読む世界 Faile 9 「舌に長い毛が・・・」

意識しすぎると、とんでもないことになりますというお話ですが、実はこのようなことがあったのでした。

高校時代から小説の世界に憧れていたわたしは、大学へ進学してから、いろいろと状況が変化したために、小説から映像の世界へと、大きく舵をとることになったのでした。それでも若い頃から憧れていた作家になるという夢だけは、いつまでも消えることはありませんでした。

テレビの仕事がようやく順調に滑り出した頃に、思いがけず小説を書く話が舞い込んで来ました。厳密に言いますと 、わたしの原作でテレビ化された「さすらいの太陽」というアニメーション番組のノベライズというものなのですが、とにかくいつか小説が書きたいと思いつづけてきたわたしにとっては、大変な出来事でした。

もちろん嫌だというわけがありません。二つ返事でOKしました。

若い編集長からの注文は、二ヶ月ぐらいで書き上げて欲しいということでしたが、テレビの短期間で脚本を書くという作業からすれば、夢のような、実にゆったりとした作業期間を提示されて、そんなに時間があるのであれば、充分に書き上がると思っておりました。

テレビの仕事をこなしながら、小説が書けるという喜びに、すっかり浸っていたのです。ところがこの時、すでに悲劇的な計算違いが始まっていたのでした。

テレビの脚本の執筆については、大変集中力を高めて書くことに馴れていましたから、ほとんど締め切りに遅れるなどということはなかったので、小説も一気に書けると高を括っていたのです。それに中学時代から文芸小説を読みふけっていましたから、おおむね小説の書き方については、飲み込めていたのです。そんな自信があったからです。頭の中では、 普段の執筆力からしたら、一週間ぐらいあれば書き上がると計算していたのです。

ところがとんでもありませんでした。いざ作業にかかってみると、さっぱり筆が進まないのです。

なぜか?!

小説と映像とでは、当然ですが、話の組み立て方も違うし、表現の仕方も、まったく違います。そんなことは、充分に判っていたはずなのですが、さっぱり筆が進まなくなってしまったのでした。コミックの原作である話はとっくに出来ているのですから、それを基本にして書けばそんなに難しいことではないはずなのに、なぜか「小説」を書くのだということを、意識しすぎてしまったようでした。さっぱり筆が進まないのです。どこから、どう書こうかと、考えているばかりで、まるで作業になりません。同じような状態の日が、何日もつづいてしまいました。その間にテレビ脚本の締め切りが迫ってくるようになってしまって、小説の執筆は一時中断しました。そうなるとどうしても、作業は脚本執筆が中心になっていってしまうのです。馴れた作業ですから、当然かもしれません。そうなるとどうしても楽なほうを優先してしまうので、どうしても困難な作業のほうには向かおうとしなくなってしまったのです。もちろん小説の締め切りが、刻々と過ぎていってしまっていることに、責任も感じてはいました 。それでも一向にその困難な作業に戻ろうとはしないのです。約束の期日はどんどん過ぎていってしまいました。それでも熱心な編集長は、ついに原稿の催促から、遠慮気味に様子窺がいの電話をかけてくるようになってきていたのです。

次第にわたしは、精神的に追い込まれてきていました。

そんなある日のことです。わたしの舌には、長い毛が密集して生えてしまったのです。

慌ててわたしは、何度も、何度も歯でしごきました。

しかしどうしても、長い毛は取れません。

焦りに焦りました。

それでも密集した長い毛は一向に取れません。

苦しみ抜いた末に、とうとう目を覚ましたのでした。

まさに悪夢でした。

あまり口には出さないでいたのですが、心の内には鬱積しているものがあったのでしょう。そんな苦い経験をしながら、ついに一年が過ぎてしまったのでした。

苦しみぬいて、ようやく原稿を書き上げたのですが、嫌味なことも言わずに、根気よく待ちつづけていてくれた、あの時の編集長の温情には、ただただ感謝するばかりです。

おそらく編集長は、「あのようにテレビ番組は次々と書いているのに、どうしてこのノベライズが書けないのだ」と、 わたしがサボっているか、テレビが忙しくて書けないのだろうと、思っていたに違いありません。今でも彼には申し訳ないという気持ちと、感謝の気持ちを忘れることはありません 。

しかしこんな苦闘をしたお陰でしょうか、それからあと他社からの小説執筆・・・正確にはノベライズですが、実にスムーズに運べるようになりました。ついこの間までの苦闘ぶりは、まったく嘘のような話にしか思えません。

どうしてあの時、あのように固まってしまったのか、今となれば実におかしいのですが、結局、「小説を書くのだ」という気持ちが高まり過ぎて、興奮し過ぎてしまったのでしょう。しかしまるで悪夢のような時を経験したお陰で、胸のつかえがいっぺんに取れてしまったのでした。それからあとの作業で、あのような悪夢は、二度と見ることはなくなったのでした☆

さすらいの太陽(小説)の写真