〈人工言語〉の宗教戦争

Completed on 2000.08.28



 エスペラント語の勉強をしている。

 〈人工言語〉に触れてみると、他にもないのかなと好奇心が動き出す。 一説には、これまで100を数える〈人工言語〉が開発されてきたのだそ うだ(古ぅいところではライプニッツなんかが有名ですね)。その中で 現在も生き残っているのがいくつあるんだろう。そんなとき、ああウェ ブってやっぱり便利だよね、検索エンジンなどで探すと、いくつか見つ かる。

 ぼくが調べた限りでは、ノシロという言語と、Ido(イド)という言 語のふたつが見つかった。それぞれを扱っているページをすこし覗いて みたのだけれど、それでちょっと考え込んでしまった。そのことを書く。 プログラマーは多くの種類の〈宗教戦争〉に巻き込まれる危険と日日隣 合わせで生きているようなところがあるのだけれど、こんなところにも また〈宗教戦争〉があったんだね、というお話である。

 本題に入る前に、言語についての自分の立場を明確にしておこう。

 まず、あらゆる自然言語に対して〈中立〉のつもりでいる。好き嫌い はない。特に肩入れをしている言語もない。ある言語のある側面を取り 上げて優劣や好悪を述べる気はない。むしろ、あらゆる言語が好きで、 できるなら世界中のことばを学んでみたいものだと思っている。

 プログラミングの世界なら〈マルチリンガル〉は当たり前のことで、 職業プログラマーを名乗りながら「ひとつの言語しか知らない」なんて いうヤツがいたら、相当なタコか、よほど狭い世界で仕事をしてきたか のどちらかと見て間違いない。

 これまでに勉強した外国語といえば英語とフランス語だが、どちらも 好きともいえるし嫌いともいえる。ドイツ語はごつごつして聞こえるの かも知れないがだから美しくないとも思わないし、トスカーナ地方のこ とばは流れるように響くのかも知れないがだから優れているとも思わな い。日本語は母語なので意識もせずにこれで考え、喋り、文章を書いて いる。振り返ってみると、嫌いではないと思う。が、格別に好きだと意 識したこともない。エスペラント語に手を出したのも、〈中立な国際補 助語〉を学びたくてというわけではない。

 もうひとつ、用語について。

 「自然言語」という用語は、ぼくにとっては「形式言語」の対義語と しての使い方の方が馴染みがあるので、〈人工言語〉に対することばと して、本稿では「民族語」を用いる。とりあえずそうしてみる。

「他のどの言語にもない特殊な〈活字〉」って……

 さて、 Idoという言語を宣伝するページがあって、この中で、「エスペラ ント語と比べてイド語が如何に易しいか」を語っている。この文章を読 んでいたらあれこれ疑問符が浮かんできてこの一文を草する気になった。 これは決してエスペラント語を擁護するものではないし、イド語にいちゃ もんをつけるものではない。

 まず、著者(無署名)は次のように言っている。無許可で引用するの は危険な気もするが、原文でないと意味がないので、敢えて引用する。

エスペラント語は特殊な文字を6つも持っており、これらは他 のどの言語にも無い特殊な活字であるために、貴方が何かを 印刷したい時には特別のお金が掛かる事になります。 またインターネット上でLatin3という活字を使えばお金 はかかりませんが、今度は貴方が乱雑な情報を並べ替えしたい時に、 高いお金を出して購入した米国製のソフトウェアがエスペラントの アルファベットには勿論、全く対応していないという問題があります。 当たり前の事ですけどね。
イド語では英語と全く同じアルファベットを使いますので、 米国製の高価なソフトウェアが総て全く問題なく使えます、 勿論、並べ替えも問題ありません。
 「どの言語にもない活字」「インターネット上でLatin-3とい う活字」ということばの使い方で、まずがくっと来て、もう相 手にしないのが正しいのかも知れない。これでこの人が文字とか文字コー ドとか書体とか字体とかいう問題領域に無知であるか無関心であるか不 勉強であるかのいずれかであることが判る。

