ランダムアクセス 2002

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1月

『忍法創世記』 山田風太郎、出版芸術社、ISBN4-88293-197-4

 風太郎忍法帖のうち唯一単行本化されていない作品、だそうだ。

 面白かった。が、「唯一単行本化されなかった」のも判る気はする。

(01/03)

『柳生十兵衛死す(上下)』 山田風太郎、小学館文庫、
ISBN4-09-403561-3, 4-09-403562-1

 風太郎忍法帖シリーズ最大のヒーロー柳生十兵衛を、作者は殺して忍 法帖にけりをつけたかったそうだが、ふさわしいアイデアがなく延ばし 延ばしにしていたそうだ。それがついにいい手を見つけて書いたという のがこれ。

 圧巻。脱帽。最初のうち、あれでやられるのかなと思っていたがそれ はスパイスに過ぎず(スパイスにすらなっていないかも)、おおーっと 思ううちに驚愕の結末が訪れる。そうか、十兵衛を殺すにはこれしかな いか。

 いやまったく、着想力といい構成力といい筆力といい、凄い小説家だ。 去年七月に亡くなったのだが、惜しい人をなくした。

(01/05)

『わかもとの知恵』 筒井康隆、金の星社、ISBN4-

 新聞の書評欄で見つけたんだと思う。

 こういう「知恵もの」は大好きだ。

 中学時代、図書室の同様の知恵袋本をむさぼり読んだのを思い出した。 (しかし、それらの本は内容が古くて後から思うと1950年代くらいのこ とを書いてあったんだよな。なんでそんなものが中学校の図書室にあっ たんだろ)

(01/05)

『剣客商売読本』 池波正太郎ほか、新潮文庫、ISBN4-10-115683-2

 ふと本屋で見かけて気になっていた。

 題名どおりの本だが、こうして全体を俯瞰するのも面白い。おかげで 中断していたこのシリーズを読み始める気になってしまった。

 (ぜひ、読まねばならぬ……)

 このことであった。

(01/13)

『剣客商売 庖丁ごよみ』 池波正太郎、新潮文庫、ISBN4-10-115677-8

 というわけで、池波正太郎の作品であればこっちの方も気 になるのであった。

 読んでると、ほんとにうまいものが食いたくなるよな〜

(01/16)

『剣客商売 隠れ蓑』 池波正太郎、新潮文庫、ISBN4-10-115661-1

 というわけで、シリーズ読書再開。

 とはいえ、以前どこまで読んだか忘れており、恐る恐る買ったのだが、 これはたぶん既に読んでるな(苦笑)

 いやぁ。読むとはまりまふね。

 (つい、まねをしたくなる……)

 のである。

(01/19)

『危機と戦う』 小川和久、新潮社、ISBN4-10-450101-8

 正月休みに読み始めたのだが、ほかのあれを読んだりこれを読んだり でついほったらかしてしまった。

 こういう本を読む時に気をつけなければいけないのは、著者の言うこ とを鵜呑みにしないことだ。もちろん著者は自身の立場で確かなことを 書いているのに違いない。が、立場が変わればものの見方も変わる。読 む側としては著者の立場に振り回されないように気をつけなければなら ない。

 しかし、それにしても、日本という国が「(国の)危機」についてろく に考えもせずに50年やってきたことがよく判る。そして、国の安全、国 民の安全、国の責任、国民の責任ということを論理的に考えずにやって きたことも。それは「政府が悪い」と言えば片がつくようなものではな いのではないか。日本人という民族自体が、そのような思考法ができな いのではないだろうか。

 本書で言われていることと、「危機管理」と直接は結びつかないが太 平洋戦争に関する山本七平の発言などとをつきあわせると、そういう想 像ができてしまう。

 「平和バカ」とでも言うべき人人がいて、ぼくもどちらかといえばそ の一人だが(この数年それから脱却すべくあれこれ考えているが)、そ んな人たちのいう「戦争反対」「愛と平和」「非戦」は、それ自体は大 切だし尊いのだけれど、やはり、現実無視というしかないように思える のだ。

(01/20)

『剣客商売 狂乱』 池波正太郎、新潮文庫、ISBN4-10-115664-6

 これも読んだ気がする。

 しかしだからつまらないということではない。本代が無駄になったとも 思わない。いや、買う前に気づけばさすがに控えただろうが、買った後で 気づいても無駄だとは思わない。それくらい

 「おもしろい……」

 のである。(こればっか)

(01/22)

『剣客商売 待ち伏せ』 池波正太郎、新潮文庫、ISBN4-10-115666-2

 ここから本番だな(笑)

 池波正太郎は面白いのでついつい止まらなくなる。

(01/25)

『剣客商売 春の嵐』 池波正太郎、新潮文庫、ISBN4-10-115667-0

 池波正太郎が面白いのはいいのだが、読んでいるとうまいものを食い たくなるのが困る。

 さいわい今は冬、ということで適当な材料で小鍋立てを

 「じっくり、味わえる……」

 のであった。(飽きないらしい。鍋も池正のまねも)

(01/25)

『VPN 第2版』 Charlie Scottほか、オライリー・ジャパン、 ISBN4-900900-85-0

 機密を要する電子メイルやスケジュールなどの情報は外部ネットワー クからアクセスできるべきではない。それはそうだ。しかし、在宅時・ 長期外出時に、既存の方法ではLANに接続できないという事例が実際に あった。これは好ましくない。

 というところから必要性を感じ、また興味も持って読んでみた。ひと くちにVPNといってもさまざまな実現方法があることが判る。どれにす るのが組織の現状から見て、また将来を見越して最もよいのか判断には 迷うが、面白い技術でもあり、またいずれは必要になるものでもあるの で、ちょっとやってみたくなっちゃうね。

(01/30)

2月

『システムづくりの人間学』 G.M. Weinberg(木村泉訳)、共立出版、 ISBN4-320-02281-5

 『要求仕様の探検学』を再読していたらあちこちで参考文献として挙 がっていたので読んでみた。

 システムづくり(分析/設計/合成)にかかわる随筆集で、多くはほ かの本で言っていることに通じている。だからすでにワインバーグのほ かの本を読んでいるなら、敢えて読まなくてもよいと思う。

 でも、いいことがたくさん詰まっている。この本もまた読むに値する。

(02/07)

『コンサルタントの秘密』 G.M. Weinberg(木村泉訳)、共立出版、 ISBN4-320-02537-7

 『要求仕様の探検学』を再読していたら参考文献として挙がっていた し、いずれは読むべき本である。

 ワインバーグ主義者、ワインバーグ教徒、ワインバーガー(笑)を自認 するぼくではあるが、数年前には食指は動かなかった。今までコンサル タントを軽蔑していたのだ。たぶん、ぼくの心持がコンサルタントにシ フトしつつある(あるいは、した)のだろう。

 著者いわく、「コンサルタントである人、職業コンサルタントを目指 す人、コンサルタントを頼む人」のための本だという。「(職業・非職 業を問わず)コンサルタントであろうとする人」のための知恵が詰まっ ている。それは裏返せば依頼者のための知恵でもある。

 それにしても、コンサルタントたらんとする努力のなんと苛酷なこと よ。コンサルタントなどなるものではないな。いやまじで。

(02/11)

『男の肖像』 塩野七生、文春文庫、ISBN4-16-733702-9

 塩野七生ファンなので、こういう本も読むわけである。

 一番興味があったのは、北条時宗。日本という国が領土を侵されたの は歴史に残っている中では二度ある(筈)。その中の一度である「元寇」 に対した武人政治家である。

 塩野七生は「彼を主人公にすれば、ヨーロッパに売れるテレビ番組が 作れる」という興味で筆をとる。氏が描き出す時宗は、中学や高校の教 科書で習うのと違って(でもどんなことを習っただろう?)、また世間 一般に言われるのと違って、現実を直視した醒めた政治家の姿である。 神国日本とか呟いてのほほんとしていた当時の指導者層にあって異色、 だったのではあるまいか。

 なるほど、「神風」という幸運はあったのだとしても、幸運だけでは 「未曾有の国難」を乗り切ることなどできない。冷静な判断と国を挙げ ての精神物質両面の準備、そして闘いがまずあった筈だ。ちょうど台風 が来たおかげで被害は少なくて済んだのかも知れない。あるいは台風が なければ侵略されていたかも知れない。しかし、台風に頼ることはしな かった筈だと思う。最初から神頼みなのでは、神だって見放すのではな いか。ここのところを、二〇世紀前半の日本人(軍部)はまるで理解し ていなかったか、自分の至らなさを神頼みにすり替えやがったのだろう。

 ほかに、織田信長評や西郷隆盛評もいかにも塩野七生らしい切口で唸 らされる。この人、日本の歴史を書いても面白いだろうなあ。

(02/13)

『いつでもどこでもネコ町物語…ナーゴ』 モーリーあざみ野、NHK出版、 ISBN4-14-005371-2

 友人にネコ好きがいて、この本を紹介された。なんとなく気になって 買ってしまった。

 ネコ絵本、とでもいう感じのものだが、ちょっと形容できない。イタ リアにある小さな町(島でもある)、ナーゴに作者が暮らしているとい う設定で、その町のネコたちを綴るという体裁。

 読んでいくといろいろと?が出てくるのだが、それを言うのは野暮と いうものなのだろう。

 描かれているネコたちはいずれもかわゆい。こういう絵も悪くないな。

(02/15)

『内田金玉』 内田春菊責任編集、イーストプレス、ISBN4-87257-258-0

 売り場で平積みになってるのを目撃して十秒で買うことに決めた。

 内田春菊はかつて好きだった。今でも嫌いではないけれど、もう作品 を手にとらなくなって十年ほど経つ。一九九〇年頃に絵柄が変わった。 作風も変わった。きっと、ちょうどその頃それまで隠していた「自分」 をさらけ出すようになったんじゃないかと思う。

 これは内田春菊の作品集、ではなく、「金玉(きんぎょく、と、タイ トルでは言ってますが)」をテーマに、内田編集長が依頼した原稿を集 めたもの。とり・みきがやはり面白い。岸田秀が出席している座談も面 白い。そのほかの作品(文章、マンガ、座談)も面白い。

(02/16)

『CMMによるプロセス改善入門』 Joseph Raynus(富野壽・訳)、共立出版、 ISBN4-320-09732-7

 CMMはこれまで大雑把にしか知らなかったので、こざっぱに知ろうと 読んだ。3300円は高価いなあ。ちょこざっぱ程度の知識は得られたかな。 ちなみに、CMMの解説本ではない。「プロセスを改善することは重要で あり、時に組織にとって生命線である。それにはCMMを援用するのがよ い」という態度か。しかし「CMMを実施することを目的にしてはいけな い」ともきっぱり言っている。そのとおりだろう。

 ワインバーグ主義者なもので、この本で言っていることにはさして驚 かない。ただ、このように方法論として統一感が与えられると、確かに ぱっと見て気持はいい。

 それにしても、カタカナ語が多い。英字略語も多い。CMMを敬遠する 向きはこの辺りも嫌ってではないだろうか。だって「コモンフィー チャー」とか「コミットメント」とか言われたって、何のことか判らな いじゃん?

(02/22)

『ルネサンスとは何であったのか ――塩野七生ルネサンス著作集1』  塩野七生、新潮社、ISBN4-10-646501-9

 ついにこのシリーズにたどり着いた。去年見かけて、気にはなってい た。といっても、たぶんこれだけが書き下ろしで、他は過去の著作を集 めたものであり、『海の都の物語』と『神の代理人』以外は読んでいる から、そんなに焦らなかった。

このアンソロジーはちょっと唐突だった。思うに、中公文庫からどうや ら塩野七生の著作が姿を消したようだ(これも未確認情報)。『ルネサ ンスの女たち』や『わが友マキアベッリ』が含まれていたのだが、何の 根拠もない邪推だけれど、その版権を新潮社が引き取ってこのシリーズ を作ったのではないだろうか。

 以外は読んでいるのだが、ルネサンスがどういう時代でありどんな 「意味」があったのか、ぼくは判っていなかったな。

 塩野七生が惹かれたこの時代が「何」だったのか、おかげでほんの少 しは見えてきた気がする。それは実は今のわれわれにも無縁ではないの だとも思ったりする。

(02/24)

3月

『Rubyプログラミング入門』 原信一郎(まつもとゆきひろ監修)、オーム社、 ISBN4-274-06385-2

 プログラム言語の解説書ならば、原作者が書いたものを読むに限る。 というのが持論である。言語仕様や使い方だけでなく、設計思想まで垣 間見える(ことが多い)からだ。そういう意味ではRubyなら『オブジェ クト指向プログラミング言語Ruby』を真っ先に読むべきなのだろうが、 困ったことに大部の本であって、電車の中で立ちながら読むには辛いし、 持ち運ぶこと自体が苦痛になりそうだ。(もっと小さく薄い本にしてく れ)

 というわけで、こちらの方も買ってみた。これもまた大きく、厚く、 重い。Perlのらくだ本辺りからだろうか、プログラム言語の解説書が厚 く重くなってしまった。言語の仕様や機能も膨れているのだろうけれど、 ヨノナカもフクザツになってるからか、とぼんやり思ったり。

 「プログラミング経験がなくRubyも触ったことがない」という人を読 者に想定しているようだけれど、だとすると、シッパイしてるんじゃな いだろうか。未出の概念や用語が平気な顔をして出てきてそれで説明し たりしている。あるいは説明に使っているたとえが実はプログラミング を知っていないと理解できないものだったり。「素人」を甘く見てるん じゃないだろうか。__END__DATAの説明 で(これ自体はPerlにもあるし機能的にはBasicにも同じようなものが あるんだが)、「__END__以降の行を内容とするFileオブ ジェクトの内容を定数DATAでアクセスすることができる」 と言われて初心者は判るのだろうか、オブジェクトなんてものをこの本 で初めて目にしたくらいの? それでなくとも、記述のバランスが悪い。 たとえばBEGIN ブロックについては「複数書くことができる」とあるだ けだが、ENDブロックは「複数あると、先に書かれているものほど後に 実行される」と説明されている。 BEGINブロックはどーなるんだよ。

 とはいえ、正規表現やクラスの説明辺りになると、説明が生き生きし て的確に感じられる。著者の本分に近いからだろうか。ともあれ一読者 (兼買い手)としては、オブジェクト指向云云についてはもっとよい本 を紹介するに留めて、さっさとRubyそのものの話を(それだけに絞って) して欲しかった。そうすればもっと薄く軽くなり、もっと安くなっただ ろうに。金を払ってこなれない説明と文章を読まされて重い思いをさせ られるのはたまらないな。

 言語本となると評価が辛くなるみたいで、どーもすいません。難点は 随所にありつつも、Rubyという言語を豊富な用例で知らせてくれる貴重 な本である。誉めことばになってませんか(笑)

(03/02)

『dRubyによる分散オブジェクトプログラミング』 関将俊、アスキー、 ISBN4-7561-3961-2

 分散処理にもそこそこ興味があるので読んでみた。N年前なら自分で プロトコルを考えようとしたところだろうけど、いい時代になったもの だ。でも真面目に読んだのは最初の4章くらいで、後は流し読み。だっ て当面関係ないし(苦笑)。

 それにしてもずいぶん気楽に分散処理を実現できそうだ。Rubyからし か使えないところがよくも悪くも特徴だが、それをわきまえて使えば、 かなり面白いことができそうに思う。

 分散処理、分散コンピューティングは、いずれ当たり前になるのだろ う(既に当たり前になりつつある)。でも本当に必要なのかどうか。必 要な局面は確実にあるけど、多くの場合はRPCレベルの、つまり手続き だけ遠隔呼び出しできれば済む程度ではないか、などとぼんやり思った りする。遠隔オブジェクトのメソッド呼び出し、とか考え出すと、こと が一挙に複雑になる。けっきょく誰も楽にならない(とりわけプログラ マーは)ということになるのではないか。

 でも、分散処理をするなら、オブジェクトという単位の方が扱いやす いんだよね、概念的に。どこかで楽をしたくて、どこかで誰かがその代 償を払う。プログラミングの歴史はまるで人間の歴史そのものだ(笑)

(03/10)

『八咫烏の軌跡』 西村幸祐、出版芸術社、ISBN4-88293-210-5

 サッカー情報ウェブサイト・ 2002CLUBというのがある。このサイトは執筆者がよいので週に何度か 必ず見に行っている。新たな執筆者を発掘する意欲もよろしい。

 そういうサイトの主宰者の本というので楽しみに読んだ。著者はもと もとモータースポーツからスポーツジャーナリストのキャリアを始めた らしいが、サッカーを見る視点もなかなか確かなのではないかと見てい る。サッカーというスポーツの裏にある文化的な問題(もちろんそれは 政治や経済にも関連せざるを得ない)をテーマとするのが好きなようで ある。こういう視点は大切だと思うし、共感できるところもある。日本 のサッカージャーナリズムが名前だけでジャーナリズムたり得ていない (サッカーに関心のある人なら誰が見たってそう見えると思うのだ)現 在、こういう視点からの発言は必要だし、続いて欲しい。

 明らかな誤植(ミスタイプ、誤変換)や誤字が目につく。こういうの は直せないのかな。

(03/21)

『Tck/Tkリファレンスブック』 若谷純、セレンディップ、 ISBN4-7978-2014-4

 「GUIでRubyを遊ぼう」という野望のもと、Tcl/Tkにまで手を出す始末。

 Tcl/Tkは7,8年ばかり前に興味を持ち、4,5年前にちょっと勉強したが、 実際にプログラムを書いたことは殆どない。ボタンを表示してみたくら い。今回こんななりゆきで手を出すことになり、ちょっとびっくり。と いっても、「Ruby/Tkをやろう」と思ったのは、Tcl/Tkをちょっとは知っ ていたからなんだけど。(そのほかに「マルチプラットフォーム」「可 搬性がある」というのもある)

