ゆりかごを出て荒波へ(^^)



9ヶ月で

 日本エスペラント学会という日本のエスペラント界を代表する組織が 実施する、「エスペラント学力検定試験」なるものがある。これに受か ればそれぞれの級なりの「学力」があると日本エスペラント学会が認定 してくれるというもので、上の方から順に1級から4級まである。

 この試験を受けてみた。

 最初は一番下の4級(入門終了程度、とされている)だけにするつも りだったけれど、欲が出て、3級も同時に受けてみることにした。2級は 「講師を務める資格を認める」とされているが、3級の位置づけはよく 判らない。

 で、受かった。結果は試験当日に出ていたという噂もあるが、一ヶ月 経って合格証が届いた。

 ちなみに試験は筆記と口頭(対話)とがある。筆記は4, 3級とも、単 語の意味、語形変化、エス文和訳など(難易度が異なる)。口頭は4級 と3級を同時に受けるせいで「3級の方をやる」と言われ、少少びびった けれど、案ずることはなかった。案じたってしょうがないので、試験官 のおことばにひたすら耳を傾け、それに答えるだけである。

 まだ勉強を始めて一年も経っていないが、3級に受かっちゃったのだ から、もはや「初学者で〜す」なんて甘えたことは言っていられないだ ろう。なにしろこの上は講習会の講師もできる2級である。いや、甘え ていてもいいのかも知れないけど、いつまでもそんなことを言うべきで はないだろう。がんがん使って、その上で使えると結論するなりやっぱ りだめだと思って離れるなりしていかなければならないだろう。

 ということで、この随筆をもって「初学者」の看板を下ろすことにす る。

大した理由はないんだけど

 こんな試験が単なる目安以外に何かの意味を持っているとは思わない。 と言うとこの試験を受験されている他の方方に失礼だけれど、ぼく個人 の感想としてはそうだ。

 ひとりで勉強をしてきたので、誰かに教わるということもなかったし、 特に会話については聞き取り以外は勉強も練習もしてこなかった。そん な調子で続けてきた成果が傍からみてどの程度のものなのか知りたかっ ただけだ。

 もうひとつ理由があるとすれば、ぼくはザメンホフの思想、エスペラ ント語に託された思想や理想にはあまり興味がない。まるっきりないわ けではない。不公平よりは公平の方が、不平等よりは平等の方がましだ と思うし、一民族語が成行きとはいえ「国際共通語」の座を占めるより は人為的にデザインされた言語の方がよいと思う。ただ、それを起点に してその考え方をすべてに適用しようという気にはならない。

 たとえば、エスペラント運動家は「言語差別に反対する」という。そ れ自体は否定しない。が、これを敷衍して、ひとつの差別に反対するな らばすべての差別に反対するのでなければならない、とする考え方があ る。なるほど、男女差別には反対する(鋭敏である)が人種差別は容認 する(気づかずにいる)、というような態度は、なにか一貫性を損なっ ているように思わないでもない。だが、「現実としてすべての 差別に対して鋭敏になれるか」というと、また違うと思うのだ。

 差別はその時時の社会の常識や通念に支えられている。それを差別と 見抜く見識も当然そうである。人は誰も自分の属する現実の中でしか生 きられない。男女差別には敏感だが人種差別には鈍感な〈現実〉は確実 にある(少なくともあった)。その逆の〈現実〉もある。とある差別を 受けている側にある人が、別の差別をする側に立っていることだってざ らにある。ぼくは自分が狭い〈現実〉の中で生きていることを知ってい る。どんな常識や通念に縛られているか判ったものではない。それに気 づいた時、人格崩壊を起こすほどのショックを受けてしまうかも知れな い。それなのに「すべての差別に反対する」なんて、無邪気には言い放 てない。

 まあそんなわけで、あまり思想の問題には立ち入りたくないし、立ち 入れるほど確固とした思想的基盤も持っていない。しかし、そんな人間 でもこのくらい関心を持ってこのくらいの「学力」を身につけることは できるのだということはどこかで示しておきたかった。それも勉強開始 後一年以内だから、まぁよい方だろう。

