読む世界 Faile 13 「文庫化と史跡名復活」

かつて廣済堂出版から数名の作家たちと、時代小説の「しぐれ舟」というハードカバーを出版したことがありました。そこでわたしは軽井沢、沓掛、追分という中山道の三宿で、(タマクラ)を売る女の話を書きました。

この(タマクラ)というものは、わたしの創作で、現実には存在しておりませんから、念のためにお断りしておきます。

この軽井沢宿で飯盛女をして働く少女と、出世に憧れる若者との恋物語なのですが、天明の浅間爆発を境に若い二人の生活環境はすっかり変わってしまい、別れ別れになってしまいます。若者は江戸へ出て行ってしまい、少女は身売りしなくてはならない運命になります。身投げまでしようとするその少女の思いに同情して、この街道沿で商いができるように知恵を貸したのが、軽井沢の湯川沿にある「沓掛神社」の宮司で、少女に「タマクラ」・・・つまり宿場でいい夢が見られるという「枕」を売る知恵を授けて援護するのです。

数年後、少女は一生懸命に貯めた稼ぎを持って、恋しい彼を追って江戸へ行くのですが・・・というようなお話なのですが、この大事なキーマンともなる「沓掛神社」を、執筆前に確認しておこうと思って、いや、その前から古代を追っていたわたしは、かなり興味を持ってその神社を探していたのですが、まったくそれらしいものが、見当たらないでいたのです。

つい最近まで中軽井沢には、作家の長谷川伸が作り出した小説に出てくる、あのあたりの侠客、「沓掛時次郎」に因んで、「時次郎まんじゅう」という菓子の看板が挙げられておりますが、長谷川伸も間違いなく「沓掛」という地名・・・現在の中軽井沢に因んで、主人公の名にしたことは間違いありません。

旅をする者は、ここにあった「沓掛神社」に草鞋を納めて、旅の安全を祈ったと言われていたのです。

ところが、現在の軽井沢には、「沓掛」という地名はもちろんのこと、「沓掛神社」というところもありません。どう考えても、中山道、北国街道と、草津へ向かう女街道の別れ道に当たる、中軽井沢の交差点近くに、「沓掛神社」はなくてはおかしいのです。しかし長年あの道は行き来していましたが、それらしいところは見かけたことがないのです。

これは、長いこと謎でした。

それが放置しておけない状況が起こってしまったのは、小説の執筆依頼がきてしまったことからでした。

わたしは、少女が動く舞台にこの街道を選んだ関係で、かねてから見当をつけていたところに建っている神社・・・現在正式な名称となっている、「長倉神社」の宮司と少女のかかわりで書くことにしたわけです。しかし本が出版さても、どうも釈然としないままでした。

あれから何年たったでしょうか、たまたま親族が中軽井沢の観光協会のトップと学友であったということを聞きつけたので、一緒にドライブする機会を作って出かけました。そして長年気がかりであった「沓掛神社」について訊いてみたのでした。

すると・・・。

やはり現在の「長倉神社」が、元は「沓掛神社」であったということだったということが判ったのです。

○○年町興しのために、古い名称を改めてそのあたり地名にちなんで、「長倉神社」としたという返事でした。

(やっぱり!)

わたしは内心快哉を叫びながらも、すでに「長倉神社」と表記して出版していることが、無念でならなくなりました。しかし現代の出版事情では、そのような訂正が簡単にできる状況にはありません。もちろん爆発的に売れれば再販になって、その時に原稿を訂正することが可能ですが、まったくその機会が得られないまま過ぎてしまったのです。

わたしはそれでも、観光協会のトップの言葉を確認しておこうという気持ちで、軽井沢役場、新聞社などへ、何度も問い合わせをしたのですが、まったく質問に答えてはくれませんでした。たしかに昔のような賑わいもないところなので、地元ではあまり問題にはしていないのかもしれません。

ところがそうこうするうちに、今回、徳間書店での文庫化の話でした。ようやく書籍の上で、史跡名を回復させられる機会を得たわけです。早速編集部とも連絡をとり、訂正するということを申し入れ、承諾を得たところでした。来年、年明けに書店に並ぶと思われますが、ようやく本来の史跡名で書き残すことができたと喜んでいるところなのです。

それにしても行政の姿勢、新聞社の姿勢については、納得できないものが残りつづけました。どうして元「沓掛神社」でしたというアピールが出来ないのでしょうか。そのほうが、はるかに町興しになるでしょうに。

ようやく顛末の報告ができるようになったことを自祝しつつ 、機会がありましたら、あなたにも、是非、お読み頂きたいと思って書いた次第です☆

写真は、廣済堂版のもので、今回出版される徳間文庫のものではありません。念のため。

「しぐれ舟」(廣済堂版)の表紙写真