 『詳解Tcl/Tk GUIプログラミング』というのがよさげに思えて、それ が欲しかったのだけれどなぜか見つからず、これを買った。

 内容は悪くはないと思う。が、文章が粗雑で読む気が失せる。リファ レンスマニュアルということを割り引いても、読もうという気がなくな る。「自分と比べて」ということではない。こちらは安くもない金を投 じ、著者は原稿料や印税を手にする(筈である)。買い手として文句を 言っているのだ。

 コンピューターやらインターネットやらプログラミング言語やらいろ んな技術が一気に普及して、これまでならプログラムを書こうなどと夢 にも思わなかったような人まで手を出すようになり、解説書の需要が増 しているのは間違いない。必然的に書き手が不足し、文章に縁のないよ うな人まで記事を書いたり本を書いたりする。そういう人はプログラマー としては一流と言っていいから内容は申し分ない(と思う)のだが、書 き手としてアマチュアなのは覆いようがない。

 技術書や解説書の類で話しことば文体はとるべきではない。最初に読 む時は無知な素人でも、二度目三度目になればわずかでも知識や経験を 積んだ人間だ。そういう人間になれなれしい話しことばは鼻につくだけ だ。「そんでもって」などということば遣いに出くわすと、がっくりす る。その上に説明が浮わついて感じられるところもあり、コンピューター のことをどれだけ判っているのか心配になる(経歴を見れば凄腕のハッ カーであろうと想像できるのだが)。これらに加えて文章の組み立てが 変だから、真面目に読まない方がよい。

 tear offを「涙をこぼす」と訳してみせているのには絶句。「ティア オフ・メニュー」のtear offだが、これはロマンティックな比喩なんか でなく文字通り「切り離す」だろう。こういう細かいところで躓くと、 本の内容全体が信用されなくなるぞ。(冗談のつもりなのかも知れない が、冗談になり得ていない)

 そのほかにも、索引がコマンド(英字綴り)のみで日本語の索引がな い点、ホントにリファレンスやる気があるのかと思う。やれやれ。

(03/23)

『朱漆の壁に血がしたたる』 都筑道夫、光文社文庫、 ISBN4-334-73256-8

 物部太郎三部作の最終作。

 正直な感想として、前二作(『七十五羽の烏』、『最長不倒距離』) に比べると味わいが薄い。「読者から寄せられた奇想天外なシチュエー ションでの事件と解決」というテーマを背負っていたからか。手がかり はすべて読者に提示されている……ともとれるが、そうでない気もする し。「最初の事件」の解決は論理だけだし。犯人の動機もちょっと腑に 落ちないし。

 ひと頃角川文庫や集英社文庫、講談社文庫に入っていた作品が姿を消 し、どうしたのかと思っていたら、巻末の解説を見ると創元推理文庫な どに移っているらしい(巻末解説が役に立つのは珍しい)。チェックせ ねば。それから、自伝的エッセイ『推理作家のできるまで』が発売中と のこと。上下巻で各3,900円は高いが、これは必読であろう。買わねば。

 また正直に言って、最近の都筑道夫はどうしていたのかと思っていた のだ。こんな優れた作家が流行とか風潮とかに呑み込まれて活躍できな いのだとしたら莫迦げている。ぜひ「復権」して欲しい小説家だし、新 作ももっと読みたい。

(03/31)

4月

『推理作家の出来るまで(上下)』 都筑道夫、フリースタイル、 ISBN4-939138-03-8, 4-939138-04-6

 著者の「半自伝的エッセイ」。出版されたのは2000年の秋だそうだが 知らなかった(--;) ま、その頃はいろいろあったし。執 筆時期は1975年〜1988年までだそうで、道理で、この随筆を引用してい る文献(文庫の解説などだが)があるわけである。

 『やぶにらみの時計』『猫の舌に釘を打て』『なめくじに聞いてみろ』 『誘拐作戦』『三重露出』『怪奇小説という題名の怪奇小説』など、著 者の作品は大好きなのだが、本書でその楽屋話の一端が知らされる。自 信満満で(ほくそ笑みながら)口笛交じりに書いていたと思ったら、書 き手としてはそんな思いをしていたのか、と驚く。作家一流の自己韜晦 かも知れないけれど。

 下巻後半で話題に上る「文章感覚の最近の風潮」というか「最近の文 章感覚」には頷かされ考えさせられる。「西暦年を一九九九という風に 書くのはおかしい」との指摘には虚をつかれた。確かに一方で「十一月 二十二日」と書くのでは筋が通っていない、と言えば言える(表記法は 一意に定まるものであるべきならば)。

 はたまた「文章を書くということに対する責任感のなさ」というか 「安易に自分だけの知識と印象で物事を論じて恥じない風潮」。これは 執筆時期を考えると10年以上前のことと思えるが、今でも当てはまるだ ろう。どころかコンピューターでお気楽に文章を書けるようになったか ら加速しているのではないか。

 ぼくのもうひとつの専門分野といえるプログラミングの領域でも、目 に見えてひどい文章を目にすることが最近多い(自分のことは棚に上げ ているさ、もちろん(^^))。専門用語を知らなかったり 使い方がおかしかったりするのも目に余るほどで、専門知識や経験は豊 富であっても基礎教養が身についていないのではないかと疑うこともあ る。しかし、何といっても(技術の記事や書籍であることを差し引いて も)文章そのものがひどい。技術記事・技術解説・技術論文は小説では ない。が、「理科系の作文」の文章修行(修行といっておかしければ訓 練)は必要だろう。

 間違いなく、何かが壊れている。この国で。それがこんなところにも 表れているのだ。

 おっと、脱線した。本書は都筑道夫というひとりの作家(の作品)に 興味がある人は言うまでもなく、日本の戦後推理小説の変遷に興味のあ る人、小説の実作に興味のある人、推理小説は取り立てて好きではない が戦中から戦後の日本の風俗(の歴史)に興味がある人にお勧めできる。

(04/12)

『詳解Tcl/Tk GUIプログラミング』 須栗歩人、秀和システム、 ISBN4-7980-0019-1

 先に買ったTcl/Tk本があまりに頼りないので、もともと探していたこ れを執念で(うそ)見つけ出した。

 先に買ったのよりは遥かにまし。

 ただ、不安になるところはある。「日本語フォントを変数名 に使う」といった無造作な記述が随所に見られる。ワカッテ ルのかなこのヒトという気にさせられてしまう。常識的には、これは 「中ゴシックBBBという書体そのものを変数名に使え る」といっていることになる。ついにプログラム言語はフォント自体を 変数名として扱えるようになったのらしい。

 フォントということばの意味が15年で変わったのかも知れないが、ぼ くの常識ではフォントとは「同じデザインの一揃いの字体(typeface) のうち、同じ特徴を持つものの集合」のことである。文字コードとは関 係ない。だから「平成明朝体の1バイト文字」だってあり得る。 「Chicagoの日本語文字」はないかも知れないが、作ることはできよう (タイポスだったか、似たフォントはある)。いやいや、フォントとい う語の意味が変わったわけではないことは、Tkにおけるフォントの取り 扱いが説明されている箇所があることから判る(4-8-4、187ページ〜)。

 ほかには、「5-3. バイナリデータの操作」(319ページ)に、 バイナリ文字列 という用語が出てくる。 これは何だ。

 もちろん、言わんとするところが判らないことはない。見出しに「バ イナリデータ」と書いてあるしな。しかし、それを言うなら バイト列だろう。「アスキー文字はバイナリ文字に 含まれる」と書いてあるが、ではJIS 文字はどうなのか。エスペラント 文字は。バイナリデータと見なすことのできない「文字」など あるのか。すべての文字データはバイナリデータでもあり、 文字に割り当てられている数値を特に「文字」として扱うに過ぎない。 しかし、文字(=キャラクタ)データは文字を表している分だけ特殊な データであって、プログラミングの世界では多くの場合バイナリデータ に対置される。「バイナリの文字」とは、同語反復というか自家撞着と いうか屋上屋を重ねるというか、珍にして妙な語句である。使うなとは いわないが無定義のまま使えることばではない。

 こうした、技術書ではご法度と言っていいぞんざいなことば遣いが目 につく。専門用語を杜撰な使い方をしていると、他の部分の信憑性も疑 われかねないから要注意である。こうした不用意なことば遣いはそれだ けで著書を安っぽく、著者を薄っぺらく見せかけてしまう。

 それから、コンピューターで原稿を書いた本には今やつきものの感な きにしもあらずだけれど、誤字脱字の類が多い。コンピューターで書い たからって校正が手抜きになるとも思えないけれど、技術書での誤字脱 字誤植は致命的だ。

 という欠点はあるものの、用例も豊富だし説明も概ね丁寧で、勉強に 使うには悪くない。

(04/17)

『なめくじに聞いてみろ』 都筑道夫、扶桑社文庫、ISBN4-594-02994-9

 というわけで、さいきんふたたび都筑道夫にはまっているというか惹 かれている昨今です。

 目に止まるたびに買うようにしたのは、1990年代の半ばくらいからだ ろうか。どうもこの作家の名を本屋で見かけないような気がしたのだ。 その割に旧作が版元を変えて出ていたのに気づかないのはけっこういい 加減なものである。本作は以前講談社文庫で出ていたが、2000年秋に扶 桑社文庫に収められたようだ。最近もう一度読みたいと思っていただけ にうれしい。

 いや、懐かしかった。著者の第三長編で、凝りに凝っている。作中に 散りばめられた「気取り」や「ソフィスティケーション」や「ペダント リー」に心地よさを感じたり辟易したりしつつ楽しんだのを思い出す。 記憶って変わるなと思ったのは、今読むと肝心の場面場面の叙述が案外 あっさりしている。もっとしつこくというかきっちりというか描き込ん であった印象があるのだが。

 巻末の解説(岡本喜八)は講談社文庫版のものを採録してあるのだと 思う。が、そのことにはまったく触れられていない。こちらの記憶違い か。

(04/19)

『誘拐作戦』 都筑道夫、創元推理文庫、ISBN4-488-43401-0

 本作は著者の第四長編。以前は中公文庫に収められていたのが、2001 年夏に版元を変えて再登場した。都筑道夫再評価の兆しでもあるだろう か。喜ばしいことである。

 初期の都筑道夫は凝りに凝ったお話で有名だった。これもそうで、語 り手の設定といいお話の設定といい凝りまくっている。しかも語り手の 設定は単なる遊びでも趣向でもなくトリックのひとつになっているとい う豪華さ(遊びや趣向だったら鼻につくだけだが)。実は自分でもこの 作品のことを忘れてしまっていて、どんな話だったか読み始めるまで思 い出せなかった。なので推理の楽しさ(?)をふたたび味わうことがで きた。論理上の問題は他にもいくつかあるように思うんだけど、でもよ くできている。

 一部、奇抜な版組をしているところがあるけれど、これって今のコン ピューター(ワードプロセッサ)ではできないんだよね。LaTeXでも無 理なのではないか。ページレイアウトソフトならできるだろうか? で もこういうことも気軽にできるのでなければ、パソコン組版、デスクトッ プ・パブリッシングといったって何の意味もないのだが。

(04/20)

『カジノ・ロワイヤル』 イアン・フレミング、創元推理文庫、 ISBN4-488-13801-2

 ジェイムズ・ボンドのデビュー作にして、イアン・フレミングのデ ビュー作。

 今ふと読もうと思い立ったのは言うまでもなく『推理作家の出来るま で』で刺激を受けたから。007シリーズではこれは初読。映画の方は観 たことがある(好きな映画だ)けれど、題名以外に原作とは共通点がな いのは観れば判るし。

 ソ連側スパイの大物とカジノで勝負する、というだけでお話になるの かなぁ、どんなに緊張感を持たせて書いても博奕の場面を長引かせるの は無理そうだし、ましてクライマックスにはならないのではと思ってい たが、心配は無用だった。だいたい、手練でなければ長く読み継がれる 筈もありませんね。

 その点、興味深いのがボンドの内面描写。なんと、この作品で「『善』 とは何か、『悪』とは。誰がそれを決めるのか」なんてことを悩んでい るのだ。しかも「自由主義国家=善、共産主義国家=悪という図式など 時代遅れだ」とまで言うのだ。「いま保守主義とされているものでも、 50年前には今の共産主義と同じように見られていたかも知れない。善も 悪も時の流れで立場を変える」とさえ言うのだ。西洋紙芝居、不死身の ヒーローがカッコよく立ち回る脳天気な読み物だなんて誰が言ったんだ ろう? デビュー作でもあるので、キャラクターの設定や今後への「い いわけ」のためにこのような場面を挿入したとも考えられる(対決ごと にいちいち悩んでいては、不死身のスパイを演じられないわけだ)けれ ど、それならそれでよく練られている。さすがは小説発祥の国の作家と いうことであろうか。そう言えば、ボンドは女のことでけっこう悩んだ り考え込んだり気にしたりするのだった。確か毎作、女主人公と寝る前 に、値踏みすると並行してあれこれ考えているのではなかったか。映画 のボンドとはえらい違いである。こういうところが(ペダンティックな 描写とも相俟って)好まれたのかも知れないな。

(04/21)

『死ぬのは奴らだ』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171352-2

 007シリーズ第二作。懐かしかった。

 どうでもいいことだが、『カジノ・ロワイヤル』から『ダイヤモンド は永遠に』までは訳者が同じである。『死ぬのは奴らだ』のこの版は改 訳ということだが、『カジノ・ロワイヤル』ではフェリックス・レイター だった男が、フェリックス・ライターになっている。どーでもいーこと ですが。

 ジェイムズ・ボンドの「人間臭さ」をまたしても発見。

(04/22)

『ムーンレイカー』 イアン・フレミング、創元推理文庫、 ISBN4-488-13802-0

 007シリーズ第三作。初読。

 ジェイムズ・ボンドがこの作品で三十七歳であることが判明。

 改めてシリーズを読み返して、ボンドが決して「屈強でびくともしな い」わけではないことを知る。不死身ではあるが、それはやったりやら れたりで自分も相当に傷ついた末の不死身であって、最中には弱音も吐 くし反吐も吐く。「人間的な弱み」を備えた「不死身のヒーロー」なの だった。

 また、案外女に弱いのな、こいつ(笑)。こんなに惚れっぽいスパイが いてよいのだろうか。決して映画のボンドのように女から女へ遊び歩く のでなく、わりと真剣に、わりところっと作中の美女にマイってしまう ようだ。もしかしたら007シリーズは「ジェイムズ・ボンドが最愛の (あるいは理想の)女性と巡り合う(求めさまよう)物語」としても読 めるのではないか。その辺はもう分析ずみ?

 そして本作ではボンドがフラれるのであった。それも強烈な振られ方 だ。そういえば「シリーズで唯一ふられる作品」と聞いたことがあるよ うなないような。

 ところで訳語が雑な印象を受ける。カードの技術書の著者の名を初め は「スカーン」と述べておいて、後では「スカルヌ」にすり替わってい る。何の前触れもないから同一の事物を指しているのかどうかさえ判ら ない。こうした些細なことだけで雑と言ってはいけないのだろうが、も う少し神経を使って欲しい。

(04/23)

『日本、ワールドカップ初勝利への道』 後藤健生、実業之日本社、 ISBN4-408-61214-6

 本屋でたまたま見つけて捕獲。副題が「リアリズムとしてのサッカー  1999〜2001」。久久に後藤健生節を堪能。

 後藤節とは、リアリズムの視点と冷静な筆致のこと。ご本人もサッカー ファンだから、日本代表の試合を見て憤慨することもあるだろうし心配 もするだろう。思うところはたくさんあるに違いない。が、それに溺れ て辺りかまわず想いを撒き散らすことはせず、淡淡と事実を述べ、サッ カーの《本質》を踏まえて考察を記す。ぼくはサッカージャーナリスト ではないしそもそもジャーナリストですらないが、こういう態度、文章 のスタイルは見習いたいものだ。

 もうひとつ、底辺に流れる「人生ってそんなものさ」という態度も好 きだ。思うようにならなくたって、サッカーってそもそもそういうスポー ツじゃないか。勝ち続けることなどできる筈がないし、一足飛びに一流 国に勝てるようになる筈もない。腐ることなく努力を続けていくしかな いし、そうしていけばいつかは実力に見合った結果がもたらされる。い い時も悪い時もあるけれど、それが人生じゃないか。と呟いているのが 行間から伝わってくる気がするのだ。

(04/27)

『ダイアモンドは永遠に』 イアン・フレミング、創元推理文庫、 ISBN4-488-13803-9

 007シリーズ第四作。初読。

 過去三作となんだか毛色が違う。まず、読んでいて盛り上がりがない。 ボンドはなんとなくアメリカ合衆国に潜入し、なんとなく「敵」の懐に 潜り込む。特に事件らしい事件もなくなんとなく敵地に乗り込み、例に よって囚われるものの敵の仕打はあまりに手ぬるい。なんとなく脱出し、 敵も何となく追いかけてくるのだがなんとなくやっつけてしまう。任務 も殆ど終わり本国に帰る途中でひと山来るのだが特に危機らしい危機も なく終わってしまう。最後の始末もなんとなくつく。

 「敵」が犯罪のプロではあっても巨悪とか仮想敵国の冷酷な組織とか いうのでなく、むしろあまりにちゃちだからなのかなと思う。あと、謎 ないしサスペンスの要素もない。悪人は徹頭徹尾悪人であって、彼らの 犯罪は一点の曇りもない犯罪だし、その意図は火を見るより明らかであ る。