(エスペラントを話す人の中には「世界中の誰もが同じ立場で使えるこ とば」という面を重視している人たちもいるようなので、少しほっとし ている)

ことばってさ

 生ものです。放っておいたら腐ってしまいます。

 道具です。使わずにいたら錆びついてしまいます。

 技術です。使いもしないのに使いこなせる筈がありません。

 だから、使わなければ意義がないし、下手だろうと間違いだらけだろ うとためらわずに(いや、ためらいながらでもいいんですが)使ってい かないと使えるようにならない。

 好奇心をきっかけに始めて、一日30分程度の勉強を半年も続ければ、 たぶんエスペラント検定4級に受かる程度になります。もうちょっと続 ければ、3級にも合格するでしょう。実体験者が言うのだから、まず間 違いありません。もちろん「語学のセンス」というものには個人差があ ります。一日30分といっても問題は時間(量)でなく中身です。が、ひと つの目安にはなるでしょう。

 その程度の勉強で、そこそこ込み入った文章も読めるようになるし、 簡単な文章なら書けるようになるし、やさしい会話なら聞き取りも発話 もできるようになる。エスペラントとは、その程度にやさしいことばで す。

一年でものになるの?

 とはいえ、「一年足らずでほんとうに使えるようになるのかよ〜」と いう疑問を持つ人は少なくないはず。検定試験はただの検定試験に過ぎ ないのだ。

 はい。わたしのエスペラントが人に通じているのかどうか、実は自分 でもかなりギモンなんです(爆)

 それを試すために「エスペラント全国合宿」なるものに出かけて、エ スペラント会話のクラスに入った。驚くべし、人のことばを聞いて理解 できるし、自分の発することばを人が聞いて判ってくれる風なのだな。

 エスペラント関連のメイリングリスト(運営主体は日本人)にも参加し てみた。エスペラントで発言している人もいたので、ぼくも使ってみた。 驚くべし、自分の書く拙い――文法的にも間違いだらけ、ことばの選択 でもおかしい点だらけの――文章を、読んで理解してくれる人がいるよ うなのだ。

 従って、どうやら、通じているらしいということは言える。 本当に通じているかどうか判らない(ある意味確かめようがない)のは、 自然言語の宿命である。

自分の日本語がほんとうに人に通じているのか不安に思ったこと、あり ませんか? 自分が言いたいことがちゃんと判ってもらえているのか、 自分の気持が伝わっているのか、安心できなくなったこと、ありません か?

 インターネットで知り合った人の中には、ぼくより少し前に始めて、 つまりやはり一年程度で、エスペラントをがしがし使っている人がいる。 エスペラントしか使われないメイリングリストに参加して発言したりも しているそうだ。この人の実際的な姿勢は見習わなくちゃと思っている。

 自分を含めたたったふたつの例では例証として危ういかも知れないけ れど、「一年で使えるようになる」と断言しよう。(もちろん、使う気 になって勉強するのが前提)

 発音なんか、気にしたって仕方がない。ぼくもそうだが、大多数の日 本人は日本語で使われる音しか聞かずに育つ。中学校から英語を習うが、 日常生活の99パーセントは日本語の音しか聞こえてくるまい。そんな生 活をしていて、聞いたことのない音を聞き取れたり、発したこともない 音をいきなりきれいに発音できたりする筈がない。時間がかかって当然 なので、それを恐れたり恥じたりする必要はない。

 文法やことばの選択における誤りも、気にしたって仕方がない。ぼく から見てかなり巧みな人ですら「エスペラントは難しい、やはり『ヨー ロッパのことば』であって日本人には難しい」とおっしゃる。かなり熟 達していると見える人でさえ綴りを間違えたりしている。