 それはともかく、英語のアルファベットと比べて、エスペラント語に は字上符という記号のついた文字が6つある。それらが「他のどの言語 にもない特殊な文字」だと言う。しかしこの言い方は少少おかしい。そ んなことを言ったら、フランス語の「セディーユつきのC」もまた「他 のどの言語にもない特殊な文字」だということになるだろう。キリル文 字もギリシア文字も「特殊な文字」ということでなければならない。そ してロシア語もギリシア語も「印刷したい時には特別のお金がかかる」 ということになる。

 別にこれ自体は間違っていないが、これではまるで「コンピューター の世界は英語中心だ。だから各国語独自の文字なんか使うのを止めて、 英語のアルファベットだけで記述できる言語を使うべきだ」と言ってい るように見える。「わざわざ韓国語を勉強してるんだって? お金がか かるよ、イド語にしておきなさい」と言っているのと同じなのだ。

 われわれにとってもーっと明白な例を挙げれば、先の命題(が含意し ている前提)を真とするなら、日本語の平仮名は「他のどの言語にもな い特殊な文字」ということになる。じっさい、「特殊」であることは間 違いないし、そのために印刷に限らずコンピューターを使う上で「特別 のお金がかかっている」のも疑いのない事実だ。ならば著者はエスペラ ント語との対比ではなく日本語との対比で「イド語は優れている」と言 えなければ筋が通らない。

 「インターネット上でLatin3という活字を使えば」の箇所は、 文意が不鮮明な上に乱脈の疑いなきにしもあらず(こういうことを言い 出すと泥仕合になるのだろうが、まあいいだろう)。単にコンピューター に関する知識が曖昧なだけなんだろう。

 まず、これはインターネット云々ではなくウェブブラウザーないしOS の問題だろう。「Latin-3という文字コードセットの書体を使えば金が かからない」と恐らく言っているのだと思うが、まずフォントを入手す る必要があり、無料のLatin-3 フォントがどれだけあるのか。フォント をインストールできたとしてもウェブブラウザがLatin-3文字コードセッ トを正しく扱えるのか。無条件に「金がかからない」とは断言できない と思う。

 ちなみに、GNU Emacsのヘルプによれば、Latin-3という文字コードセッ トは次の言語で使われる文字を包括している。:

アフリカーン語(Afrikaans)、カタロニア語(Catalan)、 オランダ語、英語、エスペラント語、フランス語、 ガリシア語(Galician)、ドイツ語、イタリア語、マルタ語(Maltese)、 スペイン語、トルコ語
 これらの言語が多く使われている地域でそれらの地域用にローカライ ズされたコンピューターが出荷されているとすると、お金と文字の表示 とに関してイド語の優位性はなくなることになるのだろうか。日本に住 んでいて日本向けに局所化されたコンピューターを使っている人には 「Latin-3でなければ使えない言語なんて」という主張は通用するかも 知れないが、地域限定の優位性なんて、いずれにしろ大したものではあ るまい。

 いまのコンピューター文化、ないし文明がとことん「英語中心主義」 で固められているのは紛れもない事実だ。だから、非英語圏の人人はコ ンピューターで自分たちのことばを使おうとするためにとんでもない努 力を重ねてきて、それは今も続けられている。日本語だって例外ではな い。米国生まれのPDAがすごく使いやすくて便利だ、でも日本語環境が ない、だから日本のユーザーが頑張って日本語環境を自作したという事 例はつい最近のことだ。こんな事例はいくらでもある。

 英語中心主義を認めちゃうなら、「特殊な文字があるから云々」と言っ てしまってもいいだろう。しかしそれを言ってしまうことは、コンピュー ターで日本語を使うことを否定するのと同じくらいのものすごいことな んだという認識がここには感じられない。