 リアリティ(アクチュアリティというべきか)は、きっと、あったの だろう。またたぶん作中のディテイルも往時の風俗を巧みに取り入れて いるのだろう。が、ハラハラどきどきには欠ける。実際、『ムーンレイ カー』なんかは読むのがもどかしいくらい先を急いだが、これはあまり そそられなかった。

 ともあれボンドは今回も満身創痍になりながら「敵」を仕留める。そ して例によって美女を射止める。前回恋に落ちた相手のことなど忘れて。 この点だけ、映画は原作に忠実である。

(04/30)

5月

『復刻版 故事・格言による囲碁上達の手ほどき』 藤沢秀行、東京書店、 ISBN4-88574-442-3

 007シリーズを探したのだがなく、代わりにこれを見つけて買った (何の脈絡もないように見えるかも知れないが、本人の中ではちゃんと あるのである)。

 囲碁本に触れるのも久しぶり。読むと碁を打ちたくなる。ひさびさに 梅澤由香里の「碁敵さん」を引っ張り出してみたり(勝てないんだよな)。

 書いてあるのをふんふんと読みながら棋譜を眺めると、言わんとして いるところは判るような気がする。するのだが、いざ「実戦」の場でで きるかというとできないのである。当たり前である。読んだだけで感覚 がつかめ、実践できるようになったら天才である。それくらいの天才な らばとっくにプロを目指しているわけだし今ごろは九段にでもなって名 人戦を闘ったり梅澤由香里と囲碁を語ったりお茶を飲んだりしているの である。

 この実戦感覚というのはやっぱり痛い目に遭わないと身につかないん だろうな。

 ところで復刻版なのはよいけれど、初版がいつ上梓されたものかさっ ぱり判らない。復刻ってそういうものかもしれないが、どこかに記して おいてもらえるとうれしいな。本文節見出しのカットや故事格言の説明 からすると、1960年代半ばなんじゃないかと思うが。(巻末近くに1970 年以降であることを窺わせる記述あり)

(05/04)

『パンドラの匣{はこ}』 太宰治、新潮文庫、ISBN4-10-100611-3

 表題作『パンドラの匣』と『正義と微笑』を収録。後者が読みたくて 買った。何かの拍子に智慧の実のことを思い出して、そんなことから久 しぶりに読みたくなった。これまでも時時読み返したくなったことのあ る小説だ。

 小学校から中学校辺りの頃に読んで以来だろう。『正義と微笑』だけ は読んだし嫌いではなかった。影響さえ受けたと思う。いや、確かに受 けた。パイナップルの缶詰とかな(笑)。でも、太宰治には熱狂的なファ ンがいるそうだが、ぼくは「ハズレ」で、特に興味はない。『お伽草子』 だったかな、読んだ時に「あ、これはおれには合わない」と見切ってし まって以来読む気が起きない。

 『正義と微笑』の主人公は数え年十六歳である(翌十七歳の暮れま で)。自分がその年頃になる前に読み、その年頃にはたしか読まず、年 頃を過ぎてからまた読む。それでよいのかも知れないしよくないのかも 知れない。改めて読むと、作中の時代は太平洋戦争前ではあるが、いま の時代にも通じると思う。読みながら今の子どもたちに読んでもらいた いと思った。どんな風に読むだろう。

 まず、六十年前でも学生は無知で幼稚だったということが判る(笑)。 大学が大したところではないことは昔から変わらぬ事実のようだ。世の 中に対する憤り、周囲の未熟な同年代への苛立ち、自分の将来について の不安、悩み、決心と後悔、などなど。取り上げられる話題こそ変わっ ても(なにしろニイチェとかゲーテとかなのだ)、この年頃のこの想い 自体はいつの世も変わらないような気がしたのだが、さて、どうなんで しょうか。

 今の時代と大きく異なるところがあるとしたら、階級にはっきり違い があり、そして誰もそのことを表立って問題にしないことだろう。主人 公は早くに父をなくしたのだが、女中と書生まで置きながら、誰も働か ずにつましい生活ではあっても暮らしている。有閑階級というわけだ。 こんな人たちは現在はほぼ存在し得ないわけで、おおらかな時代だった のだろうと思う。おおらかだって? 猛反発する人もいるかも知れない。 しかし、階級というものがあること自体を無闇に否定する気にはならな いな。論じ始めると試論をひとつ書かなければなるまいが、「人間誰も みんなおんなじなんだぁぁっ!」などという現代日本に蔓延する幻想・ まやかしよりはずっとさっぱりしているような気がする。目に見える階 級は今の日本にはなくなっている(ことになっている)が、不可視の 「階級」がありはしないだろうか?

 階級の産物として、主人公にはある種のエリート意識がある。主人公 は無邪気に「小市民根性」を非難する。この立場、態度は現代では否定 されるようなものかも知れない。しかし小市民根性というのは確かに存 在すると思うし、あまり褒められたものではないと思うし、現代ではむ しろひどくなっているのではないかと思うこともある。いや、「小市民 であって何が悪い」という論理は成り立つと思うが、それは開き直りの ようにも見えるし、すべてそれで包括してはいかんと思うのですが、ど うでしょうか。

 と、小説の本質にはまったく関係のないところに感興を覚えつつ、主 人公は自分の世界を脱皮して大人になっていくのであった。

 『パンドラの匣』も若者(二十歳)の独白体(こちらは書簡形式)で、 その年頃の男子(ただし、往時の……か?)にありがちな観念論百パー セントの思弁を綴っている。くすぐったくなるよね、こういうの。作者 はくすぐったさを抉り出すのが得意な人なのかも知れない。だから人気 があるのかな。

 「語り手のトリック(叙述のトリック)」を仕掛けているところがあっ て、これはヤラレタ。こういうところもうまい、のだろう。しかし本文 を読んでいる分にはそれなりにまとまって感じるけれど、表題『パンド ラの匣』からすると中途半端な終わり方である。巻末の解説によればも ともと戦時中に発表予定だったのが諸事情で戦後にずれてしまったらし く、構想がアクチュアリティを失ってしまって空中分解したもののよう だ。小説って難しい。

(05/05)

『スパイのためのハンドブック』 ウォルフガング・ロッツ、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-050079-7

 007シリーズを半再読している関係でこういうものにも引っかかるわ けである。冗談本かと思ったらそうではなく、著者はイスラエルの情報 機関(モサド)の有能な情報員として長く活躍した人らしい。語り口に はユーモアを交えているが、言っている内容は超まじめと言っていい。 しかし、このアドバイスを本気で受け取り、自分を訓練したとして、い ざスパイになろうと思っても難しいのではないかな。

 スパイというものが何となく憧れの目で見られるとしたら、やはり命 懸けの冒険、祖国や世界の平和のために人知れず闘うヒロイックな孤独 感、というところが理由なのだろうか(他人事じゃない、ぼくも憧れた 口だ)。しかし、今やすっかり常識であるように、また本書が暴くよう に(原書は一九八〇年、日本語版も一九八二年)「本当のスパイ」の仕 事や生活は、ジェイムズ・ボンドのようなそれではなくもっと地味でつ まらないものだろう。さらに、と言っていいのか、この二十年の間に情 報技術がずいぶん変化したから、スパイ活動の在り方もこの頃とはすっ かり変わっているかも知れない。

 おまけに、と言っちゃうが、東西の対立なんて構図はなくなったり、 そうでなくてさえ「東側=悪の帝国、西側=正義の味方」という図式が きれいごとのまやかしに過ぎないことが判明している(と言っていいだ ろう?)現在、スパイなんてものに憧れる人はいるのだろうか。祖国防 衛だって体のいいお題目であることがばれてしまっている。いや、それ を信じている人はいるのかも知れないし、そのことを糾弾する気はない けれど、祖国のために命をかけるには、かけられる祖国が信ずるに足る 存在であることが必要だろう。それが成り立たないとしたら、スパイ (活動)は単にお金か別の何かのために行なう何ものかになってしまう のではないか。

 スパイというものが忌み嫌われるとしたら、それは「陰でこっそり機 密情報を集める」ところ、そのためには二重生活を平気で送り、ごく近 しい人ですら“だます”というところだろうか。本気で国や組織のため にやるのだとしても(つまり、何事かを信じてそれに殉じる心意気でや るのだとしても)割に合わない仕事だと思う。

 とはいえ、「情報」なる曖昧なことばで示されるものごとの重要性は 増す一方であり、国も企業も情報戦に血道を上げているのも事実だし、 現実だ。ことを決するに当たってはいかに正確な情報をつかんでいるか に左右される。そのためには本書が取り上げているようなスパイやスパ イ活動は必要になるのだろう。

(05/05)

『赤ちゃん あいしてる』 斉藤由貴、小学館文庫、ISBN4-09-404271-7

 ついに読んでしまった。

 これは読まねば読みたい読む時にと思って買ったのにもかかわらず、 なかなか読む気になれず半年ばかり放っておいたのだが、ついに読んで しまった。斉藤由貴の文章を読むと、切なくなったりヤラレタり、泣い たりしてしまうので読みたくないのだ。だから本はできる限り買ってい るつもりだけれど、読まずにいるものが何冊かある。この随筆はそんな ことはなさそうだが、生まれ来る赤子(古語)や旦那へのべたべたした 想いに溢れているに決まっていて、それはそれで切ないのであった。

 と思いつつ、しかしほかに読むべきものを持ち合わせなかったので仕 方なくついに諦めの境地で読む。

 幸い、題材が題材だけに切なくもならずヤラレもしなかった。斉藤由 貴というひとりの女が子どもを欲しいと思い、ちょうどいい塩梅に妊娠 し、出産し育児に追われるようになるまでの心の動きが綴られている。 ああ、きみもそんな風にして現実と折り合いをつけられるようになった んだね。

(05/06)

『ボルチモア・ブルース』 ローラ・リップマン、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-404271-7

 困ったことになった。007シリーズが入手困難だ。巨大な本屋を訪ね ても欲しいものがない。発表順に読もうと決めているので、途中の一冊 でも手に入らないと先に進めない。というわけだからでもないが(ある が)、ふと見かけて面白げだったので読んでみた。さべあ のまの表紙 イラストがかわうい。

 推理小説探偵小説の類をまったくといってよいほど読まなくなって久 しい。要するに遊びの文学、都筑道夫のことばを借りれば「謎と論理の エンタテインメント」なのだが、その《遊び》が鼻につくようになった のだな。かなり早いうちに「本格推理小説」からハードボイルドミステ リに移ったのもそれが理由といってよい。《遊ぶ》以前に現実との格闘 が必要だったのだ。

 アメリカの私立探偵小説もいろいろなバリエーションが生まれたよう だが、最近は女性作家が元気らしい。もちろん主役・探偵役は女性。女 が女であることを自明のこととしながら人間として事件に関わり人間と してあるのかないのか判らない《真実》を追い求め苦い結末を手に入れ る。誰が何と言おうと女性の時代であり、それは既に始まっているのだ。 女性もまた人間であり男性と比べることの不可能な尊厳溢れる実在とし て扱われねばならず、それには推理小説の舞台がもっともふさわしい。 ともあれ女性作家による女性探偵ものにはなんだか惹かれる。と言いな がら実際にはわずかしか読んでいないけれど、サラ・パレツキーのウォ ウショウスキーシリーズなんか好きだ(二作ほどしか読んでいないのだ が)。まあ「女性が主役」ということなら、わたしならクレイグ・ライ スの「ヘレンとジェイク」シリーズだけどね。え。あれはマローンが主 役だって? 判ってないな、あれの主役はヘレンでしかあり得ないで しょ。

 というわけで読んだのだが、初めから三分の二くらいまではつまらな いので驚いた。殺人は起こるしそれなりの謎もあるが殺人自体の謎では なく、大きな謎のひとつの要素として殺人があるという感じ。また「事 件」の起こり方も後味が悪く、主人公が何もしなければ起こらなかった、 少なくともこのような起こり方はしなかったのではないかと思える。つ まらなく感じたのはそういうところではなく、これほど長い話なのにそ の大半はボルチモアの風景、現代アメリカ社会の風俗や風潮の描写説明 に費やされ、それが理由ででもあるかのように主人公の行動は事件の周 縁をうろうろするばかりで一向に核心めいたものに近づかないのだ。

 これが現代アメリカ合衆国の私立探偵小説か。「私立探偵」というこ とばは外してもいいのかも知れないがよく判らない。たしかに、考えて みればレイモンド・チャンドラーの昔からハードボイルドミステリはそ ういう傾向があった。それを今この時代にやろうとするとこういうこと になってしまうのかも知れない。また思うに事件の外部からやってきて 謎を解く、昔ながらの「探偵」は成り立たなくなっているということで もあるのだろう。そういう認識があっての舞台設定、役割設定のように 受け取れる。

 役割設定と書いたけれど、主人公の周囲の人間は設定されているけれ ど、重要な作中人物ほど鮮明さを欠く印象がある。ある人物などやたら と複雑な人間であるらしいことが結末に近づくにつれ判ってくるが、複 雑すぎてすっきりしない。「それがこの時代だ」「それが人間世界の 《真実》だ」とハードボイルド調で言われたらはい確かにと答えるしか ないけれども。

 しかしそれにしても、ユダヤ教が頻繁に引き合いに出されるからそれ が何か事件の背後にあるのかと思ったらそうでもなく、ある人物の性的 傾向が明るみに出たからそれが関係しているかと思ったらそうでもなく、 そうでもなく、そうでもない。なるほど、たしかに《真実》はいつだっ て思いがけないところにあるし、この人間世界とはそういうところだ。 この世界を舞台にしてそれらしいことを書こうとしたらフクザツでビミョ ウでアイマイなことになるという、やはりそうなるということなのかも 知れない。

 あと感じるのは、作者はボルチモアの風景を書き留めておこうと思っ たのかな、ということ。テクニックかも知れないのだが、何か意図のよ うなものを感じる。メリーランド州ボルチモアがアメリカ合衆国でどれ ほどの都会か(または田舎か)判らないのだが(ワシントンDCから電車 で一時間、人口五十万人とのこと)、その街並みや空気をこれほど描き 込むというのはただの彩りのためとは思えない。

 で、唐突に結論だが、これは「謎と論理のエンタテインメント」とい う意味での「ミステリ」ではありませんでした。決して悪い意味ではな く。ミステリ風味のある、アメリカ合衆国の現代社会の一断面を切り取っ た風俗小説と読むのが正解のような。

(05/14)

『インターネット時代の文字コード』 小林龍生、安岡孝一ほか編、 共立出版、ISBN4-320-12038-8

 およそ文章の書き手であれば、職業家だろうと非職業家だろうと、熟 練者であろうと非熟練者であろうと、コンピューターで文章を書く以上 「文字と文字コード」のことを気にかけずにはおられまい。本書はそう いう人たち、加えて「ことばと文字」に関心がある人たちの必読の書で ある。文字と文字コードに関係するさまざまな話題が論じられている。

 「文字」はこれからどこに行くのか。

 コンピューターで処理しやすいように「文字」の方を変えていく…… それはじゅうぶん理由のあることだし、意義もある。「許し難し」「許 しがとわぁし」「許しがとぅぁあああし!」と叫ぶ人も多数いるに違い ないけれど、きっと書写しかできなかった時代から木版や活版による印 刷の時代へと変わった時にも似たようなことはあっただろう。(もちろ ん、今文字の世界で起こっていることはこれまでとは比べものにならな い本質的な変化だが)

 文字を取り扱うこれまでの技術はアナログ技術だった。だから「存在 しない(誰にも認知されていない)字」を生ぜしめることも可能だった しその意義は大きいが、半面、「同じ字を表す(筈)なのに形が異なる」 という状況も生まれやすい。「同じ」とか「違う」とか「正しい」とか 「間違い」とかいう判断がすべてアナログだからそうならざるを得ない。 また、「その字を使う人がひとりしかいない」「かつて文献に一度だけ 現れたことがある」といった文字も生まれてしまい、こいつらを仲間外 れにすることはできない。世界中の言語処理、文字処理で問題になって いることの少なくない部分がここにある筈だ。

 文字はアナログ的にしか取り扱えないと考えている人は「許し難い」 と思うのだろう。しかしデジタル化することによって多くのことが「便 利」になった現在、これに背を向けて暮らすことは(良し悪しでなく) 難しい。失うことばかりではなく、デジタル化・規格化・標準化するこ とによって実はけっこう混乱していた文字の世界に秩序がもたらされ、 その結果みんなが平穏に暮らせるようになる可能性だってある。文字デー タの共有という意義も見逃せない。

 そもそも「文字」とは何なのか。コンピューターで文字を取り扱うと いう話題を見ていると、そんな根源的な問いを突きつけられているよう な感じさえする。

 興味深かったのは、「第6章 出版と文字コード」(小池 和夫)中 の「原文のママ――無理なわがまま」。いわゆる旧字体といっても何種 類もあってその実体は特定できないと聞いたことがあるが、それが実証 されている。引き合いに出されているのがぼくの好きな翻訳家なので少 少切ないけど、筆者の論理は冷静で説得力がある。しかし……

 『文字コードは万能ではない。あくまでも「文字」が共有されている 限りにおいて、その文字を運ぶ手段に過ぎない。共有し得ない「字体の 違い」を再現しうる文字コードなど、ナンセンスでしかない』という。 だが「字体の違い」を文字データとして共有したい思いだってあるわけ だ(姓名など)。筆者の論法だと、「そんなことは諦めろ。どだい無理 なのだ」ということになるのだが……。たとえば散文の創作(随筆も含 む)では、時に「存在しない文字」「作者が勝手に作った文字や記号」 を本文に織り込みたい時がある。そんな文字は文字コード集合には含ま れているわけがない。どうすればいいのか。もちろんこんなことを文字 コードに向かって言っても仕方ないのだが。