 まさに「外国語に苦しむ日本人」の姿そのものだけれど、ほかの「外 国語」と決定的に違うのは、「おかしな発音」や「語法や綴り間違い、 文法間違い」を嗤う"native speaker"が存在しない点である。みんな、 立場は同じなのだ。(最近では生まれた時からエスペラントを学習して いる人もいるようだけれど、そういう人はまず間違いなくマルチリンガ ルと推測できる。"native"ではない。それに、「流暢でない」といって 嗤うのだとしたら、それこそエスペラントの精神に反するだろう)。だ から、嗤われることを恐れたり、先回りして恥じ入る必要はまったくな い。

 「完璧に使いこなす」なんてどうせ無理だと思って、気楽に使えば、 きっと使えます。そもそも、ある言語を間違いなしに完璧に使うことな ど、できると思いますか? 言語活動というのは数限りない夥しい「間 違い」によって成り立ってるんですよ(^^)

超巨大付録・初学者時代の断片たち

 「初学者」卒業記念に、勉強を始めてから半年位までの間に書き留め ておいた文章(断片)のいくつかをここに掲げておく。随筆の一部分と して書いたものだが、全体があまりに長くなったので割愛したものたち である。

 学び始めの頃には、学力からするとやや高度な本を読み漁った (ここで列挙している)。 それらを読んでいて疑問に思ったことを書き留めたものだ。この断片た ちに書きつけた時の思いが消え失せたわけではない。でもまぁ、「若気 の至り」もなくはない。

日本語とエスペラントの溝

 『エスペラント初級・中級の作文』(阪直、日本エスペラント学会) では、たとえば定冠詞laについてお定まりの注意事項が述べられている。

 「Sxi estas la edzino de sinjoro A.」(彼女はAさんの奥さんで す)という文で、laを抜かすと、「A氏は妻を何人かめとっていること になる」とのことだけれど、そんなに厳格なものだろうか。そこのとこ ろが「冠詞のない国ニッポン」から来た人間にとってはどうもはっきり 判らない。(別に著者がいけないわけではない)

 本当に何人か奥さんがいるのを知っていて、その一人について言うな ら「unu el la edzinoj de ..」(複数の奥さんの一人)などと言いそ うなものだ。「Sxi estas edzino de sinjoro A.」は、最悪、「Aさん に奥さんが何人いるのか自分は正確には知らないけれど、ともかく彼は 彼女と結婚しているんだ」という程度の意味にはなるのではないか。重 婚が罪になる文化であっても、Aさんが重婚を犯していないと確信する 理由がない限り(それがフツウだと思うが)、むしろlaをつけない方が 正確な用法とさえ言えるのではないだろうか。

 「誰それの母親」という時も定冠詞が必要というけれど、権威あると 言われている辞書にはpatrinoは「子どもを生んだ女性」とある。ある 特定の子を生んだ人は普通ひとりであって、ある人は頭、ある人は体と いうように分担して生むことは現在のところできない。「誰それの母」 という時、生まれたその子どもにとってのただひとりの母親であること は自明だと思う。「だからこそlaをつけるのだ」ということなのだろう けれど、「だからこそつけなくたって判りそうなもんじゃん」と思って しまう。

 冠詞があることのよさも判るつもりだけど、冠詞がないことのよさも 認めては貰えないものか。冠詞のない言語は日本語だけではないそうだ。 そういう言語圏の人人に使ってもらうことを考えれば、「冠詞は、つけ ることが可能な文脈であり、つけたいと思う(それによって意味がより 鮮明になる)ならつけてよい」程度であってくれるとうれしい。もちろ ん、間違った用法を続けて開き直る気は全くないが(それでは「冠詞の ある言語」との橋渡しができないよね)、ちょっとくらい冠詞がなくて もがみがみ言わない寛容さを望みたいのだけど……

 kelka(「いくつかの」といった意味) と日本語の「いくつか」の違 いも気になったところだった。エスペラント語のkelkaはかなり曖昧で、 数でいうと「2から9の間」を指すという。それで例文「この本を4, 5日 貸してください」ではわざわざ「kvar aux kvin tagoj」と言っている。 でも日本人の日本語だって、「4, 5日貸して」は必ずしも「五日後には 絶対に返す」ということではなく、「まぁ大体その見当の」という意味 あいだろう。