 「I18N」(国際化)とか「L10N」(局所化)とか言われて久しいが、 まだまだ不備だらけであろう。現状を冷静に把握して、「この現状では こうするのが一番だ」という態度を、ぼくは決して否定するものではな いけれど、それが最良の選択であるかのようなものいいは止めた方がい い。コンピューターは、どんなに特殊な言語のどんなに特殊な文字も何 の苦労もなく扱えるようになっていくべきであり、なろうとみんなで努 力しているのだ。イド語に関してだけこんなに無邪気になられても困る。

 たとえば、シアトルもののOSはエスペラント語にはまるで配慮をして いないように見える(対応している言語系の数も、決して多くはないよ うに思える)。この場合、一番望ましいのはシアトルに向かって「エス ペラント語に対応せよ!」と働きかけることだろう。それができない場 合(もちろんそれと並行してもいい)、自分たちで環境を作ってしまう、 ということを、コンピューター好きはやっちまうものなのだ。別にコン ピューターが好きでなくとも、必要を感じた人はやる。「英語のアルファ ベットで足りる言語を使おうよ」というのも立派な主張だとは思うけど、 「環境がなければ、自分たちで作る」という姿勢の方がぼくには好まし い。ぼくの感想なんか聞いてないって? ごもっとも。

 イド語の素晴らしさを説くのに文字のことを取り上げるべきではなかっ た。著者はイド語を持ち上げたい一心で勇み足をしてしまったのだろう。 イド語の優位性を説きたいばかりに、かえって「英語中心主義」のお先 棒を担いでしまったようだ。たかが人工言語ひとつを持ち上げるのに、 英語を除く全世界の民族語を敵に回すのは莫迦莫迦しくはないだろうか。

 余談だけれど、「実際に、ウェブ上でエスペラント語を扱いたい時、 みんなどうしているのか」については、次のような解法がとられている ようだ。

 代用表記というのは、要するに現状容認派。もちろんそれが最良と思っ てやっているわけではあるまい(きっと)。

 ぼくはどうしようかと考え、先の 「2000年8月15日のエスペラント語」では「文字xを後置する」方式 を使ったが、今では「文字hを後置する」方式にしようかと考えている (ちょっと変形しているけど)。この方式は1965年出版の『エスペラン ト小辞典』(大学書林)で触れられているもので、歴史がありそうに感 じた。これによれば「外国電報を打つ時にはこうしてもよい」とある。

美しい響きって……

 さて、先の引用に続けてこんな文章が続く。

また発音は、ジャ−ジ−ジュとヂャ−ヂ−ヂュの区別が無い等 とエスペラントより更に易しくなっており、エスペラントが幾分、 独語的にゴツゴツした感じに聞こえるのに対して、全くトスカナ 伊語の様に美しく響くのも大変嬉しい所です。

 著者にとっては、ドイツ語(まさか「ひとりごと」の意味の独語では あるまいな)はごつごつして響くから美しくない、だから避けたいもの であるらしい。

 異なる言語間で「ことばの美しさ」(音韻であれ、字面であれ、文章 であれ何であれ)を比較するのは莫迦莫迦しいと常常思っているのだが、 この著者はその愚をさらりとやってのけている。著者はイド語にトスカー ナ地方のことばにも似た美しさを感じ、それも選んだ理由のひとつかも 知れないが、それはこの人にしか当てはまらない事情だ。

 音韻の美しさなんて所詮主観的な感想にしかならず、個人の印象を語 る以外には大して意味がない。仮に世界の自然言語の中で最も美しいの は言語A、言語Bはそれに劣る、ということが客観的定量的に評価し得 たとしても、言語Bを母語とする人は「じゃーこれから言語Aを使おう ね」なんて気軽に乗り換えられないし、言語Bを使う人たちはそれで 「言われのない差別」を被ることになる。