 そのほか、世界の文字のコンピューターとの関わりにおける現在が仄 見えて興味深い。昔はラテン文字(といってもアメリカ英語にほぼ等し い)と日本語のことくらい考えていればよかったのだが、世界中の文字 を同じ方式で取り扱おうとすると問題が一挙に複雑化するようだ。いわ ゆる分音記号とか、前後の文字(音)によって表記が変わる文字(音) とか、世界には幾多の言語があるごとく幾多の文字があるのだ。コン ピューターで取り扱うに当たって「そんな文字はやめて、みんなラテン 文字を使おうよ」といった論調にならなかったのは幸いである。コン ピューターの日本語化に携わった人たちにカナ文字論者とかローマ字論 者とかがいなくてよかった。

 また、「第14章 タグ付き言語と文字コード」(師 茂樹)も考えさ せてくれる。文字コードの規格には「日本語なるもの」についての規定 がないといい、それが不明のままでは不毛な議論しかできないと喝破す る。「近代において成立する〈国語〉という概念は、きわめて政治的な ものであるという」というのは、本章筆者の発言ではない(従ってここ では孫引き)が、とてもとても刺激的だ。筆者は「〈日本語(の文字)〉 という意味はコンテクストに依存する記号ではないか」といい、特定の コンテクストに束縛されるのは不毛であり、字体へのこだわりや一点一 画の違いの区別は無意味だという。そしてやはり文字の符号化は文字の 共有が第一義であるとする。そう言われるとそんな気にもなってくる。

 「文字」に関心のなかった人には新しい視野を開いてくれるし、「文 字」にこだわっていた人には別の視点を与えてくれる。ぼく自身、認識 を新たにした。といってもUnicodeはやはり好きになれないけど。

(05/14)

『インターネットルーティング入門』 友近剛史ほか、翔泳社、 ISBN4-7981-0038-2

 インターネットのルーティングに再入門しようと思った。

 「入門したいんすけど」

 「どーれ。この道厳しいよ。まずは洗濯掃除道場の雑巾がけから」

 「なんでそんなことしなきゃならないんだよ」

 「だってルーティン・ワークだから」ちゃんちゃん。

 これは言うまでもなくルーティング(routing)とルーチン(routine)と のかけ合わせだが、道場入門者のルーチンワークともかけており、さら にこれ自体ルーチンギャグでありルーチンワークとのかけ合わせとなっ ているという非常に高度なギャグなのだが、受けなかったようである。

 差し当たりIGPだけ詳しく判ればよいので第5章(BGP)、第6章(MPLS)は とばし読み。

 初心者向けを標榜するだけあって丁寧に書いてあるのだが、ところど ころ、説明をすっ飛ばしているというか、説明になっていない箇所があ るように見受けられる。

Cisco社のルータはループバックインタフェースという仮想インタフェー スを持っています。グローバルセグメントであれば、通常「/32」のグ ローバルアドレスを割り当てます。そのアドレスをCisco社ルータにお いて「ループバックアドレス」と言います。

 どういうことなんかいの。アドレスを割り当てるのは仮想インターフェ イスに対してなのか? ループバックインターフェイスに割り当てたア ドレスをループバックアドレスというのか? でもそれは至極当たり前 の話ではないか。割り当てるアドレスはどういう理由で決めるのか?  わたしは初心者とは言いがたいけど、ほんとうの初心者はこんな記述で 理解できるのだろうか。

 とはいえ、概ね細かいところまできちんと説明してくれており、たと えばいきなりネットワークを構築しなければならなくなった新米システ ム管理者には強力な味方になってくれるだろう。

(05/15)

『ネットワークトラブルシューティングツール』  Joseph D. Sloan(鷺谷 好輝・訳)、オライリー・ジャパン、 ISBN4-87311-080-7

 かつてわたしはトラブルシューターだった。今でもそうである。よかっ たよかった。

 本書を読んで、ああ、自分はやはりトラブルシューターなんだよなと 確認した。よかったよかった。

 プロのトラブルシューターとまでは言わない。そんなことを言おうも のならその途端に足許をすくわれそのままずっとすくわれ続けること必 定だからである。マーフィーの法則の第三応用形である。たぶんトラブ ルシューターには誇りはあっても傲りはあってはならないのだ。

 そんな謙虚なわたしは差し当たり興味のある部分だけ拾い読み飛ばし 読んだ。

 トラブルシューティングに役立つツールの使い方を説明しているのだ が、「問題を解決するより問題を起こさない方が賢明である」と至極当 然のことを言い、日常でのシステム管理の在り方を説く。さらに攻撃に 対する対処にまで触れている。アメリカのテクニカルライターが著した 技術書にはコストパフォーマンスの優れたものが多いと思う。これもま た良書である。

 トラブルに出くわしたいと思う人はいないだろうが、出会ってしまっ たらかっこよくやっつけて賞賛の眼差しを浴びたいと思う人は多いだろ う。そういう人は本書を読むとよい。あなたもトラブルシューターにな れるかも知れない。

(05/16)

『ロシアから愛をこめて』 イアン・フレミング、創元推理文庫、 ISBN4-488-13803-9

 007シリーズ第五作。再読だが、細部はすっかり忘れているので初読 と変わらないな。

 五作めなのでアクセントをつけるためか、シリーズで初めて「敵」側 の叙述から幕が開く。これに全ページ数のたっぷり三分の一を使ってい る。一九五〇年代のロシア娘(ソ連娘)の貞操観念はどうなっていたの だろうと思ううちに、ジェイムズ・ボンドはトルコはイスタンブールに 赴く。女主人公と主人公が出逢うのは三分の二の辺り。残り三分の一が 有名なオリエント急行の殺人、ではなく、車中の活劇である。最初はゆっ くりと、イスタンブールに飛んでからは次第にテンポが上がり、最後ま で息をつかせない。

 相変わらずジェイムズ・ボンドは女について内省的な思索を巡らせつ つ、でも相手に惚れるし、抱くし、×××、という調子である。

 これの映画版は007映画の中でも最高傑作と評されているが、原作を 忠実に映像化したものであることに今回気づいた。映画版007シリーズ は原作の骨格をほんの少し残して後は時代に合わせて自由に映像化する という印象を持っていたのだが、映画化第二作はほぼ原作どおりの映像 だったのだ。大きく異なるのは列車を途中下車してからのアクションと、 最後の舞台くらいか。(映画はベネチアで終わっていたのではないか。 てことは、ボートに乗る場面から考えて途中下車したのも旧ユーゴスラ ビア国内ということになるな。いつかまたビデオででも確認しよう)

 ところでこの映画版、日本での公開時は『〇〇七号/危機一発』とい う邦題だったそうだ。字が違うのもおかしいが(正しくは「危機一 髪」)、なんでこんな題名になったのだろう。後に再上映された時にやっ と『ロシアより愛をこめて』になった。これでもまだ本と違いがあるが、 ふと思ったのは、この時期、つまり一九六〇年代から七〇年代という辺 りで、洋画の邦題のつけ方が変わったのかも知れない。戦前を思わせる ようなヘンな――といっては失礼だが、勝手に翻案したような邦題を止 めて、原題の意を汲むような題名にするように変わったのではないだろ うか(映画のことなどろくに知らないのに適当なことを言ってどーもす みません)。もっとも今では原題を単にカタカナ化するだけなのでピン と来ないかも。

(05/19)

『ドクター・ノオ』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171355-7

 007シリーズ第六作。再読。

 映画化第一作の冒頭に、ジェイムズ・ボンドがMから愛用の拳銃を取 り上げられ、ワルサーPPKを押しつけられる場面がある。原作にもある 場面だが、原作では前作『ロシアから愛をこめて』で、ベレッタの消音 器が服に引っかかって取り出せず、瀕死の怪我をしてしまった事件の暗 示引用となっているのに対し、映画では当然のことながら唐突な感じが する。以前に読んだ記憶では、ワルサーPPKともうひとつスミス・アン ド・ウェッソンのリボルバー(回転弾倉式拳銃)が推薦され、この作品 では後者を使ったのだった(実際には両方使った)。ちなみにワルサー PPKはこの映画のおかげで、後に『ダイ・ハード』でベレッタM92Fに取っ て代わられるまで世界で最も有名な拳銃となった。かどうかは定かでは ないが。

 本書ではかつて共に闘った仲間が死ぬ。痛ましい。作者が作中人物に どれほど共感を抱いていたか知る由もないが、よくできた作中人物に愛 着を持ってもおかしくはない。きっとその仲間はそういう作中人物だっ たと思う。そういう人物ですら(いやだからこそ)時には殺したり身体 障碍者にしたりしなければならないのだから、娯楽小説の作家も楽では ない。

 仲間が死んでいくのを見ながら、ボンドは例によって女主人公と恋に 落ちる。欲情している場合じゃないのに欲情する。この「弱さ」「人間 臭さ」もまたこのシリーズの魅力なんだろう。「冷酷非情、残忍無比、 失敗皆無の完璧なスパイ」では小説として成り立たないわけで。

(05/21)

『ゴールドフィンガー』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171351-4

 007シリーズ第七作。初読。

 映画では『ロシアより愛をこめて』と並び人気の高い一作ではないだ ろうか。「金粉」をオープニングに(だと思うのだが、アヴァン・タイ トルは別の場面だったかも知れない)持ってきたのは脚色の勝利か(原 作にも金粉は出てくるが、エピソードのひとつになっている)。あと、 ハロルド坂田も忘れられない。

 原作は一九五九年、そろそろ「現代的」な小道具が現れてきたようだ。 車をベントレーからアストン・マーチンに乗り換えたり、「真空管に乾 電池をつないだホーマーなる発振器」を使ったりしている。真空管とい うところが微笑ましい。

 窮地に陥ったボンドをゴールドフィンガーはなぜか助けてしまう。そ れどころか自分の仕事を手伝わせてしまう。スメルシュと連絡がある立 場なのに、迂濶であり、致命的であり、事実命を落とす。部下に恵まれ ない人だったということなのだろう。結論・悪事を働くにも、よい人脈 よい部下を持て。

 プッシー・ギャロワとのロマンスはちょっととってつけた感じ。雑誌 連載だったらこういうのもありだろうけど。

(05/26)


『サンダーボール作戦』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171353-0

 007シリーズ第八作。初読。

 原作は一九六一年。仇敵スメルシュはすでに解体されていたそうで、 そのせいかどうか、今回スペクターなる新組織が登場する。「世界制服 をたくらむ悪の秘密結社」の原型、元祖、本家、家元、創始者であろう か。スペクターとは「対スパイ活動、テロ、復讐、強奪のための特別執 行部(The Special Executive for Counterintelligence, Terrorism, Revenge and Extortion)」というのだからまいってしまう。ずいぶんと 入れ込んだ名前である。それにしても、「悪の秘密結社」も頭字語にこ だわるのだろうか。

 解説によれば、スペクターの首領の誕生日(なぜか作中で月日まで書 いてあるのだ)は作者イアン・フレミングのそれと同じだそうだ。いか に主役の向こうを張る悪の大立者とはいえ、「破格」の扱いである。そ もそもジェイムズ・ボンドのデビュー作『カジノ・ロワイヤル』で 「『悪』とは何か」という論議をしている。何か思うところがあったと 考えたくなる。

 スペクターの結束は固く、仲間どうしの信頼関係もあるようである。 作中で組織内の反乱が描かれるが、あっけなく鎮圧される。以前とある エスペラントの人から「だいたい悪の組織など私利私欲の集合体なのだ から《公平・平等》などあり得まい」といった主旨の意見を聞いた。し かし悪の組織とはいえ組織たり得るためには不公平感はあってはならな いだろう。むしろ悪の組織なればこそ公平は必須とも言える。スペクター も多民族・多言語の組織のようだから、公用語にエスペラントを使うの は理にかなっていると思う。

 てなことを言うと「エスペラントを《悪》に使うなんてとんでもない」 という意見が矢のように飛んでくるのだろうが、言語の用途を制御しよ うなどという考え自体思い上がりも甚だしいわけだし、「『善』はよき もので『悪』は忌むべきものだ」という思考停止的な価値観を振り回さ ないで欲しい。国内の貧民層を救い生活レベルを向上させるために数年 間独裁制を敷く為政者は「善」なのか「悪」なのか。

 てなこととはまったく関係なく、今回もボンドは恋に落ち、セックス をし、へろへろにやられながら敵と闘い、決して自分ひとりの力でなく、 勝つ。

(05/30)

『ひとりでも簡単にできるテーピング』 岩崎由純、成美堂出版、 ISBN4-415-01313-9

 テーピングは大切である。

 自分でもできた方がいいし、人にしてあげられればもっといい。チー ムにひとりはテーピングを知っているべきだ。

 しかしあまりに大切な巻き方が何種類もあるので憶えきれない。テー ピングもまた技術であるからには、習練が必要だ。せめて講習会に行っ た上、何回か実践しないと。昔に行っておけばよかったな。

(05/31)

6月

『オスカーのフットサルコーチング』 眞境名オスカー、大泉書店、 ISBN4-278-04674-X

 各地で大会が催されたりリーグができたりしてフットサルは着実に普 及しつつあるようだが、よい手引書はなかなかない(と思う)。そんな 中、6月3日に発売されたという本書を6月5日にいそいそと買い求めた。 どうでもいいことだけれど、奥付の発行日は6月17日である。不思議な 日本出版界の慣行である。

 フットサルはサッカーとは違うスポーツだと強調し、基本テクニック と応用技術、チーム戦術の基本などを連続写真つきで解説してくれてい る。サッカーを少しは知っていた方が判りやすいような気がする。フッ トサルではインフロントキックは多用されないと知りがっくり。好きな のに(笑)。練習してたのに(寂)。

 体の動かし方をことばで説明するのは難しいものだが、この本はポイ ントとなる動きや姿勢を写真で示し、簡潔なたとえで説明する。内容の 割に値段も安い(1,000円)ので、持っていて悪くないと思う。

(06/07)

『世界サッカー紀行2002』 後藤健生、文藝春秋、ISBN4-16-358240-1

 著者がこれまでに訪れた国について、その国の気候、風土、「国民性」 や「民族性」、文化と絡めて、サッカーの歴史や文化、スタイルを紹介 している。一九九六年に上梓された初版『世界サッカー紀行』への加筆 修正版ということだ。

 後藤健生は他の著作でいくつかの国についてサッカーの歴史とスタイ ルの在り方について言及しており、本書はその集成とも言える位置づけ になるのではないか。その分、ほかの本で書いてあることと重複する記 述も散見される。本書の狙いはまえがきにはっきり書いてある。「各国 のサッカーの発展が、その国の気候や風土、歴史、文化とどう関わって いるのか」。

 ぼくは後藤健生のファンであり、その文章から覗く「リアリズム」が 好きだが、本書はいささか首をひねるところがある。先のように記す一 方で、「国ごとのサッカー(の特徴やスタイル)は決して文化とか国民 性に規定されるのではない」「何よりもその国のサッカーの歴史による」 とも言っており、国によって両者の視点への比重の置き方が違うように 読める。それに、著者自らその国の歴史とサッカーとを(安易に)結び つけている箇所もあると思う。

それが「安易」と思うのは、「歴史的に強国に囲まれ続けた小国だから こういうサッカーをする」という類の論法自体の論証と、その論法の適 用可能性の論証がなされていないと思うからである。それなしに無考え に適用するなら、「日本は東洋の離れ小島で外国からの侵略を殆ど経験 したことがなく、また三百年近く外国との交流を絶った歴史もあるから、 国際試合をまともにできる筈がない」ということだって言えてしまう。 ま、そんな傾向があるとは感じるけれども、でもそのことと日本サッカー のスタイルとを結びつけるのは暴論ではないだろうか?

