読む世界 Faile 11 「ビジュアル化の弊害」

わが国は古来中国と同じように、活字文化の国です。その流れは戦後も長くつづいていましたし、文字を中心とした文章が中心となった社会のシステムが出来上がっていましたし、私たちもそれに従って生活してきました。

こうした活字文化の弊害といえば、何といっても学力の不足する者はついて行かれないという弱点がありました。そのような環境が、かなり長いことつづいてきましたから、どうしてもついていけない者は、置いておきぼりになってしまう者を生んでしまいます。しかも社会の受け止め方は、そうした、いわば弱者とも言える人たちを、無視していってしまうという風潮生んでしまいました。活字文化が生み出す、やや形式的というか、堅苦しさというもののお陰で、人間関係もそのような空気に支配されていたと思います。

なぜか封建的な風潮を生みだしてきましたから、いろいろな点で窮屈な生活を強いられるといった状態でもありました。人間的に解放された、自由な雰囲気というものは、望むべくもありませんでした。

こうした長いこと守られてきた、古来からの社会規範というものは、簡単には崩れるものではありません。もしそういったものが崩壊するとしたら、国自体に大きな変化が訪れた時以外にはあり得ません。たとえばクーデターによって体制が変わったり、戦争の敗戦というようなことがあって体制の崩壊があったような時です。そうなるとそれまでの価値観が、がらりと変わってしまうことによって、文化の質が、徐々に、徐々に変わっていきます。

日本での大きな文化的な転換期といえば、70年から80年代にかけた時代に、ビジュアルにということが、盛んに叫ばれ、活字文化で育ってきた世代との間にぶつかりあいが生まれてしまいました。

戦後の新たな文化と価値観の中で成長してきた若者が中心となって、旧文化の担い手とぶつかり合うようになりました。しかしそのぶつかり合いも、結局新しい流れに勢いがあって、これまでの形式的で窮屈な上に、判り難い活字文化から、「見て判る」という、ビジュアル化に傾いて行ってしまったのでした。時代の要求に歩調を合わせるように、それまで完全にサブカルチャーであったマンガが、文化の最前線へ飛び出して来るようになりました。とにかく見て判るようにという改革は、勢いに乗って進められていきました。教科書はもちろんですが、役所をはじめ民間会社のキャンペーン、チラシ、ポスター、パンフレットは、ことごとく文書を中心としたものから、イラストを中心としたものに変っていきました。所謂ビジュアル時代は、この頃から始まったといっていいのではないかと思います。

たしかに活字がびっしりと詰まった書類を見せられるよりは、イラストで説明されていたり、紹介、解説、主張されていたほうが、実に判りいいのではありませんか。それはどなたでも経験済みでしょう。

もう昨今は、あらゆる方面で、ビジュアルに表現することが、当り前のように行われ喜ばれています。ところが、このように見て判る、つまり判りやすいことに馴れてきてしまうと、その一方で、ちょっと面倒な活字にようって表現されたものは、受け付けにくくなってしまいます。しかもこれまで長いこと、活字文化の中で生きてきた年長者が、その活字から逃げ出そうとし始めてしまうのです。

昨今の活字離れが、盛んに叫ばれてきていますが、その遠因は、まさにビジュアル化を推進しすぎてきた結果であることを、ちょっと冷静になって考えてみるべきです。

活字文化で進められてきた、ちょっと堅苦しい空気から、ビジュアル化で気楽な雰囲気を押し出してきたことはいいのですが、見て判る、理解する。聞いて判る、理解するということに力点を置きすぎた結果、人は読んで理解することが 、実に困難なことになってしまったのです。

わたしも堅苦しい文化から人々を、特に若い人を解放したいと思って、かなり活字文化を変えていく努力をしたほうだとは思いますが、それはまた、今日の問題となっていることについてはその責任の一端を担わなくてはならないかもしれません。

しかし・・・。

ここらでちょっと立ち止って、活字文化による伝統というものを、どう改革していくことが、気さくでありながら、風格も備わった文化を築くことになるのか、真剣に考えてみる必要があるのではありませんか。

見たもの,聞いたもの以外は理解できず、読んで判る力や、想像して理解を補助する力が衰退してしまった結果が、昨今ニュースを賑わわせている殺人事件など、残酷な事件の遠因なっているような気がしてなりませんが、どうでしょうか。☆