 仮に音韻の美しさを定量的に評価できたとして、それで世界中の自然 言語に序列をつけられたとしても、音韻の「美醜」と言語の「優劣」は まったくの別物だろう。何の関係もないものに価値判断を結びつけて、 しかもそれが客観的に正当であるかのように主張するのは、典型的な 「差別」の構造だとぼくは見ている。差別反対などと叫びはしないが、 優劣のない(優劣をつけることに意味のない)場で優劣を競うのは愚か しい。

 ドイツ語(「ひとりごと」ではないと思うのだ)の響きを美しいと思っ ている人で「国際語」も学んでみたいなと思っている人や、トスカーナ 地方のことばを醜く思っていて死ぬほど嫌っているけど「国際語」を学 んでみたいなと思っている人が、上の文章を読んで「イド語は止めてお こう」と断じたら、著者はどうするつもりか。貴重な潜在利用者を自分 の軽率さのせいで失っちゃうんだぜ。世界イド語協会から永久追放にな るかも知れないぞ。ぼくの知ったことではないけど。

【付記】ある本を読んでいたら、ある人が初めて日本語を聞いた印象は 単調でまるで機関銃の音のようだったそうだ、と書いてあった。
トスカーナ地方のことばを好ましく感じる著者は、エスペラントを否定 するのと同じように、日本語なんかさっさと捨ててしまったらいいので はないだろうか。余計なお世話だって? ごもっとも。

男性と女性の間で

 エスペラント語にある「形容詞語尾が名詞と歩調を合わせる必要」 (原文)は、「数と格の一致」というのだけれど、これはぼくも鬱陶し いと思う。慣れるまでに時間がかかりそうだ。

 しかし、これは単に厄介なだけだろうか。対格のおかげで語順の自由 性を確保している点はエスペラント語の〈長所〉ともなり得ているよう にも思える。考えてみれば日本語は格助詞というものが似たような働き をしており、そのおかげで文意を損なわずにある程度自由に文を組み立 てることができる。格変化を排除すれば語順は固定されるが、それを 「より簡単だからいいのだ」と言えるのかどうか。イド語も完全に切り 捨ててはいないようだけれど、「目的語を動詞の前に出す時に限り、対 格に変化する」というのは、そんなに〈論理的〉なんでしょうか。

 「エスペラント語は男性名詞から女性名詞を作るので男性中心主義」 とは、そう指摘されたらその通りと言うしかないのだろうな。もっとも、 「男性中心主義」と言い切ってしまうのは設計者の意図ではないと推察 されるので気の毒な気がするけれど、民族語でも意図していないのに 「性差別だ」と言われることがあるから、非難されても仕方ないのかも 知れない。

 エスペラント語にはいわゆる「名詞の文法上の性」は存在しない。著 者が指摘しているのは「意味上の性」の問題だ。「婚約者」を意味する ことばがfiancho、しかしこれは「女からみた婚約者(つまり、通常、 男)」を意味し、「男からみた婚約者」はfianchinoという。同様に、 未婚男性はfrawlo、未婚女性がfrawlino。

文字wは、「字上符つきu」の、ぼくなりの代用表記。 uhだと音が伝わりにくいと思い、文字wを採用してみた。
【付記】その後、また「cx/ux」型に変えた。
基本語をみな女性にしておけばこんなことは言われなかっただろうに (笑)。あながち冗談でもなくて、生命の世界は「女性」を中心に動い てるんだから、いま〈人工言語〉を創るならそうする方がゼッタイに 「理にかなっている」でしょう。

 そもそもたとえば「婚約者」を表すのに男性、女性それぞれで名詞を 設ける(あるいはいちいち「女性形」を導出する)ことの方が、ぼくに は不可思議だ。どっちもfianchoでいいではないか。今からそういうよ うな使い方はできないものでしょうか。語義をちょこっと変えてしまう わけだ。これは危険なことだろうか?

