読む世界 Faile(25)「タイトル考」

私が小説を書き始める時、いくつか改革したいと思うことがありました。その中でどうしても、変えたいものの一つが、「タイトル」のことだったのです。

若い頃私がよんでいた小説といえば、純文学という範疇に入るものばかりでいたが、そのほとんどのものの題名が、実にそっけない印象のものが多かったと思うのです。

あの頃はそれでも、絶対的な力を持っている作家のつけた題名ですから、それについて敢えて問題を感じるようなことはなくて、そのまま受け入れていました。

それに疑問を感じ始めたのは、脚本家として、映像にかかわるようになってからでした。

少しでも作品を観て貰えなくてはならないので、大変気を遣うことなのです。とても無造作にはつけられません。

少しでも視聴者の印象に残るように、しかもあまりにも無造作で無味乾燥なタイトルにはしないことを考えてきました。

時には文学的すぎるかなと思うようなものにしたこともありましたが、基本的には短い言葉で印象に残るようなタイトル・・・ちょっと気取ったいい方をすると、詩的を書くようななセンスで考えるように心がけていたのです。

そんな気遣いが染みついていたので、小説を書く時に先ず考えたのは、これまでのものが、ほとんど読者への気遣いがなく、作家が上から押し付けるような、ぶっきらぼうなものが多すぎるのではないかということに疑問を感じていたのです。

タイトルを見て、思わず読んでみたいという欲求に駆られるようなものにしなくては、新たな時代の流れにそぐわないと思ったし、これからはそうした読者のために配慮していかないと、そっぽを向かれる時代が来ると言って来ました。

残念ながら、昨今はそうした予感が的中したようで、いろいろな面で変化が表れてきているようです。

テレビのミステリー番組などが、新聞などに発表されているのを見ると、もうほとんど番組を見なくても内容が判ってしまうような紹介がしてあります。

かつては興味をひくようなタイトルを付けて、視聴者を引き付ける努力をしていたものですが、最近はここまで丁寧に内容を紹介しないと興味を持って貰えないのでしょうか。まぁ、少しでも視聴者に選択する材料を与えないと観てくれないという気遣いなのでしょう。そんな影響が、ついに出版にも伝播してきてしまったのでしょうか。かつて大変すっきりと整理されたタイトルをつけていた、「新書」という版型の本までが、まるで内容がすべて判ってしまうようなタイトルをつけた本が多くなってきています。

活字に対する受け止め方が、昨今はまったく変わって来てしまいました。そのジャンルもかなり広がって来ました。昔は限られたスターの芸能本はありましたが、昨今はお笑い芸人たちが、次から次へと出版をしてきますし、昔はほとんど小説などというものとは縁がないと思われた若い人たちが、携帯という電子機器を使って、携帯小説などというものまで登場してきました。

これは決していい悪いという問題ではないのです。

時代の変化によって、その波動の中から、必然的に飛び出してくるものです。

かつて私が「宇宙皇子」を出版した時、かなりいやな扱いをされたり、無理解な発言をされたりした経験がありましたが、今ではそんなことをする時代遅れでは、生きていかれないでしょう 。そんな中から、時代を動かすような作品が、どんどん出てきて、新たな潮流を生むかも知れないのですから・・・。

話を本題に戻しましょう。

昨今の出版物のタイトルの長さは、何を物語っているのでしょうか。心配なのは

さまざまな階層の、さまざまな世界の人による、さまざまなジャンルの登場や、さまざまな内容の出版物が、読者、視聴者への気配りをするあまり、彼らの質的低下につながらなければいいがなと心配しているのです。

次々と飛び出してくるものは、大いに結構ですが、それを選択するのは、結局読者側にあるということを忘れてはならないことだと思います。

さて、これからの出版関係者は、文化の牽引者と言われる人々は、どんな姿を想像しているのでしょうか。たかがタイトル問題でから書き始めたことですが、されどタイトルです。そこには様々な問題が籠められているように思えるのですが・・・。