 はまるところははまっていると思う。アメリカ合衆国でサッカーが普 及しない(特に見るスポーツとして)理由とか、イタリアのサッカーは なぜ「つまらない」のかとか、韓国はなぜワールドカップで勝てない (当時)のか、など、頷かされるところはある。が、それらは他の過去 の著作でも語られているものだ。

 やはり「まえがき」で、「サッカーを語るにはサッカーのことばをもっ てするべき」と言っており、それには強く同感する。表層で空騒ぎする マスメディアも斜に構えるのが批評と勘違いしている《辛口屋》も確た る根っこも持たず風潮に流されやすい国民もみんないらない。地に足の ついた、本当にサッカーを語る評論を読みたい。安易に民族性とか国民 性とかを持ち出して「結論」を出して欲しくはない。だが、果たして本 書はその試みに成功したのかどうか……

(06/12)

『わたしを愛したスパイ』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171354-9

 007シリーズ第九作。初読。

 シリーズ中、ボンドが脇役に回り、かつ、語りも女性の「わたし」の 一人称という異色作。

 以前に誰かが「これはポルノだ」というようなことを書いていたのを 読んだような気がするが、いや、実際、ポルノちっくな描写に富んでい る――冒頭部で、読者を手繰り寄せる狙いもあるのだろう。ボンドシリー ズではあるもののこれまでの作品と毛色が違う(というより、ジェイム ズ・ボンドである必然性がまったくない)から、導入に失敗したら読ん でもらえない恐れがあった筈だ――。「わいせつ感を催させる」といっ た意味ではないのだが、ちょっと人前では広げられない感じ。猥褻でな いというのは、描写が乾いているのだな。参考になる(笑)。驚くのは、 これが書かれたのは一九六二年である。しかもイギリスである。まだお 堅い時代(だったんじゃないかな?)のお堅い国でこんな本が出てしまっ ていいのだろうか(かなり偏見を含んでいます)。

 後半になると、それらしい人物が現れそれらしい冒険譚に変化する。 が、ボンドである必然性はやはりない。ふと勘ぐったのだが、作者イア ン・フレミングはボンドシリーズにかこつけて「別の話」を書きたかっ たのではないだろうか。読んでもらうことを考えてボンドシリーズには め込んだのではないだろうか。それとも、単に変化をつけたかっただけ なのだろうか。

 作品の話ではないが、ボンドシリーズはどうやらひとりの訳者が訳し ているようだが、この作品でのことば遣いにはげんなりさせられる。ボ ンドともあろうものが女主人公(つまり、恋の相手)に向かって「あん た」と呼びかけることはないだろう。ぼくなら断然「あなた」か「きみ」 にするのだが、あなたはどう思いますか。

(06/12)

『女王陛下の007』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171356-5

 007シリーズ第十作。再読。

 『サンダーボール作戦』で華華しく登場したブロフェルドがボンド終 生のライバルにのしあがる。現在につながるテロ(の方法論)が取り上 げられる。それにしても、「職業テロリスト」というのは存在するもの だろうか。してもおかしくはないように思う。体制を打倒するのではな くてテロにより金銭的利益を得ることを目的とするということだが、政 治や経済が国際的に密接に結びついた現在なら、よりいっそう「職業テ ロ」は成り立ちやすいだろう。

 本作は原作としても映画版としても毛色が違う作品と言っていいと思 う。映画版では、初代ボンドのショーン・コネリーがイメージが固定さ れるのを嫌って下りたため、ジョージ・レーゼンビーという役者がボン ド役を務めた。案の定興業は不発で、彼はそれっきり映画界から姿を消 したということだ(かわいそうに)。小説版では、「人間ボンド」―― 超人ボンドとても生身の人間であることが本作で強調される。《これ》 を描きたくてこのお話を書いた、のかも知れない。そんなことはないか も知れない。

(06/20)

『フットサル教本』 松崎康弘、須田芳正、大修館書店、 ISBN4-469-26489-X

 フットサルのよい手引書は中中ない。どころか、解説書の類は今まで まったくなかったらしい。本書はそう言っている。そして本書が初めての 本格的な解説書らしい。奥付が6月10日であり、 『オスカーのフットサルコーチング』より早いと考えられるから、 嘘ではないのだろう。

 『オスカーのフットサルコーチング』 と比べると、こちらの方がフットサルの歴史や競技の全体像を詳しく述 べているように思う。競技規則も解釈を含めて解説しているし、審判の 仕方も判りやすく書いてあるのがうれしい。審判の資格の取り方まで触 れてくれている。

 半面、テクニックの紹介と解説は浅い。結局両方買うのが正解ってこ とになるんだろう。

(06/22)

『007は二度死ぬ』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171357-3

 007シリーズ第十一作。初読。

 邦題、確か都筑道夫『推理作家の出来るまで』で見たと思うが「二度 だけの命」がよいと思う。これは松尾芭蕉の俳句ないし紀行文をモチー フにしたもののようだけれど、本当に「もと歌」があるのだろうか。不 勉強にして知らない。

 この作品は別の点でひっかかりがあるものだった。ご存じオヨヨ大統 領シリーズ『大統領の密使』に、この作品と関係のあるキャラクターや ギャグが出てくるのだが、読んでようやく納得。歳が合わないし拳銃も 違う(大体今回ボンドは拳銃を持っていっていない)けれど、それは小 林信彦の遊びだな。

 というわけで、シリーズ終盤、ついに日本を舞台にボンドが活躍する。 といっても、これまでの作品を特徴づけるような「アタック・アンド・ カウンターアタック」(これも都筑道夫命名(たぶん))は見られず、と いうより敵地に乗り込むのが作品の終わりに近づいてからで、筋の大半 はボンドとタイガー田中との珍問答、ボンドのカルチュア・ショックに 費やされる。実際、どれだけの取材をしたのか判らないけれど、当時の イギリス人にとって日本はそのように遠い国だったのだろうなぁと思わ せる「ギャップ」「誤解」に溢れている。ま、よその国のことを自分の 国のことのように理解するなんてそもそもできないことだけれど(だっ たらよその国を舞台にするなよ、なんて無粋なことは申しません)。

 ボンドは偶然にも復讐を果たすがひどい目に遭い、東洋の異国から母 国を目指して旅立つところで本作が終わる。

(06/25)

『激闘ワールドカップ'98』 後藤健生、文春文庫、ISBN4-16-764505-X

 2002年韓日ワールドカップ記念で読んだ。四年前が懐かしく思い出さ れた。たった四年前なのにな。

(06/25)

『6月の軌跡』 増島みどり、文藝春秋、ISBN4-16-354640-5

 2002年韓日ワールドカップ記念で読んだ。

 1998年フランス大会での日本代表、ニヨンからエクスレバンの一ヶ月 にわたるキャンプで、代表チームに何があったのか、代表選手たちは何 を感じ考えたのか、ワールドカップとは彼らにとってなんだったのかを、 選手、スタッフ当人たちの語りから再構成しようとした「ドキュメン ト」。

 貴重な証言集ではあるだろう。この国は一九五四年にワールドカップ に初挑戦してから四十四年間本大会とは無縁だった。ヨーロッパや南米 と違い、地域予選で優勝経験のある強豪と闘うこともない。社会的にサッ カーに関心が高い国でもない。そんな国が初めて覗いた世界がどんなも のか、当事者の目にどう映ったのかは記録しておく値打ちがある。

 しかし、日本人のナイーブさを表している本のようにも思う。こうい う本自体が、そしてこういう本が成り立つということ自体が。もちろん 内容も、だが。

 四年前のあの大会で、「直前になってのメンバー落ち」は大きな話題 になった。当時の岡田監督が非難されたりもした。この本を読むと残っ た選手の間にも動揺は禁じ得なかったらしい。しかし、同じようなこと は四年後の今回も起こったし、今後も本大会に進むたびに起こる筈だ。 いつかは慣れっこになって話題にならなくなるのだろうか。そうなって 欲しいし、一回も早くそうなって欲しい。確かに、四年前のあの出来事 は、最終登録22人に対して25人を連れていき、直前に三人を落とすとい うやり方で、それ自体も論議を呼んだ。けれど遠い異国の地で闘うなら ばぎりぎりまで候補を残しておきたいと思って当然だし、メンバー選考 は「勝つためにどうするのか」という観点でされるべきだ。この国の ジャーナリスト(もしジャーナリストと呼んでよいのならばだが)、こ の国の人人には「戦略的思考」というものが理解されないのかなどと思 いさえする。少なくとも何の視点もなく感情だけで論じていいことでは ないだろう。

 そして、「はじめての体験」に動揺したり何か特別の意味を感じ取っ たりとてつもない大事のように思ったり。ワールドカップ本大会に出場 経験のある国が何カ国あるか知らないが、第一回から出場している国国 でもない限りどの国も一度は経験したことだし、必ず一度は経験するの だ。特殊で特別な世界大会ではあるが、サッカーの試合をすることに変 わりはない。そこに常以上の値打ちや「何ものか」を見出してしまいそ の結果自意識過剰になる。まして経験がないだけにその自意識はどんど ん先鋭化する。日本人の精神構造のひとつではないだろうか。

(06/29)

『黄金の銃を持つ男』 イアン・フレミング、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-171358-1

 007シリーズ第十二作。再読。

 東洋の異国から母国に帰ったボンドだが、帰る途中でひどい目に遭い、 まずそれで「事件」が起こる。ひどい目に遭い続けだ。やっぱり秘密情 報部員なんてやるものではないよな。立ち直ったボンドは新たな強敵と 対決しにジャマイカに赴く。死にに行くようなものであって、まったく 割に合わない職業である。

 本作がボンドシリーズ「最後」の作品であり、イアン・フレミングの 絶筆でもあったと思う。だから、ではないだろうが、これまでの作品に 比べると味わいが薄いような印象がある。意図してのことかどうか知ら ないが、「シリーズはこれでおしまい」と言っておかしくない結末のつ け方だ。

 もと秘書メアリー・グッドナイトは、映画版ではブリット・エクラン ドという女優さんが演じていて、お茶目でドジな秘書ぶりが好きだった な。シリーズ中唯一ではないだろうか、女主人公との濡れ場がないのは。

 これで残すは短編集である『バラと拳銃』のみ。(後もう一冊あった ように思うが、ま、それまで読まずともよかろう)

(06/30)

7月

『サッカー監督という仕事』 湯浅健二、新潮社、ISBN4-10-436201-8

 2002年韓日ワールドカップ記念とはまったく関係なく読むのである。

 湯浅健二も、よい。信頼するサッカーライターのひとりである。単に ドイツのプロコーチのライセンスを持っているからではない。サッカー に対する態度、愛情、考え方がハッキリしていてその視点でサッカーを 切り取って読ませてくれるからだ。そこら中にたむろしている凡百の 《辛口屋》とは一線も二線も、いやいや千線くらい画しまくっている。

 後藤健生がジャーナリストの眼から《観るサッカー》を切り取って論 じるとするなら、湯浅健二はプロコーチの眼から《するサッカー》を切 り取ってその面白さを論じてくれる。どちらも得がたい「水先案内人」 と言えよう。

(07/03)

『システム障害はなぜ起きたか』 日経コンピュータ・編、日経BP社、 ISBN4-8222-0783-8

 4月に起こった有名なみずほ銀行の情報システム障害を「検証」し、 過去の成功事例を紹介し、情報システムの統合という難事業において重 要なことは何かを論じる。事例が金融機関の情報システム、特に合併に 伴うシステム統合における「破綻・崩壊・失敗」のみだが、この本に書 かれていることはどんなソフトウェアシステムにも通用する。さすがは 日経コンピュータ、日本のコンピューターシステムを長い間見つめてき ただけのことはある。

 みずほについて言えば、ああ、なるほどね、例の障害は起こるべくし て起こったんだなと納得してしまう。それほど、やってはならないこと ばかり律儀にやっている。これでシステム統合が「計画」どおり終わり 何の波乱もなくシステムが動いたらその方がおかしい。UFJ銀行も殆 ど成功していたのに「ちょっとした過ち」で火を噴いたそうだが、これ も計画途中で(それまでの順調ぶりに気をよくした経営陣が)やっては いけないことをやってしまったのが大きな原因だろう。

 本書の主張の根幹は「早急にプロジェクト運営の文化を根づかせなけ れば、これからの情報システム開発はできない」という、それはもうこ の上ないほど正しくてどーもすいません、というようなものだ。ただし 本書で言っている「プロジェクト運営責任者」は、こうした巨大システ ム・基幹システムの統括責任者であり、具体的にはCIO (Chief Information Officer) といった執行役員が想定されている。より明確 に言えば経営陣のリーダーシップということで、経営陣の責任による意 思決定、経営陣の責任による管理運営がなければ巨大システム・基幹シ ステムは成功しないと言っている。現場任せにして後は知りませんでは 駄目だと言っている。これの裏には、日本の経営者層は口ではどう言っ ても内実は情報システムなどに関心を持っていない(いなかった)とい う実態がある。

 しかし、では「現場」はどうすればよいのかというと、「現場」にも プロジェクト運営の機構は必要だし、プロジェクト運営者は必要だ。よ ほど小規模でない限り、どんなシステム開発にもプロジェクト運営は必 要なのである。なぜならプロジェクトとは「生もの」、顧客、開発者、 利用者といった生身の人間が相互に作用して織りなす有機的運動だから である。プロジェクトをうまく組織しなければ、対象システムは開発で きない。そうした「現場の運営」「小規模プロジェクトの在り方」につ いて本書は何も言ってくれていないが、規模の大小はあっても根幹の要 素は不変だろうと思う。

(07/05)

『ゼロからはじめるスイッチ&ルータ』 アスキー、、 ISBN4-7561-4102-1

 ネットワーク(LAN)の基礎知識でもあり今や中核の技術でもある「ス イッチ」や「ルーター、ルーティング」を、素人にも判りやすく解説し たムック。同社の雑誌記事を再編集して収録したものだろうが(おそら くそのためだろう、「××ページを参照」といった部分のページ数が本 書と合っていない)、製品の解説にまで踏み込んでもおり、とっかかり をつかむには悪くないと思う。

(07/09)

『悪い言葉集』 ゴンザレス三上・チチ松村・貞奴、青山出版社、 ISBN4-89998-034-5

 ふとしたことからゴンチチのラジオ番組を聴くようになった。

 有名な、というか、知る人ぞ知る、というか、強力ギター・デュオで あることを除けば、詳しいことは知らない。そこでウェブで検索してみ たら、その中にこの本がリストされた。ゴンチチと貞奴なる女性作家の 三人組からなる「良い言葉会」が、世の中の「悪い言葉」を集めて編纂 したものである。

 期待したほど面白いものではなかった。何を期待していたかというと 何も期待していなかったのではあるけれど。この手の本を編む時にはどー してもそうなる辞書形式。「悪いことば」を並べて、寸評というのか感 想というのか短文を添える体裁で、たとえば筒井康隆の『乱調文学大辞 典』や『欠陥大百科』、ビアスの『悪魔の辞典』、フロベールの『紋切 型辞典』(最後のは読んだことないと思う)と同じような形である。言 うまでもなくこの手の遊びは寸評のキレが命なのだが、それが感じられ ない。特に貞奴の持ち分は、文それ自体としては面白くないこともない けれど、肝心の「悪いことば」というテーマから遊離しているように見 える。

 とはいえ、その点を除けば、「悪いことば」というコンセプトはいい ですな。チチ松村はやはり面白い。「他力本願」とか「焼石に水」なん て、サイコウだなあ!

(07/20)

『物情騒然。 人生は五十一から』  小林信彦、文藝春秋、ISBN4-16-358370-X

 週刊文春に連載の随筆『人生は五十一から』の、二〇〇一年分をまと めたもの。一九九八年からだからこれで四冊め。ぼくは毎年「去年はど んなことがあったかな?」とこれで振り返っている。いや二〇〇一年、 二十一世紀最初の年(もはや紋切型)は実にいろいろなことがあった。 暗い気持にならない方がどうかしている。

 さて、この先どんな顔をして暮らしていけばよいのだろうか?

(07/20)

『バラと拳銃』 イアン・フレミング、創元推理文庫、 ISBN4-488-13805-5

 足かけ四ヶ月に渡って読んできた007シリーズも、これでおしまい (あと一冊くらいあったかも知れないが)。記憶によれば、シリーズ唯 一の短篇集。

 本編の長篇たちからすると、本書所収の短篇はみな異色に見える。 「ナッソーの夜」ではボンドは完全に脇役であり、しかもこの作品には 単に彼の職業スパイとしての経歴のみが必要だっただけ、それも香りを 添えるスパイスとしてであって主要な調味料でさえない、ボンドでなく てもちっともかまわないしいなくても何の問題もない。

 長篇シリーズものの主人公が短篇に登場するのは、書き手の立場から すると、次のような理由からではないだろうか。

  1. 長篇からは諸事情により削った逸話、挿話を短篇の形で発表したい
  2. 長篇にならなかった話を短篇の形で残したい
  3. 別にその主人公でなければならない理由はないが、キャラクターが 確立しているので利用しやすく動かしやすい
  4. その主人公である必然性はまったくないのだが、営業的に見て知名 度が高く読まれやすい
  5. ほかの主人公を創造するのが億劫である、またはエネルギー|想像 力が涸渇した

 評論家でも文学者でもないので、本書の中のどれがどれという分類は せずにおこう。シリーズものの主人公を短篇で動かしたり別の作品に登 場させたりするのは職業小説家の特権だが、職業小説家だってまた辛い 時もあるのだ、きっと。

 異色といえば、「珍魚ヒルデブランド」もなかなか異色だし、コミッ ク・スリラーといった趣のある面白い短篇だ。終幕時のボンドの表情を 想像するとやたらとおかしかった。

(07/25)

『フットサル攻略マニュアル100』 須田芳正、NHK出版、 ISBN4-14-016111-6

 ぼくの知る限り、フットサル専門の解説書はこれで三冊目。それも六 月以降に集中している(それ以前には一冊もなかったといわれている)。 フットサルも本格的に普及期に入ったのだろうか。それとも単にワール ドカップの余波、あるいはアテコミであろうか。アテコミでもいいから 普及はして欲しい。というか、日本各地にフットサルコートが乱立して 欲しい。一チーム当たりの人数が少ないから気軽にチームを作れるのが 魅力というが、チームが気軽にできるのに対してコートが少なすぎるよ うに思うぞ。この本とは何の関係もないが。

 木村和司(2001年フットサル日本代表監督。往年の名MF)が序文を寄 せているのになぜか感動してみたり。ただし、他の二冊に比べると入門 書の色合いは薄い。少なくともフットサルというスポーツの遊び方を教 えてくれる本ではない。具体的なテクニックを連続写真で解説している のでもなく、練習法やフォーメーションの説明もいかにも薄い。それで いて100の攻略ポイント(表紙には英語でtipsと書かれている)の中に はサッカーに詳しくないときっとピンと来ないことも書かれている。 「やったことない、サッカーは知ってるけれどフットサルは知らない、 これからやってみようかな」と考えている人か、「始めてはみたけれど 今はまだ玉を蹴っているだけ」と悩んでいる人に向いているように思う。

 それにしても、なぜNHK出版がフットサルの解説書を出版するのだ ろう。これからフットサルのテレビソフト化を目論んでいるのかな。

(07/30)

8月

『サッカーを「観る」技術』 湯浅健二、新潮社、ISBN4-10-436202-6

 副題「スーパープレー 5秒間のドラマ」。

 2000年シドニーオリンピック日本代表の試合、2000年ヨーロッパ選手 権、2000年アジアカップ日本代表の試合などに、ご存じ湯浅健二の視線 が当てられ、「観る技術」が炸裂する。プロとはいえ、よくこんな細か いところまで見ているものだ。というか、「見抜く」という方が近いよ うにも思う。