 kelka にしても、当てずっぽうでkelkaと言ってはみたものの数えた ら10だったとき「お前kelkaって言ったじゃんかよ。嘘つき」と言われ てしまうとは思えず、要するに「正確な数を指す気はないが、1じゃな いし両手で足りないほど多くもない」程度のニュアンスなのではないか。 kelkaj librojを「4, 5冊の本」と訳すのは誤りなのかも知れないが、 「4, 5冊の本」はkelkaj librojでよいと思うのだが。

 名詞だって難しい。コラムに「aerolito(いん石)が『空から飛んで くる石』を指していることは(略)一見してすぐ分かります」とある。 aeroは「空気」で、litoが「石」なのだが、これが隕石だなんてすぐ判 るものか。初学者を甘く見ちゃいけない。敏感な上勘ぐりやすくなって いるから、あっという間に「空気+石? 空気でできた石か? そうい うものもあるのかも知れないな。いや、空気のように軽い石なのかも。 もしかして、軽石のこと?」くらいは平気で迷う。

通じない表現

 『エスペラント 翻訳のコツ』(山川修一、日本エスペラント学会) には考えさせられた。相異なるふたつの言語間でどのようにニュアンス を移植するのか、ある言語独特の言い回しを別の言語にどのように載せ るのか、というのは、異文化と向き合う時には避けられない問題であり、 「文化の違い」を無視したり軽視していてはできない。この本では、 「日本語のこういう言い回しは逐語訳しても意味が通らない、または誤 解を招く」ということを随所で強調している。頷けるところもある。し かし、首をひねるところもある。

 気のおけない友人を指して「悪友」というのは、日本語(日本人)独 特の表現であり、メンタリティかも知れない。それをそのまま 「malbona amiko 」と訳したのでは、相手に「それならつき合うんじゃ ねーよ」と言われてしまうのかも知れない。しかしだからといって、た だ「bona amiko」と訳すのでは、安全かも知れないが「悪友」の持つビ ミョウなニュアンスが伝わらないのではないかと心配になる。じっさい 「悪友」には、通りいっぺんのキヨラカなつきあいだけじゃなくてワル イことも一緒にやった(やれる)仲、というイメージもある。

 「直訳」「逐語訳」は、多くの場合、愚だろう。民族語間の翻訳(日 本語を英語に訳すような場合)では殆どご法渡だろう。でも、エスペラ ント語に訳す場合は、相手はエスペラント語なのだ。民族の文化と言語 を尊重してもらうためにも、敢えて逐語訳に挑戦してみたいと思うのは、 ぼくだけだろうか(イヤ、翻訳をしたいわけではないです)。「私の目 の黒いうちはそんなことさせないからね」といった文を、そのままエス ペラントに訳して、最初は理解されないかも知れないけれど、いろいろ な国の人に受け入れてもらえるなら、それは素晴らしいことなのではな いだろうか。

 『エスペラント類義語集』(阪直、日本エスペラント学会、 ISBN4-88887-016-0)の中に、「brustosxveli(筆者注・逐語訳は「胸 を膨らませる」)は日本語とは違い、ふんぞり返るといった悪い意味」 という文章があった。恐らくそれはヨーロッパ的な意味なのだろう。し かし日本語では「期待に胸を膨らませる」は今でも言い回しとして生き ている。ぼくはそれがそのまま言えたらうれしい。

 問題は(問題があるとすれば)、「ではエスペラント語が体現してい る、あるいは含意している文化は何か」ということだろう。比喩的な表 現というのは本来それぞれの民族語(が含意する文化)に固有の文脈を 持っていると考えられるが、それがなぜかエスペラント語に持ち込まれ てしまっているように見える(これは「建物の階の数え方」などにも通 じる問題かも知れない)。それがいけない、とは言わないけれど、それ ならば、「日本式の言い回し」とか「日本語の感覚」を持ち込んだって いいのではないだろうか? この言語が成立した時の文化的背景のみ是 として、それを基準に「日本語風のこういう言い回しでは、理解しても らえない」と言われるのは、何かさびしい。

