読む世界 Faile(28)「漢字検定ブーム考」

昨今の漢字ブームは、どういうことなのであろうか。とにかく老いも若きも夢中になっています。

漢字の読めないと言われる為政者が登場してから、余計に漢字に対する関心が高まって言ったようですが、とにかく漢字に関係する仕事をしていることもあって、それに対する関心が高まるのは、大変いいことだと思っていました。

私の知り合いに、この検定で一級を取った上に、教授になる資格まで取っている女性がいることもあって、かなり関心も盛っていたのです。

そんなところに起こったのが、漢字検定協会の不祥事でした。 やっていることとは裏腹に、想像もしていなかった状況を知って愕然としてしまいました。恐らくあなたも唖然としてしまわれたことでしょう。

市民の関心が高まれば高まるほど、あの関係者は思うがままに、私服を肥やすことに専念できたわけで、実に皮肉なことだと思います。

そこで私は、ふと漢字ブームというものについて、考えてみることにしました。

大大雑把な言い方をしますが、あの検定ブームというものは、今、流行のゲーム感覚なのではないだろうかということなのです。 それはそれで決して悪いことではありません。そういった取り組みやすいものから、本格的に活字の世界に馴染んでいくということが考えられるからなのです。

日本では八十年代以降、あらゆる方面で、活字文化からビジュアル文化に変えてきました。今やほとんどビジュアルな表現が優先されています。一時は漢字によう表現は、忘れられてしまったかのような状態になっていました。

そんな中での漢字の復権を思わせる現象で、大変嬉しくなったのですが、そんな気持ちに水を差されるような事件でした。

しかし・・・。

検定ブームだからといって、漢字文化圏が復権したとも思わないし、とても思える状況になったともいえません。

活字文化の代表である小説の世界は、ほとんど息を潜めてしまっている状態であることは、あなたも実感として受け止めていらっしゃるでしょう。掛け声ばかりで、実が伴っていないという現状は、誰もが感じているところではないでしょうか。

そうした活字の本流は別としても、その支流にあるさまざまな分野のものまで、それほど賑わっているとは思えません。

それを考えると、ますます、あの漢字ブームというものは何なのだろうかと思うのです。あの高まりは、なんら活字文化に対する後押しにはなっていないのではないか。

冒頭で触れたように、あれは単なるゲームであって、それ以上の波及的な効果には、まったく関係のないものなのだと思うしかありません。

一年に一度京都の清水寺で行われる今年を象徴する漢字の発表というものも、所詮漢字のビジュアルな表現というパフォーマンスに過ぎないのだなと思うようになっているんです。

そうしたパフォーマンスで沢山の市民を巻き込み、漢字検定というものを煽り立てることでしか、貢献度はないとしかいようがありません。

私も世代から言うと、漢字世代ということが言えます。

どうしてもテレビのニュースでは満足できなくて、必ず新聞に目を通すのですが、この新聞の記事でさえも、つまらなくなってきてしまっています。昔味わったような、読み応えのある記事にめぐり合えなくなりました。

漢字検定ブームが、単なる検定ブームで終わってしまうのか、漢字文化への関心、漢字そのものへの興味を喚起していくようになるかは、大いなる関心事です。

そのためにも、協会の不祥事は一刻も早く払拭して出直して貰いたい。そして漢字に対する理解が、ただゲーム的な興味で終わらないようにしてもらいたいものだと、切に祈らざるをえません☆