 しかし……文字、ことばによって再構成された技やプレイの流れは、 けっきょく、「死んだ技」「死んだプレイ」でしかない。読んでいても どかしい。昔ジャズマンの山下洋補はたとえとしてジャズとサッカーを 同一視してみせたが、確かにどちらも「それが実際に行なわれている瞬 間」に居合わせないと意味がない。その瞬間を過ぎてしまったら、こと ばでは埋めようのない欠落が生じるのだ。

 現場に行ってたくさん試合を観ないとな。

(08/07)

『海の都の物語 上・下』  塩野七生、新潮社、ISBN4-10-646504-3, 4-10-646505-1

 ひとつの民族、ひとつの国家には必ず盛衰があるという。しかしそれ を乗り越えて長命を保つものは少ないという。地中海世界において一千 年以上の寿命を得た民族/国家のひとつであるヴェネツィアの歴史が地 中海世界史物語の第一人者によって綴られる。ちなみに、『ローマ人の 物語』の十年以上前に書かれた。

 学問的に「民族」というものをどう定義するのか、実はまったく知ら ないのだけれど、「血」とか「遺伝子」的にはイタリア半島の人たちは 同じようなものの筈だ。それが、ローマ帝国崩壊後各地に築かれた都市 国家は同じ祖先から生まれでたとは思えないほど性格や振舞いが異なる。 もっとも、個人単位の「血」や「性向」だけが共同体の振舞いを規定す るわけではなく、共同体の「性向」が個人に影響を与えることもあるだ ろう。ヴェネツィアの成り立ちはヴェネツィア的な人間を育むのかも知 れない。蛮族の襲撃を避けるためにやむなく築いた「海の上の街」で暮 らし、何の天然資源もないために自ずと交易を生業とせざるを得ず、交 易の権益を守るために外交の術を磨くことになった。そして独特の政体 を創り上げそれによって千年以上の長寿を誇った。

 ところが、建国初期から中興期にかけては祖国を興隆させた彼らの性 向が、晩年には逆に祖国を滅ぼす原因となる。作者の「史観」は第十二 話「地中海最後の砦」で語られるが、凄絶である(ことばはおかしいけ れど)。絶望的な認識がそこにある。まるでゲーデルの不完全性定理だ 。――しかし、その現実を見つめることが必要なのだろう。

 そう、もうひとつヴェネツィアを通して描かれるのが、現実に対する 対し方だ。現実主義ということばを、作者は日本語辞典に載っているよ うな「実際的な立場で判断したり行動したりする」といった意味では用 いない。自称理想主義者は「現実主義」を敵視し軽蔑するが、どちらの 方が賢明なのか、第三話「第四次十字軍」を読めばよく判る。

 国家、民族もまた生き物、生命体なんだと感じる。著者が淡々と語る 「ヴェネツィアの死」はあまりに切ない。最盛期、先祖たちが似たよう な危機にどう対処しどう乗り越えてさらなる隆盛を果たしたかを知れば なおのこと。そしてそれが真実なのだと、真実といって言い過ぎならば 人間世界の現実なのだと思い知らされる。

 まったく、観念ばかり先走った《思想》よりは歴史の方がずっと面白 くてためになる。

(08/21)

『熱狂 ワールドカップ2002、夢のような31日間』  杉山茂樹(文)・木下健二(写真)、実業之日本社、ISBN4-408-61100-X

 週刊サッカーマガジン(ベースボールマガジン社)に、近藤篤という 写真家の連載ページがある。近藤氏と杉山茂樹は友人らしい。近藤篤の 方は文章も写真も好きなので、読んでみる気になった。考えてみれば、 あの大会が終わってからあの大会についてまとまった文章を読む初めて の機会だ。

 実は、これまで杉山茂樹という書き手を敬遠していた。はっきり言え ば否定していた。《辛口屋》ではないと思ってはいるが、日本代表チー ムに対していささか情緒的な文章や表現が目につく印象があったからだ。 読んでみると、この人は本当にサッカーが好きな「フットボール莫迦」 なんだなと感じる(もちろん、サッカーに興味もないのにサッカーライ ターなどやるもの好きはいまい)。本書はフットボールが心底好きなサッ カーライターの、「ワールドカップ韓日大会彷徨録」「ワールドカップ 日記」とでもいうべきものである。

 読んでいたらあれこれ言いたくなったが、それは随筆の方にまとめよ うかなと思わないでもないのでここでは割愛。文章はともかく写真は素 晴らしい。

(08/30)

9月

『日本精神分析』 柄谷行人、文藝春秋、ISBN4-16-358430-7

 柄谷行人、読むのは初めて。少なくとも一冊の本では。四章からなる が、いずれも講演録から起こしたと思しく、思ったより読みやすいので 安心した。ほかのも読んでみようかという気にはさせる。

 長いこと思想系は敬遠している。難解な用語、観念をこねくり回すよ うな持って回ったもの言い、観念の重層建築のような論旨、そしてそん な用語やことば遣いをまねて喜ぶ莫迦な取り巻きが厭だからである。観 念をこねくり回すくせに(だからこそ、かも知れないが)現実に対して ろくにコミットできていないところも気に入らない。その中で柄谷行人 はちょっと違う印象を持っていないこともなくて(持って回った言い 方)、塩野七生と接点がある記憶がある。間違いかも知れないが。今回 読んでみようと思ったのは、新聞の書評欄でこれの紹介が目に止まった から。「言語と国家」という章見出しにちょっと動かされたのだ。エス ペラントをやっているせいもあるけれど、エスペラントなどと関係なく この手のテーマは重要事項である。

 第一章で言語と国家との関係を論じ、第二章でことばの問題から「日 本精神分析」ということを試みる。第三章では代表制民主主義の、第四 章で貨幣経済の《虚偽》《不可能性》を暴く。そのいずれにおいても根 本に「資本=ネーション=ステート」という近代国家の成り立ち・基盤に 対する異議申し立てがある。柄谷行人その人が初めてなので論評などで きるわけもないけれど、その手つきは鮮やかに見える。

 エスペラントをやって自分が《思想ぎらい》であることを思い出した が、《思想》であれば何でもかんでも嫌悪しているわけでも、常に 軽蔑しているのでもない。ものごとの表層を切り裂いて「ことの本質」 (そんなものがあるとすれば)に迫るには有用だと思う。特に表層だけ を上滑りして流れる言説が満ちあふれている時には。だが、《思想》な るものの多くは現実から遊離している(そのように見える)ことが多い。 観念の世界でお遊戯しているみたいに感じるのだ。ふたつめの「欠点」 は、ひとたび「ことの本質」に鋭く迫り的確なことばで観念を切り取っ た後は、逆にその観念が先行しているかのようなものの見方が横行する ところ。「思想還元論」とでも言おうか。現実の人間の言動や事件、諸 制度の底にある何かしらの観念が横たわっている、と喝破するのはいい が、そこから逆に、「予めしかじかの観念が存在して、それが人間の言 動や事件、諸制度を規定している」みたいなことを平気で言う人がいる。 そちらの方が正しいのかも知れないけれど、でもずいぶんと人間を莫迦 にした物言いではないか。

 しかし本書での柄谷行人は、「ことの本質」に迫る《思想》を語って いるし、現実からそう遊離しているとも見えない。こういう時の《思想》 は読んでいてすがすがしい(変なことばかも知れないが)。

 それにしても思想家は大変だなと思う。《思想》を語る際にも歴史の 知識は欠かせないわけである。本書では言語と国家との関わりを古代の 「帝国」の存在にまで遡って考察しているのだが、この場合、その「古 代の『帝国』」に対する歴史認識という大前提が誤っていたらすべての 推論はパアである。たとえばの話、著者がそうだと言うのではないけれ ど、近代の植民地主義帝国とローマ帝国とを同質の「帝国」と見るよう な論点だったとしたら、その上に組み上げた思想的考察が何の意味もな いものになってしまう。思想家たるもの、人間世界の森羅万象に人並み 以上の知識と見識を持っていなければならないわけで、これは辛いこと だと思うし、まただからこそ思想家は古来尊敬されるのだろう。

 さて、こうして近代国家のあり方に異を唱える著者は、考察を重ねた 末に「地域通貨/市民通貨」と「抽選制(あるいは籤引き制)民主主義」 という概念を提示している。そしてそれをもとに近代国民国家を《揚棄》 すべく「行動」を起こしつつあるようである。《思想》する人で行動を 伴う人って珍しいのではないだろうか。珍しくないのかな。

 第一章末尾で紹介されている NAM(http://www.nam21.org/japanese)のウェブサイトをちょっと覗 いてみた。面白い試みもあるものだ(面白い、と言ったら関係者に怒ら れるのだろうか)。面白半分の人は入るなというのでぼくは入れないが、 この運動を見守ってみたい。独立した個人の集積が、どれだけ「資本と 国家への対抗」をやりきれるのか。この行動は、現在の「世界的規模の 貧富差」という問題への回答という意志もあると思う。その点でも注目 したい。

(09/05)

『ツーダン満塁』 矢作俊彦、東京書籍、ISBN4-487-79736-5

 矢作俊彦の文章は、小説でも随筆でも、重くてなかなか読めない。筆 致は軽やかだしユーモアもあって、見習いたいくらいなのだ。しかし、 地の文、描写、科白、言っていること、すべての中にときどき鋭く光る ものがあり、そのきらめきに心が冷やされるような思いをして読み進め ない――ということがしばしばある。

 本書はあちこちのメディアにばらばらに発表した短文を集めた随筆集 だが、そのどれにも太く硬い基調低音が流れている。これを「矢作節」 という。かどうかは知らないが。

 著者は一九五一年の生まれである。その人がこの国のありさまに怒り を隠しきれず、鋭く毒づく。小林信彦は一九三二年の生まれで、やはり 同じことを言う。世代や育ちの違うふたり(少なくとも)の小説家が異 口同音というのは、偶然ではあり得まい。アメリカのSF作家が言った ように、やはり小説家とは「炭鉱のカナリア」なのだろうか。

(09/10)

『夏のエンジン』 矢作俊彦、文藝春秋、ISBN4-16-317210-6

 矢作俊彦はいい。

 寡作の作家でもあり(言い訳)、情報収集に不熱心なせいもあって (本音)何年に一度くらいの割合でどかっと読むのだが、そのたびにい いと思う。何がよいといって、この文章感覚には痺れるしかないとつく づく思うのだが、あなたはいかがですか。ことに本書所収のようなスケッ チ風の短編ともなると、切れ味がいっそう鋭くなるように感じる。

 それぞれに「車」が背景として、あるいは小道具として登場する十二 の短編からなる。主役は、その車が存在した時代の空気とでもいったと ころか。説明は一切ない。描写があるだけである。それも、たぶんぎり ぎり最小限の。それですべてが足りている。

(09/12)

『内乱記』 ユリウス・カエサル(國原吉之助・訳)、講談社学術文庫、 ISBN4-06-159234-3

 フットサルの試合に行く途中、帰りに読む本をと思い立ち寄った本屋 で発見し捕獲。塩野七生『ローマ人の物語』で刺激されてずっと読みた い本のひとつだった。日本語訳はないんじゃないかと思っていたら、あっ たのですね。

 カエサルがガリア平定を終えた頃、ローマ市民を二分する政争が起こ る。といっても突発したのではなく、ずっと以前から燻っていたものが 火を噴いただけであって、元老院派対民衆派、元老院(の望む政体)対 カエサル(が必要と見た政体)の対立は必然だった。元老院はガリア平 定で市民の人気を得たカエサルを失脚させようと画策し、カエサルはこ こで失脚することはすなわち政体改革の失敗を意味するのでそれに抗わ ざるを得ない。元老院派は勇将の誉れ高いポンペイウスを担ぎ出し、カ エサルに圧力をかける。元老院に屈しても敗北、ポンペイウスに敗れて も先はない、追い詰められたカエサルは、「賽は投げられた」と叫んで ルビコン川を渡る。その、渡ってからのお話がこの『内乱記』である。

 塩野七生はカエサルを「文章の達人」と絶賛するが、翻訳されたカエ サルが文章の達人かどうかは一概には言えない。翻訳にはやはり翻訳者 の文体というものが重なってしまうし、訳語の問題もある(二千年昔の 出来事や事物を、現代日本語でどのように伝えられるというのか)。原 文を読めないものは不幸である(ラテン語、少しは齧りましたが、それ だけじゃ読めません。当然)

 でも、仄かに香りは感じられたと思う。カエサルの筆致(口述だろう けど)はあくまで冷静で冷徹である。簡潔であり、無駄な描写も説明も なく、よけいな思い入れもない。もちろん、取り扱うのが市民戦争であ るだけに『内乱記』は顛末を報告するものだけでは済まず、自己正当化 や政治的な意図も皆無とは言えない。それにしても、感情を抑えまるで 事実を淡淡と語るに徹するかのような叙述ぶりは、二千年後のハードボ イルドを思わせる。

 圧巻はやはり――

 ポンペイウスはカエサルとの「決戦」に敗れ、敗走を続けてエジプト はアレクサンドリアに辿り着く。そこでかつての部下を集め再度軍を編 成しようと目論んでのことだが、エジプトは当時王位争いの真っ只中。 ポンペイウスの来訪を危険視した現王の執政によって暗殺されてしまう。 かつて地中海世界に勇名を轟かせた武将の最期としてはあまりに素っ気 なく、惨めな死を遂げる。その始終が予め語られた後でカエサルがポン ペイウスを追ってやって来る。そして、

アレクサンドリアでポンペイウスの死を知った。

 これだけである。

 一説にはポンペイウスの首(暗殺者側が切り取って寄越した)を見た 時カエサルは顔をそむけて涙を流したとも言われるが、そんなことは書 かない。数十年来のライバルであり尊敬軽蔑愛憎さまざまな感情を持っ ていた相手だろうに、だから実際にはいろんな思いが去来しただろうに、 そんなことは書かない。が、書かれないが故に却ってその時の感情の深 さ、複雑さを読み手は窺い知ることになるのだ。

(09/19)

『ジュリアス・シーザー』 シェイクスピア(小田島雄志・訳)、 白水uブックス、ISBN4-560-07020-2

 『内乱記』を読んだ後なら自ずと「その後の話」であるこちらも読み たくなるではないか。

 というのはウソ。『海の都の物語』を読んでいて、作中でも何度か引 用されていたこともあり、『ヴェニスの証人』を読みたくなった。その ついでにと買っておいたもの。だがタイミングはよかった。

 この作品は中学か高校の国語の授業で有名なアントニーの演説(それ にしても古代ローマに親しんでしまうと、シーザーとかアントニーとか 英語読みの名前は間抜けに見えます)を読んだことがある。ことばの力 のものすごさを感じたものだが、作品全体はというと、ぴんと来ない。 誰が主人公なのか判然としない。カエサルは途中で殺されてしまうのだ し、殺される前にしたって人物描写が深堀りされているとも思えず、単 に独裁者志向の豪傑、平板で型通りの一作中人物という感じしかしない。

 『ローマ人の物語検戮隆頭に引用されているのだが、イギリスの劇 作家バーナード・ショウはこう述べたそうだ。

人間の弱点ならばあれほども深い理解を示したシェイクスピアだったが、 ユリウス・カエサルのような人物の偉大さは知らなかった。『リア王』 は傑作だが、『ジュリアス・シーザー』は失敗作である。

バーナード・ショウの真意は知らないが、なんとなく賛成する。作者の 視線はブルータスに注がれているのかも知れないにしても、この作品で のカエサルはあまりに影が薄い。読み方が悪いのかな。

(09/28)

『SF大将』 とり・みき、ハヤカワ文庫、ISBN4-15-030700-8

 フットサルの試合に行く途中、帰りに読む本をと思い立ち寄った本屋 で発見し捕獲。試合に行くたびに買ってばかりである。

 とり・みきは好きな漫画家の一人。でも熱心にまたは忠実にフォロー するかというとそんなことはなく、見つけたら買う程度である。でも読 むと面白い。SFは作者のバックグラウンドのひとつで、本作ではSF への作者の愛情が迸って{ほとばしって}いる。全部で約四十編のSF小 説の題名を引き、漫画に仕立てている。

 もちろん、愛情が迸るといっても作品そのものを無邪気に引用したり 翻案したりもじったり戯画化したりするような芸のないことはしない。 そこがこの作者のスゴいところである。

(09/29)

10月

『ヴェニスの商人』 シェイクスピア(小田島雄志・訳)、 白水uブックス、ISBN4-560-07020-2

 『海の都の物語』を読んでいて、作中でも何度か引用されていたこと もあり、読みたくなった。『海の都』では、ヴェネツィア人の商売の流 儀やリスク分散の仕方を述べて、「こんなことをする『ヴェニスの商人』 はいない」といっている。まあそんな興味から読んだ。

 ヴェニスの商人アントーニオは、友人の危機に三千デュカート(塩野 七生にならった表記で)を用立てる。彼の財産をもってすればたやすい 融資なのだが、あいにく全財産を今回の貿易につぎ込んでおり、手許に 金がない。そこでユダヤの金融商シャイロックに借りることにする…… という話である。こんな、全財産を一度に注ぎ込むような「ヴェニスの 商人」はいない(いなかった)のだそうだ。確かにこれではリスク管理 どころではなく、むしろギャンブルだ。

 最初、これは喜劇だなと思った。喜劇らしい筋立てだし、喜劇らしい 作中人物もちゃんといる。でもだんだん悲劇に見えてきた。シャイロッ クの怒りは喜劇の枠にはとても収まらないのではないか。それにしても、 この戯曲は図らずも「キリスト教徒」の真相を暴いてくれているなあ。 自分たちの教義を信じないというだけで他教徒を迫害できるのだからな。 いやしかし、そういう観点から観ると、やはり悲劇なのではないかな。