 ふたたび『翻訳のコツ』だが、「身ぶり言語」についても、照れ隠し に頭に手をやるのは「少なくともアメリカ人は深刻な姿を想定」する、 頭を掻くのは英語では「心理的な不安を表現し(以下略)」と書かれて いる。身体言語は国や民族によって大いに異なり得るから、アメリカ人 と対している時に頭に手をやらないに越したことはない。しかし、それ が文芸作品中の描写だとしたらどうだろう。探偵小説の一描写で、それ が重要なトリックになっているのだとしたら? 「アメリカ人は誤解す る」といって迂闊に訳し変えることはできないのではないか。

 日本人が「頭をかく」のは、「まいったなあ」といった心情の表現で あり、そういう時は実際に頭をかく(男性が圧倒的に多いかも 知れないにせよ)。いくらアメリカ人にとっては「不安感、自信のなさ」 を表すからといって、それをまるで違う動作のように叙述するのは変だ と思うし、場合によっては文章全体が成立しなくなる恐れだってある。 大切なのは、「相手の文化に合わせて叙述を変える」ことではなくて、 「日本人ってこうなんだよ」と相手に知ってもらうことではないのだろ うか。「文化的背景の相互理解」があれば、「日本人は頭を掻いた」と 書いても不都合にならない筈ではないか?

 たとえば、もしかしたらもう既にあるのかも知れないが、『日本人の 身体表現』といった本を作って全世界に配布する。『世界身体言語図鑑』 なんてのもいい。その記述言語は当然エスペラント語にする。しぐさの 図解または写真が主で文章はその説明で、量も難しさも大したものでは ないだろうから、初学者向けの読みものとしても活用できる。そういう もので「文化的背景」を理解してもらえれば、しぐさの逐語訳だって通 用するようになるんじゃないか思うのだが、これは甘い考えだろうか。

「合理的」って、どうゆうこと?

 「エスペラント語は文法が合理的に作られている」という表現もしば しば見かけるが、こう言い切ってしまうのはどうかと思う。

 「合理的」という語も極めて間口が広い、多義的な語だから、観点や 物差しを提示しなければ使えないんじゃないかと思っている。無限定で 使うということは、「どんな論理に照らしても、どんな観点から見ても、 理にかなっている」ということを意味するとぼくには思えてしまう。そ んなに大げさなことじゃなくて、「すっと腹に落ちる」とか、「すんな り呑み込める」とか、あるいは「無駄がない」とかいうニュアンスで使っ ているのかも知れないけれど、いずれの意味あいでもエスペラントが 「合理的」と言う気にはぼくはならない。

 ちなみに、言語の文法における〈合理性〉というのは、ぼくは次の条 件を満たすことだと考えている。

  1. 規則の数が少ない。
  2. ひとつひとつの規則が単純であり、例外事項がない。
  3. 規則間に矛盾がない。

 個個の規則が〈合理的〉であるかどうかを論じても実りがない。言語 というものが恣意的であるなら、言語の規則もまた恣意的な筈だから。 たとえば「動詞不定法やkeで導かれる名詞節を修飾するのには(英語の ように形容詞ではなく)副詞を用いる」という規則自体をどうこう言っ ても詮ないことだ(言いたいのだが)。問題になるのは「規則の並べ方、 組合せ方」だろう。

 で、この観点からみて、エスペラントの文法は〈合理的〉かというと、 そうでもないんじゃないかと思うのだ。もちろん、他の自然言語と比べ れば(遥かに)合理的なのかも知れない。しかし、比較級はしょせん比 較級だ。「相対的に合理的」であるということは、もっと合理的なもの が出現したら途端にランキング第1位の座を追い落とされるということ だ。その程度の合理性なら、そんなに力まない方がいいのではないだろ うか。