 続けて「エスペラント語のダメなところ、イド語の優れているところ」 の主張が続く。中に、「エスペラント語では重要な場面での多義語が幾 つか認められ、意味が不明確」であるという文と、例がある。「〈人工 言語〉における多義性」は別のところでも刺激された問題であり、別に 稿を改めて記してみたい。

 「造語法の欠点」は、ぼくも薄薄感じないでもない。論理的でないと 感じられるところがちょこちょこあるように思う。論理的、というのは、 ぼくにとっては、有限個の推論規則を形式的に適用して意味の理解に達 することが可能、という意味だ。が、まだ初学者になったばかりなので この話題にも踏み込まないことにする。

イド語

 イド語についてぼくが何ら偏見を持っていないことは強調しておく。 まったく知らないのだから偏見の持ちようがない。

 なかなか魅力ある言語のように見える。著者がもっと上手な紹介をし たのだったら惹きつけられていたかも知れない。エスペラント語より 「優れている」のかどうかは今のぼくには判らないが。

 残念なのは、日本語による文献が少なそうなことだ。ウェブ上にもそ う多くないように見受けられるし、独習するなら手軽に持ち歩ける本が なければ困る。英語経由で学ぶくらい熱心になる義理もないし、蛍の光 を頼りに勉強するほど勤勉でもない。(プログラム言語もそうだが、ひ とつの言語が普及し発展するには「コミュニティ」の存在は欠かせない と思う)

 大学書林という、語学の世界ではメジャーなのではないかと思われる 出版社がある。何十か、あるいは100を越えるかも知れない民族語の参 考図書をいろいろなシリーズとして出版している(「四週間」シリーズ、 「基礎1500語」シリーズ、「会話練習帳」シリーズなど)。エスペラン ト語の本を出してもいるので、あるいはここならと思ったけれど、探し た限りでは見つからなかった。

 『4時間で覚える 地球語エスペラント』(白水社)という本の中に Idoという〈人工言語〉の名称が出てくる。それと同じ言語だとすれば、 イド語というのは少なくとも80年くらいの歴史を持っていることになる。 それだけの歴史がありながら、参考図書がろくにないということは、日 本では大した数の利用者がいないということだろう。残念なことだ。

〈人工言語〉にとって、論理的であること

 ところで、著者は頻りと「論理的である/ない」を気にしている。少 なくとも「エスペラント語に比して論理的にデザインされている」こと をイド語の優位性の根拠としている。

 民族語を論じる時に、まぁそもそもふたつの民族語のどちらが優れて いるかなんて不毛な議論はあまりしないものだけれど(全くしないこと はない)、「その言語の文法が論理的か否か」という観点は設定しない と思う。たとえば日本語で……という話は、ヤバいので、止めておく。 わが国では過去何度か、そーゆー不毛な議論が起こったことがあったよ うなのだ。日本語なんか止めてフランス語を国語にせよなどという暴論 を吐いた人もいると聞く。

 民族語を題材にした時にはしないことを、〈人工言語〉に対してはど うしてするのか、不思議だ。〈人工言語〉だとどうして「文法が論理的 であること」が言語として優れた形質であるかどうかの基準のひとつに なるんだろう。

 どの自然言語の文法も多かれ少なかれ「論理的でない」要素を含んで いる。これにはいろいろ理屈をつけられる。民族語は何よりも歴史の共 有と堆積と淘汰で形成されてきたから、という理由もあるだろうし、な んといっても、人間の精神活動は非論理的な要素を多多含んでいるから、 というのは大きな理由だろう。

 一方で、どこをとっても論理的でない文法、というのはあり得ない。 自己矛盾だからである。そして人間が規則の体系を描く時にはどうしたっ て論理が入り込んでくる。

 そういうわけで、〈人工言語〉の文法を非論理的にデザインする など、人間にはできないだろう(もちろん完全に論理のみで構成す ることもできないだろう)。〈人工言語〉が論理的な(規則性の高い) 文法規則を持つのは当たり前なので、あとは程度の問題なのではないだ ろうか。