 てなことを考えつつ読み終えると、巻末の解題でその問題も論じられ ていた。『から騒ぎ』のような喜劇と違い如何様にでも解釈できる作品 ということらしい。

 「人肉1ポンド事件」の“判決”は、妙なたとえだが数論の証明を読 むみたいで面白い。「指輪騒動」は観客を楽しませるご愛嬌か。それに しても判らないのはアントーニオだ。彼ひとり結婚しないのは、戯曲の 上での制約のほかに何か含みがあるのではないだろうか? 最初「主人 公の一人」と書いたが、アントーニオは主人公とは言えないのではない か。などなど。

(10/02)

『ヴェニスの商人の資本論』 岩井克人、ちくま学芸文庫、 ISBN4-480-08004-X

 新聞で数学に親しむための本を何冊か紹介していたので買ったのだが、 『ヴェニスの商人』を取り上げているのももちろん決め手。珍しく系統 的な乱読をすることになった。

 てっきり一冊全部が表題作で埋まっているかと思ったら、『ヴェニス の商人』を論じているのは最初の一章のみだった。数百年の間に生み出 された数多の解釈に異を唱え、この戯曲が表す世界について独特の解釈 を施している。構造主義的解釈というのかな、こういうのは。なかなか 面白い。少なくともアントーニオがあれほど影が薄い理由は納得できる。

 しかし著者の本分は『ヴェニスの商人』を論じるのことではなく、経 済を語る(あるいは経済学を語る)ことなのであった。ぼくは経済学に は疎いし、本書を読むための基礎知識も録になく、だから上っ面しか読 めなかったのだが、経済(学)も興味深そうだなと感じた。綿密な学問 であるらしい。貨幣なんて毎日露ほどの疑問も持たずに使っているけれ ど、ひとたび疑いの眼を向ければこれほど怪しいものはないようだ。

 さて、この本は「数学に親しむならこんな本を読むとよい」という書 評欄の記事で買う気になったのだが、どこに数学との関連ないし数学を 想起させる要素があるのだろうか。書評記事をすっかり忘れてしまって いるのだが、たぶん、筆者の論の立て方と進め方が数学的ということな のだろう。あるいは本書の最後にまとまっている書評の中にゲーデルの 不完全性定理などが出てくるからだろうか。

(10/22)

『偶然と必然 2002W杯に見る世界のプレーと日本』  後藤健生、文藝春秋、ISBN4-16-358950-3

 待望の一冊。後藤健生が2002年ワールドカップを語ってくれるのを待っ ていた。その冷静な「リアリズム」にこの大会がどう映ったのかを読み たかった。

 「せっかく、ワールドカップでこれほどレベルの高い試合が繰り広げ られているのに、一般紙誌や女性週刊誌はともかく、新聞でもスポーツ 誌でも、試合自体の話が少なすぎるのではないかと」(あとがき)いう ところから、観戦記に徹した内容となっている(さらに全試合の記録と、 過去のワールドカップ通しての記録がついている)。いやらしい思い入 れが排除されているのは言うまでもない。今回のワールドカップに関し てやや情緒過多に見える言説に多く接した後では、この人の観戦記はそ れこそ甘みを抑えたレモネードかペパーミントキャンディのように読み 手の気持をさっぱりさせてくれる。

 ともかくいい試合を観たいと言う人がいる。華麗なプレー、果敢なプ レーこそ価値がある、勝負にこだわった試合運びなど見たくないという 人がいる。そういう人を否定する気はないし、後藤健生のみが「正しい」 とも思わない。畢竟、あとがきにあるごとく、

ワールドカップにはいろいろな楽しみ方があります。そのどれが正しく て、どれが間違っているわけでもありません。そのすべてがワールドカッ プというビッグイベントの一部なのです。

 なのだろう。それでいいと思う。が、ぼくには後藤さんの見方がしっ くり合う。

(10/11)

『テレビの黄金時代』 小林信彦、文藝春秋、ISBN4-16-359020-X

 本人はなりゆきだったと思っているようだし嫌っている(少なくとも 自分はその世界に縁がないと思っている)ようだけれど、著者は間違い なく日本のテレビ史に関わりの深い人である。テレビ史のごく一部分に せよ。本人の作品にも、「第一期」とされるものには(本人が「戯作」 と称するようなものが多いかも知れないにせよ)テレビの世界を舞台や 背景にしたものがいくつかあるし、「第二期」以降にもしばしば見かけ る。いささか派手に見えること、誰でもその存在を知っている業界であ ることなどから読者受けがいいという理由でそうしたのかも知れないけ れど。もうずいぶん昔に著者が『テレビの黄金時代』というムックを編 集したと知り、欲しいと思ったがその時はもはやどこにも見かけなかっ た。本書はそれと同名で、もちろん中身のありようは異なるのだろうが、 著者の知る日本テレビ史を記したものである。

 ぼくはひそかにこの人の現実感覚、バランス感覚を尊敬している。そ れはたとえばこんなところに現れてくる。雑誌の編集を仕事にしている 頃、あるテレビ人から苦情?? を言われた。その時に、

 「冷静になってから、ぼくは、この〈テレビ界の王者〉に、原稿を書 いてもらうことはできないだろうか、と考えた。」(92ページ)

 確実な知識と素養があり自分の意見を持ち的を射た批判ができる人は、 雑誌への寄稿者として申し分ない。批判をされると頭に来てしまうとい うのでは、商売をしていく上では素人と言うべきだろう(商売をしてい かなくても素人だ)。雑誌が売れるなら、頭を下げて原稿を依頼しても いい。そう判断できる人は案外少ないのではないかと思う。自分の趣味 や好みに走ったり、自分に甘いことを言ってくれる人ばかり重用したり する人の方が多数派なのではないか。

(10/15)

『2002年ワールドカップの真実』 後藤健生、実業之日本社、 ISBN4-408-61216-2

 やはりワールドカップは後藤健生に「総括」してもらうのがよい。

 『偶然と必然』と重なってい るが、配慮はされていて、後者は観戦記に徹しているが、本書はサッカー と縁の薄い漫画週刊誌に掲載された記事が中心であることもあり、試合 の話だけでなく開催地間の移動の話、食事の話、会場のボランティアの 印象、開催統括団体JAWOCの悪口など多岐にわたっている。1974年西ド イツ大会から現地で観続けてきた人だけに、過去の大会との比較ができ る。経験はこういう時に無上の強みである。その合間にカットバック風 に半年前から直前までの「日本代表の準備の風景」を織り込んでいる構 成もにくい。

 笑ったのは、「いい出したのは後藤さん」現象の話(50〜51ページ)。 「最近、××といった言説を多く見かける(××は、 サッカーやワールドカップに対する決めつけめいた言説、たとえば「ワー ルドカップには国の威信がかかっている」)。どうしてそう過 激になるのか判らないが、出どころは自分かも知れない」というもので、 「でも、そんなに堅苦しく考える必要はない。肩肘を張らずにサッカー を、ワールドカップを楽しもうじゃないか」と結んでいる。でも、ぼく は「大会開催国にとって一次リーグ突破は義務である」と著者が書いて いるのを読んだ憶えがある。それがいつの間にか「一人歩き」して、根 拠の定かでない「世論」を形成し、日本代表チームに「一次リーグ突破 は義務」という圧力を与えることになったということか。

 「ワールドカップに浮かれている人たちを戒めるために、サッカーを 知らない人たちに警告するために、そういうことは言ったかも知れない」 と言い訳しているのだが、それは本音かも知れない。日本サッカー興隆 の時期にあって、《啓蒙家》たることも辛いことだろう。

(10/18)

『怠け数学者の記』 小平邦彦、岩波現代文庫、ISBN4-00-603019-3

 これも書評欄で数学に親しむための本として紹介されていたので買っ てみたもの。

 一時期数学の入門書(?)を好んで読んだことがあって、それらの本 の中で著者の名は既に知っていた。「数覚」ということばも知っていた。

(10/24)

『「わからない」という方法』 橋本治、集英社新書、 ISBN4-??-??????-?

 これも書評欄で数学に親しむための本として紹介されていたので買っ てみたもの。数学的センスの中には「ものの見方、考え方、ものごとに 対する態度」というのも確かに含まれており、数学の態度に通じるもの があるとして紹介されたのだろう。

 不勉強にして橋本治は初体験。スゴイ人だとは思っていたが食指が伸 びなかった。この本で『桃尻娘』や『桃尻語訳枕草子』を読んでみたく なった。

 言っていることは相当にまともである。

(10/25)

『砂の女』 安部公房、新潮文庫、ISBN4-10-112115-X

 安部公房を再読してみたくて何冊かまとめ買いした。

 細部はすっかり忘れている。男は間違って落ちたと思っていたのだが、 騙されてしまったのだな。つまり計画的確信犯的な行為だったわけだ。

 安部公房の作品には思いのほか「性」がサブテーマ、あるいは関連ト ピックとして現れるらしいという印象を持った。

(10/26)

『燃えつきた地図』 安部公房、新潮文庫、ISBN4-10-112114-1

 これ、以前読んだと思っていたけれど、いくら読んでもぜんぜん思い 出さない。もしかしたら初読なのかも知れない。でも冒頭場面の描写の あらましや主人公の設定、事件の発端は朧に知っている。やはり再読な のかも知れない。新鮮な気持で読めたのは間違いない(苦笑)。

 安部公房的である点を除けば、この作品は一人称私立探偵小説、ハー ドボイルドミステリの骨格を借りている。主人公の「ぼく」は興信所の 調査員であり、依頼人のもとに出向き、《事件》の調査を始める。もち ろん「ぼく」は《事件》に対して徹底的に第三者である。ハードボイル ドミステリと異なるのは「謎」が一向ほぐれてくれないことだが、ほぐ れてしまったら安部公房ではなくなる。「ぼく」は情けないほどかすか な手がかりをもとに失踪者の足どりを追うが、どこに赴いてもどう巡っ ても《事件》の周囲をうろうろするばかりでまったく《核心》には近づ かない。この辺りちょっとカフカ的な匂いがするのかも知れないが、ぼ くはヌーヴォ・ロマンの匂いを嗅いだ。話の筋の取り扱い方になんとな く。

 また、調査を進めるにつれて主人公が事件に巻き込まれるのもハード ボイルドミステリの常套手段だが、安部公房の場合は《事件》と「ぼく」 が融け合っていく。結末近くで話は急転回を見せるのだが、これはどう したことなんだろう。よくも悪くも読者を裏切っていると思う。

 安部公房作品における「性」の取り上げられ方、また興味深い。今ま でこんな読み方はしなかったな。

(10/31)

11月

『箱男』 安部公房、新潮文庫、ISBN4-10-112116-8

 これも再読の筈なのだが、まったく新鮮な気持で読んだ。殆ど憶えて いないのだな(--;)

 今回読んで感じたのは、これは「ヌーヴォー・ロマン」だということ。 巻末の解説を平岡篤頼が書いているのは偶然ではあるまい。

 窃視との表面的な関連で言えば、ロブ=グリエのその名も『覗く人』 という作品がある(中身は、あまり窃視とは関係ないけど)。「覗く」 という行為とヌーヴォー・ロマンとの間に有機的な関連があるとは思わ ないが、もしかたしたら覗くことは世界との接し方・切り取り方、世界 の再構成の仕方という点でどこかしら反物語的なのかも知れない。ほん とかよ。

 より重要なのが、後から挿入される《手記》がそれまでの内容を打ち 消したり(整合性を保とうと)補足しようとしたりする構成で、これは ロブ=グリエの《手法》に似ている。とはいえ、本書の初版は一九七三 年で、ヌーヴォー・ロマンの「流行」は一九六〇年代だそうだから、ヌー ヴォー・ロマンの風味を採り入れたとするには遅すぎるように思う。や はり、「箱男」という題材、箱の中に籠もって世界を覗くという主題、 箱男の手記という手法が作者をしてそのような書き方をせしめたと解釈 するのが普通だろう。

 「性」はこの作品において積極的な役割を演じているように思う。

(11/01)

『あ・だ・る・と』 高橋源一郎、集英社文庫、ISBN4-??-??????-?

 ちょっと哀しかった。ここにいるのは、『さようなら、ギャングたち』 や『虹の彼方に』や『ジョン・レノン対火星人』の作者ではない。―― しかし、それは読者の一方的な感傷(あるいは干渉)というものだろう。

 「主題」の取り方は、しかし、紛れもなく高橋源一郎と言っていい。

 ある意味、作者なりに真正面から素直に《現実》を切り取ろうとした 結果なのかも知れないな。

(11/03)

『ゴヂラ』 高橋源一郎、新潮社、ISBN4-10-450801-2

 高橋源一郎の健在を確認。

 二〇世紀末の日本で、「ポストモダン文学(小説)」というのが流行っ たと言われる。小説という形式が、一方では成り立たなくなったという 認識があり、他方では書き手によって解体されていった、その時期の作 品の総称だ。

明言されたかどうか記憶にないが、その作家の中に高橋源 一郎も含まれていたとぼくは理解している。単一の物語という形式の崩 壊(または拒否)、持続する筋という枠組の崩壊(または拒否)、実在 する人物や事物、他の虚構の作中人物や事件の作中への氾濫、話しこと ば(に近いことば遣い)の極端な濫用、……高橋源一郎の作風は「ポス トモダン」と呼ばれてもおかしくはなかった。ぼくは、ポストモダンで あるかどうかとはまったく無関係に、好きだった。悔しくもあった。

 やがて「ポストモダン」は死に絶えたといわれる。けっきょくつまら ない、という評を聞いたことがある。小説の面白さはやはり本道にある という説を聞いたこともある。そして高橋源一郎の名も作品も聞かなく なった、競馬の予想以外では。もともと「書けない人」だろうと思って はいたが(ぼくも文芸書を綿密にウォッチしているわけではないので見 落としはあるだろうが)。ひさびさに見たなあ、と思ったら 『あ・だ・る・と』だったり。

 『ゴヂラ』の表面に窺えるいい加減さ、でたらめさ、軽やかさ、一瞬 仄見える切なさは、ぼくたちがかつて知っていた作者のものであり、作 者以外の誰のものでもない。ばらばらに見えた断片が最後にすごい勢い で収束していく、あるいは収束していくような見せかけに乗っていく、 このスピード感も。

 実は高橋源一郎を読むのは十年ぶりくらい、少なくとも五年以上ぶり くらいである。またこの世界に触れられてうれしい。悔しいけど。

(11/05)

『あ・じゃ・ぱ!』 矢作俊彦、角川書店、 ISBN4-04-873347-8

 フィクションを楽しもう。ここにこんないいものがあるから。

 初版(新潮社版)は1997年だそうで、知らずにいた自分は本読みを名 乗ることはできない。表題には触れるまでもあるまい。実際には最後の 「!」は「ん」とも読めるように「描かれて」いる。素晴らしき哉日本 のタイポグラフィ。この題名はコンピューターでは書きづらい。という より書けない(こういうのに出会うたび、コンピューターでの文字表示 (文字の符号化)は本質的に「不可能」なのではないかと思ってしま う)。つまり「あじゃぱー」と「じゃぱん」をかけているのだが、ウェ ブで本書を検索するとみな最後の字は「!」なので、それに従う。

 矢作俊彦渾身の超虚構。といっていいと思う。まさかこの人がこんな 作品を書くなんて思いもしなかった。しかし、実は隅から隅まで矢作俊 彦である。この人でなければこんな作品は書けないだろう。同じ着想構 想を得たとしても、他の人が書いたらまったく毛色の異なるものになる 筈だ。

 時は一九九〇年代始め。ところは日本。ただしそんじょそこらの一九 九〇年代ではないし、今きみの目の前にだらしなく寝そべっている日本 でもない。この虚構の中では、太平洋戦争に負けたのは同じでも、その 後に米ソに分断され、「東日本人民民主義共和国」と「西日本国」とし て別の道を歩んでいる。ひとことで言ってしまえば「並行世界(パラレ ルワールド)」であり、SFにはそう珍しくない着想だ。第二次世界大 戦に限っても「もしドイツが勝っていたら」という設定の話はあるよう だし、豊田有恒の短編かショートショートにも、「日本が東西に分断さ れる」という話が、確かあった。しかし、よくある並行世界と少し異な るのは、太平洋戦争後の東西分裂を境にして違う歴史が始まったのでは なく、どうやらそれ以前から異なる歴史を刻んでいたらしい。また、作 者が描いているのは「もしそうだったとして、そんな世界での出来事」 ではなく、そういう反現実の世界だからこそくっきり見える日本と日本 人、アメリカ、世界……の愚かしさだからだ。そうしたことから、これ をSFと捉えるのは少少無理があるように思う。

 その「一九九〇年代始めの日本」に、アメリカ人テレビレポーターで ある《私》が訪れ、事件のうねりに呑み込まれる。《私》は黒人である。

 ……と続けようと思ったが、読書録には収まりそうもないので書くな ら別に書評として書こう(書けないけど)。

(11/17)

『創造と破壊のダイナミックス』 後藤健生、双葉社、 ISBN4-575-29449-7

 後藤健生によるワールドカップ2002年韓日大会の総括最終編、であ ろう。(それにしても、正式名称は「韓日大会」の筈なのに、今やこ の呼称を使う記事など見かけもしない)

 『偶然と必然』では観戦記に 徹し、『2002年ワールドカップの 真実』では大会の周辺のスケッチ主体だったが、それらの間に漏れ 窺える日本代表の分析と感想、そして考察が、本書の主題である。同じ ひとりのジャーナリストが同じ対象について持論を展開するのだから、 いくら観点を変えても、複数の著作で同じようなことを言うのは仕方な い。(正直、食傷しないでもないけど)