エスペラント文法への疑問・動詞不定形の叙述語

 エスペラントには動詞不定形というのがあり、これは名詞と同じよう に使うことができる。たとえば目的語にもなるし、補語(叙述語)を携 えることもできる。日本語になぞらえると「〜(する)こと」という言い 方と同じ感じ。

 補語を携えるというのは、たとえばこんな文がそうだ。

Lerni Esperanton estas facile. -- エスペラントを学ぶのは 易しい。

 ここで、facileはestasを挟んで動詞不定形lerniの叙述語(補語)となっ ている。叙述語というのは英語などでは形容詞の役目なのだが――

To Learn English is easy. -- 英語を学ぶのは易しい。

エスペラントでは、keが導く名詞節や動詞不定形については副詞を用い る。ものの本には「動詞不定形であっても動詞の本質は失われないから、 修飾するには副詞を用いる」などと説明されている。名詞節の方は理由 は判らない。

 なるほど、動詞を修飾するのは副詞だ。行為のなされようを限定的に 修飾する場合にはたしかに副詞が使われる――

Ili laboras deligente. -- 彼らはまじめに働いています。
Parolu pli malrapide. -- もっとゆっくり話してよ。

しかし、叙述語は行為のなされようを限定的に修飾するのではなく、そ の行為自体がどうであるかを述べるものだ(「ゆっくり話すことは難し い」など)。だいたい、動詞不定形は文の中では主語、叙述語、直接目 的語として使われる。ということは「名詞」そのものとして扱ったって いいのではないか?

 でも、こんな規則のそれぞれに文句を言っても始まらない。「動詞の 本質は失われない」も筋が通っているから、エスペラントではそういう 考え方でそういう取り決めなんだと解釈して呑み込もうとした。それで 一貫しているならかまわないわけだ。

 ところが一貫していないんですね。次のような文型がある。

Li trovas la libron utila. -- 彼はその本を役に立つと思っている。

 形容詞utilaは目的語libronを限定的に修飾しているのではなく、英 語風に言うと「動詞 + 目的語 + 目的補語」という関係になっている。 等価な形に置き換えれば、Li pensas ke la libro estas utila. とな る。この文型のlibronの位置に動詞不定形を置くことができるのだが、 規則からして補語は副詞utileになるべきなのに、そうはならない。

Li trovas lerni Esperanton utila. -- 彼はエスペラントを学ぶことは役に立つと思っている。 (形容詞!)

 なぜか? 「混乱を避けるため、この場合に限り形容詞を用いる」と いうのだ。つまり、上の文で副詞utileを使うと、それがtrovasに係る かlerniに係るか判らない。エスペラントでは「動詞 + 目的補語 + 目 的語」という語順も可能なので、そうすると問題がはっきりする。

  1. Li trovas utile lerni Esperanton.
  2. Li trovas utile lerni Esperanton.

(しかも、2番目のulileは、lerniの叙述語となっているのか、lerniを 限定的に修飾しているのか判らないぞ!)

 形容詞を使えば、形容詞が動詞を限定的に修飾することはないから、 trovasにかかる可能性は構文解析の段階で除去される、という塩梅であ る。しかし、これはなんと妙な〈例外〉だろうか。最初から「動詞不定 形であれ名詞節であれ、叙述語には形容詞を用いる」とすれば、こんな 例外はなくて済んだのに。もちろん、形容詞を用いることで別の矛盾が 生じるなら話は別だけれど、ちょっと考えた限り、そんな不具合はない と思う。それどころか、「叙述語には形容詞」で統一がとれてすっきり すると思うのだが。

エスペラント文法への疑問・対格の用法

 次のような規則がある。

  1. 他動詞の直接目的語(あるいは直接補語)は対格で示す。
  2. その他の格(間接目的語など)は「前置詞+名格」で示す。
  3. 誤解を招かないのであれば、「前置詞+名格」の形の代わりに対格 を置くことができる。

