ちました」という表現が好まれたのでしょうが、それが一種のファッションとなってしまって、こうした内容を伴わない言葉が飛び交っていると、それは次第に言葉の乱れにも繋がっていくようにも思うのです。

まぁ、ファッションなら、またすぐに飽きられて、自然消滅してしまうのだろうが・・・。それにしても、表現があまりにも貧弱であり過ぎます。

表現力を失った時代・・・そんなことが原因で起こる事件も、多いのではありませんか。

言葉の軽量化が進んだ結果が、とてもいい方向へ進んでいるとは思えません。そんな時代の風潮のほうが、考えていると「鳥肌が立ってしまいます」☆