 ぼくは後藤健生のファンであり、その見識と洞察に共感するものであ る。だいたい、これほど冷静に、事実を踏まえて日本代表の現状を論じ た意見にお目にかかったことがない(ほかには湯浅健二、大住良之など だろうか。つまり、ぼくが信頼する書き手というわけだ)。感情論か精 神論が多く目につき、げんなりする。日本代表のレベルについての分析 にもまったく同感。「いくつかの幸運に恵まれればヨーロッパの中堅国 と互角の闘いを演じ、時には勝つこともできる」程度のレベルだと思う。 10年前まで「暗黒時代」と言われたほどだった日本サッカーが、そうそ う簡単に世界のトップクラスになれる筈がないではないか。それから美 化された武士道じゃあるまいし「潔く真っ向から闘いを挑め」などとい うのも願い下げだ。それを気の済むまで繰り返せというのも止めて欲し い(「N回繰り返せば世界のトップクラスに肩を並べられる」というア ルゴリズムを示せるのなら別だが)。そうした姿勢が悪いとは言わない が、一方でサッカーは勝負でもあるのだから、劣勢の中でいかに勝つか を追求するリアリズムも必要だろう。

 そんなわけで、あの興奮からはや四ヶ月経つ現在、日本代表にとって のワールドカップ、ワールドカップの中の日本代表をしみじみ追体験し た一冊であった。

(11/21)

『さらば愛しき女よ』 レイモンド・チャンドラー、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-070452-X

 ひっっっっっさしぶりの再読。

 やはり名作である。都市の生活と現実の中で辛くも踏みとどまって生 きる人間のことばにならない想いがことばでなく描き出されている(そ して、この「都市」とは、やっぱり一九三〇年代のロスアンジェルスな のかなという気もする)。格調高さ、リリシズム、この作品に対するあ らゆる形容がそのとおり、ごもっとも。

 ただ、惜しむらくは、全編に渡って「甘い」のだな。全部で二十人ば かりの作中人物が現れるが、よい人間が多すぎる。別にハードボイルド とは非情の文学だなどと、これまた勘違いの思い込みをしているわけで はないけれど、ちょっとリリックに過ぎると思う。チャンドラーの他の 作品と比べても。これを真似して書くとべったべたのハードボイルド もどきができること請け合いという、教科書には向かない作品であろう。

 ちなみに、これを改めて読むと、『あ・じゃ・ ぱ!』は確かにこれを換骨奪胎していることが手にとるように判る (^^)

(11/25)

12月

『虫づくし』 別役実、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-050143-2

 ワールドワイドウェブの世界には「嘘サイト」というジャンルがある らしい。嘘をついてついてつきまくるという趣旨で、真実のかけらもな い、いやむしろ「反真実」で満たされている、そういうサイトである。 嘘といっても、《真実》を隠し人を欺き陥れ傷つき害を与える類のそれ ではない。一見まじめに事実を語っているように見えるが、ちょっと読 めば明らかに《反・事実》であることが判る、しかもそれは誰かを傷つ けようとするものではなく何も狙ってもいない、ただ楽しみのためにつ かれる嘘、そういうものを掲載している。世の中には思いの外《嘘》に 情熱を傾ける人が多く、またそれを楽しむ人も多いようだ。ぼくもとき どき楽しみに読んでいる。

 その「嘘サイト」のひとつで、作 者/管理人が勧めている本の中に別役実があったので読んでみた。実は 最初はこれらのお勧め本も《嘘》ではないかと疑っていたのだが、さす がにそれはなかったようで。

 さて『虫づくし』。虫の名前を起点にして、ないことないこと ばかりを書き連ねた、随筆とも虚構とも何とも謂いようのないテ キストである。同サイトの管理人氏は「虚の事実に虚の論理」と評して いるが、言い得て妙である。

 もう少し仔細に見ると、というかぼくのことばで言い換えると、虚の 公理と虚の推論規則からなる《虚の公理系》による“形式的体系”、と なろうか。この系では想像と論理の自走性が一切を支配している。それ ぞれに存分に走らせた結果がこの「虫について語っているようでいてちっ とも虫のことなど語っていない、それどころか何ものについても語って いない文章たち」というわけだ。この公理系がいかに強力かは、取り扱 う命題の中には互いに矛盾するものがあることから明らかである。しか し作者はそんなことに臆する気配もない。無矛盾性ということを並の形 式体系は命よりも尊ぶものだが、そんなものよりも想像と論理の自走性 の方が遥かに大切だからだ。

 面白かったのは、「かたつむりについての考察」、「蚊についての考 察」、「ガについての考察」など。

 ただ、こういう虚の世界は大好きなんだが、それも長く続くとぼくに はもたれる。なぜかというと、いくら自走性があるとはいえ想像も論理 も《虚の公理系》の中で堂堂巡りをせざるを得ないからで、どれほど羽 目を外した命題や推論を持ち込んでも、いや逆に持ち込むからこそ、走 り続けるに連れてこの系の中でいき詰まる(行き詰まる/息詰まる)感 じがしてくるからなんじゃないだろうか。

(12/01)

『もののけづくし』 別役実、ハヤカワ文庫、 ISBN4-15-050229-3

 『虫づくし』でお腹いっぱいと いう気もしたが、ついでに読んでみた。

(12/03)

『昭和の東京、平成の東京』 小林信彦、筑摩書房、 ISBN4-480-81440-X

 著者が1964年(東京オリンピックの年)から現在までに雑誌や新聞に 発表した、東京について綴った随筆をまとめたもの。

 そういうものであって、一定の視点に立って書き進めた文章ではない。 本のオビには(『私説東京繁盛記』『私説東京放浪記』に並ぶ)《東京 三部作》と謳ってあるが、ちょっと違うだろうと思うのだけれど、著者 自身があとがきでそう言っているし、この人の「故国・東京(下町)」 への想いは一貫しているから、まぁ三部作でもいいのかも知れない。一 読者のくせに偉そうだが。

 東京の下町(両国)に商家の長男として生まれることがどういうこと なのか、ぼくなどには判らない。その《故郷》が空襲によって焼き払わ れその後のひどい復興計画のために失われることがどんな想いを与える のかも判らない。幸か不幸かぼくには《故郷》があり、それはいちおう なくならずにそこにあり、年を経るにつれ、好きになっている。いや、 ひとことで言うにはやはり複雑でいささか屈折していなくもない感情だ と思うが、「ここで暮らしていくのも悪くないかな」と思うようにはなっ ている。幸か不幸か。そして残念なことに、ちっぽけな《故郷》であっ ても時の流れってやつは変化を許してくれないのだ。昔遊んだ原っぱや 田んぼがマッチ箱みたいな家がひしめき合う(ひしめいているのだ!) 住宅地に変わってゆくのを見ると、何とも言えない気持になる。そうし た気持からの類推で、著者の心情を推し量ってみたりしている。

(12/07)

『痛快 ローマ学』 塩野七生、集英社インターナショナル、 ISBN4-7976-7067-3

 『ローマ人の物語』という、古代ローマの歴史物語を書いている著者 による、同書のダイジェストにして、現代日本人への応援歌。応援歌と 書いてしまうとキモチ悪いが、失速と混迷から立ち直るための示唆の書 でもあるし、日本の国、日本の人への《檄》でもあると思う。多忙を理 由に『ローマ人の物語』(なにしろ全十五巻。12月に十一巻目が出る。 しかも一巻が分厚い)を読まない人向きでもあり、面白さに没頭して古 代ローマからの教訓を引き出し損なった人向きでもある。

 ので、これまで言わなかった新しいことを言っているわけではない。 が、著者自身がこれまで書いてきたことを見直し、整理して語っている ので、読み手にとっては新しい発見もある。第九章は著者による「現代 (日本)政治論」。これにぼくは深く同感するのだ。特にリーダー論のと ころ。それから、特別付録は「新作」ですね(笑)。これは面白い。『ロー マ人の物語』を読んでいる人も、この付録だけでも買う値打ちはある。

 ぼくはなぜか『ローマ人の物語』を第一巻(一九九二年)から読んで いるが、折りに触れて何度も読み直している。最近も今度出る第十一巻 に備えて六〜十巻辺りを読み返した。塩野七生によって語られるローマ 人の物語自体がめちゃくちゃ面白いからであるのはもちろんだが、国家 という組織をどんな考えでどのように創っていったのか、何度も見舞わ れた危機に、その時の国家ローマは、あるいは主役となる人はどう対処 し、克服したのか考えたくなる時があるからだ。それは自分自身が何か しらの《危機》を迎えていたりどうにか切り抜けた後だったり凹んでい たり、これからどうしようか考えていたりする時だ。こういう読み方を、 ぼくは誰からも示唆されなかったと思う。

 ぼくのような読み方をする人はけっこう多いようだ。それでなくとも 塩野七生の語る古代ローマは面白い。というようなことから関心を持つ 人が多くなったのだろう、確か二〇〇〇年には『ローマ人への20の質問』 というのが文春新書から上梓された。本書はその流れの上での「決定版 ないし保存版・古代ローマダイジェスト」とでもいうべき本と言える。 著者も「現代日本の今とこれからを考える上で、古代ローマの歴史は大 いに参考にする値打ちがある」と述べ、その視点から古代ローマをやさ しく解説している。ただし、この『痛快 ローマ学』を読ん で「うむ。古代ローマ史、了解」と思うとしたら、それは間違い。本書 はあくまでもローマ史のダイジェストに過ぎない。それも超かんたんダ イジェストである。歴史を楽しみたいと思い、ローマから本気で何事か 学びたいなら、やはり『ローマ人の物語』を最初から読まなければなら ない。

 ところで先ほど「なぜか第一巻から読んでいる」と書いたけれど、そ れまで、世界史であれ日本史であれ歴史には大した興味が湧かなかった。 なぜこのシリーズを手にとったのか自分でも思い出せない。しかし今は 著者の主張に双手をあげて賛成する、「歴史って、人間です。人類がこ れまで経験したすべてのことが入っている。そんな歴史が面白くないは ずはない」(本書より)。

 ぼくも少しは大人になったということか。

(12/09)

『日本サッカー史 代表篇』 後藤健生、双葉社、 ISBN4-575-29489-6

 正月用の本として、天皇杯決勝を観た後にでも読もうと思っていたが、 つい読んでしまった。

 あとがきで著者いわく、「一冊で過不足なく日本のサッカーの歴史を まとめた本があれば便利だとずっと思っていた。……先輩ジャーナリス トの皆さんがいつかそういう本を書いてくれるのだろうと、ずっと待っ ていたのである。だが、そういう本は出版されなかった」。

 ということで後藤健生が自ら筆を執ったのがこの本。ぼくは日本サッ カーの歴史なんて詳しくないし、日本サッカージャーナリズムの世界も まったく知らないのだが、後藤健生はいかにも「適任」という感じがす る。これまでにも『日本サッカーの未来世紀』といった日本代表の近過 去を振り返った本を著しているし、 『世界サッカー紀行2002』では各国のサッカー史にも触れている。 そういう人が取材に勤しんで作った本である。まず、面白い。次に、勉 強になる。第三に、ぼくたちは自分の国のサッカーをもっと誇りに思っ ていいのだと思える。

 日本代表だって七十年以上の歴史がある。常にアジアの壁を破るべく、 世界の強豪に伍して戦うべく研究と努力を重ねてきたことが判る。なぜ メキシコオリンピック(銅メダル)の後「暗黒の時代」に入ってしまっ たのかも判る――実はメキシコ大会のための強化がその後の停滞を招い てしまったらしい。こうしたこと(興隆の陰に没落の芽がある)はサッ カーに限らず歴史上何度も現れる現象のように思える。今日本サッカー が躍進しているように見えるのは、過去十年ないし二十年の地道な強化 の賜物であることも判る。

 すべてのサッカー好き、読むべし。サッカー好きでない 蓮実重彦や渡部直巳も

(12/14)

『ビギン・ザ・ビギン』全四巻 坂田靖子、潮出版社、 ISBN4-267-01647-X, 01648-8, 01649-6, 01650-X

 坂田靖子の名は以前から気になっていたが、読むのはこれが初めて。

 なんとも不思議な作品なり。かわいく言えばメルヘン調、見方を変え れば不条理系。不条理といってもひと頃流行ったような(今でもあるの か?)受けを当て込んだわけの判らなさ・腑に落ちなさ・居心地の悪さ ではなくて、《ぽえんとした感覚》。おそらくは作者の発想 そのものがぽえんとしているのだろう。南の島に海の神様が いるのはいいとして、なぜか、脈絡も伏線もなく ミイラが流 れ着いて居すわったりする。なぜか喋るネズミが避寒に訪れ る(しかも王子で、自家用の飛行機を持っているらしい)。そういう世 界である。

(12/20)

『膨張する事件』 とり・みき、筑摩書房、ISBN4-480-88804-7

 1996年から2001年まで各誌に発表した短編・四コマを収録。

 とり・みきの作品はいつも「何か」があるからつい買ってしまう。

(12/22)

『水の森綺譚』全五巻 坂田靖子、潮出版社、 ISBN4-267-01627-5, 01628-3, 01629-1, 01630-5, 01631-3

 発表時期は『ビギン・ザ・ビギン』よりも前になる。傾向はやはり 「メルヘン調/不条理系」。

 面白いといえば面白い。でも引っかかっちゃうと素直に読めないな。 もうこの手の作品は受けつけない体質になっちゃったのだろうか?

(12/22)

『親父熱愛(オヤジ・パッション) PART I』  伊東四朗・吉田照美、講談社文庫、ISBN4-06-273591-1

 電車の中吊り広告に惹かれて買ってしまった。伊東四朗と吉田照美だ からつまらないことはないのだけれども。

 二人が出演している文化放送のラジオ番組の録音から起こした本。戦 前・1930年代生まれ(伊東)と戦後・1950年代生まれ(吉田)の他愛の ないお喋り。他愛はないのだが、味がある。

(12/22)

『蹴球日記』 岡田武史、講談社、ISBN4-06-308651-8

 1998年フランス大会日本代表監督・岡田武史による、2002年ワールド カップ韓日大会の観戦記。ただの観戦記と違うのは、折りに触れて4年 前のことを振り返っているところ。うろ覚えだが、この人はフランス大 会の前も後も、当時のことを回顧したりマスコミに向かって話したりし たことがなかったのではないか。だとしたら、四年経って、次の大会が 終わって、ようやく口を開く気になったということか。

 後藤健生や湯浅健二の視点ともまた異なり、批評家ではない現役の監 督、サッカーの《現場》にいることを志す人間ならではの洞察や感想が 興味深い。ただ、「プロ監督としての意見」は抑えめにしてあるように も思う(そんなのを正直に書いたら論争になってしまうだろうからだ)。

 蓮実重彦や渡部直巳にも 読ませたいね。いやまったく。

(12/28)

『ローマ人の物語XI 終わりの始まり』  塩野七生、新潮社、ISBN4-10-309620-9

 待望の十一巻。最初の頃は晩夏から初秋に上梓されていたが、この頃 はすっかりクリスマスシーズンに落ち着いたようだ。これを読んでゆく 年を振り返り来る年を想う、というわけでもないが、冬休みに欠かせな い一冊になっている。

 この巻からいよいよあのローマ帝国も下り坂に入ってゆく。その露払 いを務めてしまうのが五賢帝のとりでもあるマルクス・アウレリウスで ある。高校の世界史で名前だけは知っている。賢帝の誉れ高いことも知っ ている。でも高校で習ったのは「そういうことになっている」というこ とだけで、なぜそうなのか、本当にそうなのかなん て考えたこともなかった。通説を鵜呑みにしていたわけだ。

 マルクス・アウレリウスを賢帝とするのはヨーロッパのローマ史学者 の定説でもあるらしい。ローマが衰退を始めるのはその次の皇帝であり マルクスの息子であるコモドゥスの時代からということになっているら しい(しかし、日本に生まれ育った身には「へぇ、そー なの」という程度のことでもある)。作者はまずこの通説に疑 いの目を向ける。今までうまく行っていたことが突如駄目になることは あまりない。衰退の兆しはもっと前からあったのではないか――。そし て賢帝とされる前任者のしたこと・しなかったことを仔細に見れば、確 かに衰亡への種は蒔かれているように見える。この辺りを描き出す作者 の手つきは鮮やかであり、面目躍如といった感がある。新潮社の広告で 言っていることは伊達ではない:

賢帝時代の掉尾を飾り哲人皇帝としても名高 いマルクス・アウレリウ ス。後世の評価も高い彼の 時代に、既に衰亡への萌芽は見えていた―― 従来の史観を覆す新たな「ローマ帝国衰亡史」 が今始まる。
新潮社ウェブサイト・2002年12月新刊案内から)

 読んでいて、切なかった。ローマとローマ人にぼくも感情移入してい るからだろう。こんなにすごい連中でさえ、引き潮から逃れることはで きないのかという想い。考えさせられるといえばこれほど考えさせられ ることもない。時代の変化とそれを見抜く眼力の欠如。長すぎる平和 (の享受)は人人の気を緩めてしまうという逆説。そして何より、統治者 (上に立つ者)の無知と無理解と無気力と無節操は《システム(組織、 仕組み)》全体を腐らせてしまう現実。

 これまでのどの巻にもまして、示唆に富んだことば、文があちこちに 出てくる。やはり、隆盛の頃よりは衰亡に向かう時期の方が後から読む 者にとっては教訓を感じ取りやすいのだろうか。読み手にとって、また おそらくは書き手にとっても。ぼくはわりと平気で本に傍線を引いたり 書込みをするが(以前は厭だったが、さいきん平気になった)、この物 語は別格で、おとなしく読み感じ入るところはその都度感じ入ることに している。重要な箇所を再読したいのなら巻ごとまるまる読み返す。そ れがこうした良書への礼儀と思っている。しかし、この巻では我慢でき ずに傍線を引いてしまった。それほど、イタイことばがたくさん綴られ ている。

(12/30)

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