 (3 の「誤解を招かないのであれば」というのはぼくがつけ加えた)

 さて、上の規則を適用すると、次のいずれの文も「正しい」ことになる。

  1. Mi pardonis al li. -- わたしは彼を許した。
  2. Mi pardonis lin. -- わたしは彼を許した。
  3. Mi pardonis lian misajxon. -- わたしは彼の間違いを許した。

 また実際に次のような文にもよくお目にかかる。

  1. Li diris al sxi ke li amas vin. -- 彼は彼女に愛してるんだと言った。
  2. Li diris sxin ke li amas vin. -- 彼は彼女に愛してるんだと言った。

 これを〈合理的〉と言っていいのかどうか、ぼくには何とも言えない。 ある面、とても便利で楽な「規則」だ。ことばを発する方はそのときど きで使いやすい方を選べる。逆から見れば、文の意味が文脈や解釈に依 存するということである。ということはすなわち解釈機構に負担がかか るということだ。

 人間はいい。これくらいのことは軽く片づける。実際、唐突に対格が 現れるような文脈でも、直観的にその意味を把握することができて、会 話にも読書にも困らない。しかし、コンピューターに処理させようとす るとけっこう面倒なことになるのではないだろうか。勉強を始める前は なんとなく「エスペラントなら構文解析も簡単なんじゃないか」と思っ ていたが、そんなことはなさそうな気がしてきている。

 もうひとつ。次の例文のうち、1と2,3とは、意味が違うという。

  1. Mi kredas sxin. -- ぼくは彼女を信じる。
  2. Mi kredas je magio. -- ぼくは魔法を信じる。
  3. Mi kredas magion. -- ぼくは魔法を信じる。

 1は、「彼女(の言うこと)を信用する」の意、2, 3は「魔法(なる ものが存在することを)信じる」の意だそうだ。しかし、1と3は、 形の上からは区別がつかない。区別はkrediの対象でつくだけであ る。1は対象が人間だからkrediが「信用する」の意味になり、3は対象 がmagioだからkrediは「(実在を)信じる」の意味になる。これは構文解 析レベルでは処理できない判断だ。(できなくはないが、構文解析機構 の処理が増えてしまう)

 中学の頃、英語の勉強をしながら、「なんだってこんなに〈不合理〉 なんだろう」と思っていたっけ、と思い出した。

 もちろん当時は〈不合理〉ということばは浮かんでこなかった筈だが、 どうしてこんな風になっているのだろう、こうすればもっとすっきりす るじゃないか、と感じるような文法規則には何度か出会ったような気が する。母語の文法と大きく異なるような言語と出会うと、人はそんな風 に感じるのかも知れない。

 プログラミング言語などの人工言語では、まず構文規則をデザインす る。「はじめに構文ありき」で、そうでなければ構文解析器を創れない。 自然言語の文法は逆で、たくさんの用例を積み重ねた後に〈規則〉を抜 き出したのだろう。だから〈規則〉からはみ出す用例がたくさんあるの だろう。その点でも、エスペラントは紛れもなく自然言語だと思う。創 案時には「規則をデザイン」したのだろうが、残念ながらそれが徹底さ れず、用例依存の部分が多いように見えます。それが悪いと言っている わけじゃないけれど。

フォローしとこ

 「エスペラント文法への疑問」は、「実際に使う(読んだり聞いたり する)」という面では、殆ど杞憂なのだった。

 人の話を聞いたり、書かれた文を読んだりする局面では、文法規則に 基づいた構文解釈よりは、「理解する」という意志の方が優先する。だ から少少「おかしい」ところがあっても、意味的にまったくかけ離れた り反対の意味になったりするのでなければ、通じるのだった。

 う〜ん、自然言語ってすばらしい。でも考えてみれば、それが自然言 語の「よいところ」なんだよね。「悪いところ」でもあるけど。

(フォローになってるのか?)


(おわり ―― 2001.06.12)





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