 では、どれほど「論理的」であれば容認できるのか、それとも論理的 であればあるほどいいものなのか、ということが、検討されなければな らないだろう。これは今のぼくには何とも言えない。プログラム言語の 場合には、「がちがちに論理的、極限までムダがない」よりは、適度に 冗長さや遊びを入れた方がデザインとしてはよくなる、ということは言 える。

 「より論理的」だから優れている、とするのはいいけれど、それを定 量的に評価するのは難しいと思える。たとえば例外や曖昧さを排除する ために推論規則がむやみに多くなり、却って憶えやすいとは言えない、 といったことになった場合(プログラム言語ではこういう事態が生じる ことが実際にある)、それでも「優れている」と言えるのかどうか。

〈人工言語〉の永遠の聖戦

 そもそも、どうして〈人工言語〉となると、優劣を競おうとするんだ ろう。なぜ〈人工言語〉だと好き嫌いを理屈をこねて論じるのだろう。

 きっと〈人工言語〉だから、なんだろうな。

 〈人工言語〉は人が創ったものだから、創作のように、工芸品のよう に、扱うことができる。そうしていいような気持になってしまう。自分 ならこうするのにとか思う。だからいいの悪いのを言いたくなってしま うんだろう。でも、好き嫌いというのは理屈を越えた部分があるから、 好き嫌いで対決するとタイヘンなことになる。

 コンピューターの世界、プログラミングの世界にも同じようなことが あって、テキストエディターではどれが一番かとか、プログラム言語で はなにが最も優れているかとか、そういうクダラナイことで始終騒ぎが 絶えない(らしい)。初めに触れたが、こういうのは「宗教戦争」と呼 ばれ、巻き込まれるとひどい目に遭う(らしい)。

 なんで「宗教戦争」かというと、お判りの人もいると思うけれど、主 義信条趣味嗜好に凝り固まって自分の主張だけを繰り返すから。そこに は議論を通じて相手の考え方を知ろうとか、お互いに歩み寄ろうとか、 一致点を見出そうとか、差異を認識して理解を深めようとかいう考え方 がない(ようだ)。故に「聖戦」とも呼ばれる。共存などはあり得 ないのだ。プログラム言語に限れば、形式言語の世界なので、「ある水 準を越えていれば、どのプログラム言語も同等の記述能力がある」こと が(確か)証明されている。あとはホントに好みの問題なのだ。

 そう、本当に、好みの問題でしかないのではないかと思う。肩入れを したければすればいいが、その「優劣」は決定的なものではあるまい。 少なくとも、ひとつの言語の優位を主張するために「言語差別主義」と でも言えるような主張を展開するのは莫迦げている。

 エスペラント語は決定的、理想的な〈人工言語〉かと言えば、そうで はないだろう。どんな〈人工言語〉でもそうなるとも思うが、改良の余 地は常にあるだろう。イド語はその試みのひとつだろう。

 ではイド語は決定的、理想的な言語なのか。そうではないだろう。 〈人工言語〉である以上、改良の余地は常にあるだろう。

 イド語がさらに改良された場合、先の著者はどうするのだろう。イド 語を捨ててその言語の肩を持つのだろうか。それともイド語に義理立て して、イド語を擁護するのだろうか。

 いずれにせよ、頑張って〈聖戦〉を続けていって欲しいものだ。




 最後の最後に、「ところでエスペラント語ってどんな代物なの?」と いう人のために。

 ヤフーなどの検索エンジンで「エスペラント」などと入力して検索す ると、何かしら該当するものがあると思うので、適当に見てみてくださ い。 次のページは日本を代表する組織で、リンクを載せても怒られる ことはないと思うので載せておきますが、いきなり「平和」だの「平等」 だのいうことばが出てくるので肌に合わない人もいるかも知れません。

日本エスペラント学会





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