読む世界 Faile 16 「時代の語り部」

最近、作家であれ、脚本家であれ、文筆で生計を立てるということは、どういうことなのだろうかと考えたりすることがあります。

無から有を生ずる訳ですから、実業に対して虚業と言われても仕方がないなとは思うのですが、しかしそれだけのことなのかとも反発したくもなるのです。

虚業などと言うと、如何にも社会的には、まったく存在する意味がない、時には勝手なことばかり言う、邪魔な存在というように思われてきました。現実に昔は、社会の木鐸としての存在であることは認められていましたが、なかなか実業が力を持っていて、もの書きが時代をリードするということはなかったように思います。つまりもの書きの世界は、一般社会とは切り離れた、特別な社会のような存在であったと思います。それが文壇といった社会を形づくっていったのですが、80年代あたりから、時代が大きく変化していくに従って、憧れであり、目標にしていた文壇という世界は崩壊していきました。そしてそれと同時に、その武器であった活字の世界も、実にマイナーな存在になっていきました。わたくしは、そんな激動の時代に作家になり、今日まで生きてきたわけです。人びとの価値観が、大きく変わっていく時代でした。確かに文壇という特殊な集団は、大きく変質しながら、ベテラン編集からは、最早文壇は崩壊しましたと、何度言われたことか。

時代が大きく変わっていく時に、映像から活字へと転身していったのですが、これまでにない時代の波をかぶりながら作業をしつづけてきたわけです。

あれから早いもので、三十年余もたってしまいました。

よくここまで来たなと思うのですが、多発性脳梗塞などという病魔に襲われたために、その後はストレスをためることから解放するために、この六年間は、とにかく緊張感を要求される原稿執筆から精神的に解放してきました。もちろん現在は、ほとんど体調は完全に回復しましたので、またまたあの緊張感が恋しくて、原稿執筆に向かおうかと、思っているところです。

やはり物語を作り上げていくという作業は、すっかり身についてしまっているので、まったく拭い去ることはできないようです。

長い、執筆作業を振り返ると、まさに山あり、谷ありの連続でした。実に不安定な仕事ではあったなと、思いますし、実際に、もう駄目かなと思ったこともありましたが、取り敢えず大波小波を乗り越えて、今日まで何とか無事にやり通してくることができた訳です。一応、ある程度の成果は上げてこられたと思うので、これ以上は、何も不満に思うようなことはないように思えるのですが、ある程度の成果を上げながらやってこられただけに、余計に、やり残したことがあって残念でならなくなってしまうことがあるものだと、痛感しているところなのです。 ところが最近、ある言葉について、改めて考えることがあるのです。

小説を書いたり、脚本を書いたりする仕事というものは、実業界に対しては虚業という言葉をつかわれますが、そのことについてなのです。作家としては、なぜ虚業なのかと、反発したくなってしまいます。

虚ろであるということは、決して書くという作業自体に抱く感慨ではなく、社会に対する影響力ということについてなのでしょうが、仮にどんなベストセラー作品を生み出したとしても、それが社会的なライフスタイルを変化してしまうほどの影響を与え得ないのかと思うと、どこかに虚しさを感じざるを得ないような気もしてしまうのです。

もちろん、だから意味がないというわけではありません。

虚業などとは言われてしまうけれども、その影響は人びとの心の中に沈潜していって、じわじわとその勢いを発揮していくものです。つまり実業は即効性があるかもしれませんが、どうしても虚業と言われる物書きの世界の効果というものは、かなりその威力を発揮するまでには、時間がかかるということなのです。 実に我慢強く、その時を待たなくてはならないということを感じています。

昨今は盛んに活字離れが喧伝されて、書籍の売り上げがかなり落ち込んでいるということが、報道でも伝えられています。ますます文字による影響力は、落ちていると言わざるを得ません。しかしとにかく物書きの果たしていることというのは、どんなに時代は変わっていったとしても、その時代の空気というものを、余すところなく語り伝えていくということです。つまりわたくしたちは、時代の語り部としての使命を持っているわけです。

これまで虚業と言われながら、何をしてきたのかと振り返ると、それは時代の語り部として、何を語ってきたのかということを考えるべきなのだと思うようになってきました。それゆえに著作物は、不可欠なのではないでしょうか。

わたくしはまた、じわじわと読者に浸透していけるような作品を生み出したいと思い始めているところなので、改めて虚業ということについて、考えるようになったのだと思うのですが、その結論は、あくまでも時代を語る人なのだと思うようになったところでした☆