エスペラント語雑感(2001年1月)

2001.01.14



 2001年1月現在、エスペラント語を巡るあれこれの考えをまとめてみ ました。

 時が経てば考えが変わっているかも知れません。初学者であるが故の 誤解、早合点はきっとあるでしょう。それも含めて書き残しておこうと 思います。初学者がこんな感想を持ったという記録もあってもいいでしょ う。

 エスペラント語そのものに対する感想は 「『おもちゃ言語』、『お楽しみ言語』」の方に書いてあります。


もくじ
インタビュー
是是非非(非)
是是非非(是)
是非是非
中立なんて、あり得ない
「合理的」ってどうゆうこと?
言語というシステム



インタビュー

――なぜエスペラント語を始めたのですか?

 大した理由はありません。中学生か高校生の頃、何かの拍子にこの言 語のことを知って、ちょっと手を出しかけたのだけど呆気なく挫折して、 長いこと放っておいたら、ある日ふと思い出して、「ああ、そんな言語 もあったっけ」。で、またちょっとやってみようと思ったら、予想以上 に面白そうなので、続けています。

――〈中立、公平〉な言語だから勉強しようと思ったわけではないんですか?

 単に言語としての興味がありました。それから〈人工言語〉ってどん なものだろうという興味。

 ぼくはコンピュータープログラミングの世界にいますが、これはきわ めて〈人工的〉な言語の世界です。そういう言語について考えてきた目 から見て、自然言語界の〈人工言語〉はどういう風にできていてどれほ どの記述能力があるのか、それを感じてみたかった。

 学びやすそうだ、というのも大きな理由です。どんなに難しくてもそ れをものにしなければならない、という強い動機はないし、暇もありま せんから。(^^)

 その上で、「インターフェイス言語」として通用するならそれは有益 だとは思いました。ひとつの言語をものにするだけで、母語を異にする さまざまな人人と交流できる可能性がある。潜在的可能性に留まるとし ても、ゼロよりはマシです。

――ヤバいものに手を出したと思いましたか?

 (笑)始めてみると、いろんなところでいろんな人が色色のことを言っ ているんで、びっくりしました。考えさせてくれるきっかけになったん で、よかったと思っています。

 この言語を勉強する前というのは、柳瀬尚紀さんの随筆に浸ったりな どして、ちょうど〈ことば〉への感覚を取り戻しつつあった時期でもあ りました。そうだよな、〈ことば〉を巡るモンダイというのは実にたく さんあったんだよな、って感じです。忘れていたものを思い出させてく れたような。外国語とか〈国際共通語〉とかに限ったことじゃなくね。

 最近この国で話題の(かどうか判りませんが)「英語公用語論」にし ても、まだ充分勉強できていませんが、エスペラント語を勉強していな ければ「ふ〜ん」「また莫迦なことを」で済ませていたかも知れない。 どんなことばを学んでもよかったに違いないけど、ちょっとラジカルな (笑)言語だったおかげでより鮮明に見えてきたというのはあるんじゃ ないかな。

 あと、強力な造語能力は面白い。もっと早くに勉強しておけばよかっ た。いつ飽きるか判らないけど。(笑)

――〈中立、公平な国際補助語〉という惹句をどー思いますか?

 その話題に積極的に関与する気は、少なくとも今はありません。「そ こまで考えられない」というのもありますが。

 それを言いたいのはぼくの方で、今のところ、もしかしたら「冷淡」 と思われるかも知れないほどエスペラント語に対して「中立」かつ「公 平」であるつもりです。。いいところもある、だけど、悪いところもあ る、という……YMOの『増殖』を聞いてくださいみたいな……(古いな〜)

 「国際補助語」というのは謙虚でいいなと思いますけど、正 直に言えば、「中立、公平である」というのは疑わしい、疑わしいが言 い過ぎなら、せいぜい「条件つきの中立」であり「限定された公平」だ ろうと思っています。これらはとても間口の広いことばだから、修飾語 なし、引用符なし、非限定で使うのは誤解を招いて危険でしょう。

 よく読むと、「民族語でないから〈中立〉である」「誰にとっても学 習の手間を要するから〈公平〉である」と言っているんだけど、それな らこのように引用符に入れて使った方がいいと思うな。

 というのは、「文化的」には中立でも公平でもないと感じているから です。「構文がヨーロッパ語に近い、語彙がヨーロッパ諸語に偏ってい る」ということが言われていますが、そういうことでもなくて。もちろ んぼくが言うような「文化的な〈中立〉〈公 平〉」なんて実現しやしないと思いますが。

――エスペラント語の存在理由は〈中立、公平〉にあるのだと思いますか?

 きわどいところをついてきましたね(笑)

 ぼくは「もしエスペラント語が実は民族語だっ たら」という思考実験をしてみたらどうかと思っています。こんな 塩梅です。

実はエスペラント語とそっくり同じの民族語があったとする。どこかの 小数民族が千年に渡って守り抜いてきたのだとしましょう。
さて、国際会議などで多数の言語が飛び交うのに疲れ果てた人人や「英 語支配」に憤る人人がこの言語を見つける。ラテン語(ロマンス語)の 残り香がほんのり漂い、文字もローマ字。ヨーロッパ人にはとっつきや すそうだ。うれしいことに発音が容易だし、文法もわりかし簡単でけっ こう規則的。
で、提案します。この民族語を「国際共通語」にしましょう。

この提案は採用される(べき)か、されない(べき)か、どちらでしょ うか。

 〈中立〉〈公平〉という立場というか条件は普遍的で不変的なものか というと、そうではない。使われ方によっては簡単に〈非・中立〉や 〈不・公平〉になるし、かりにも自然言語なんだから、使われ方を規制 することはできない。だから、〈中立〉〈公平〉以外の意義も主張した 方がいいと思います。

 エスペラント語が〈中立、公平〉であり得るのはそれが広く普及しな いからだ、ということになるのだとしたら、何か考えさせるものがあり ますね。つまり、〈人工言語〉の可能性、といったことについて。

――英語は「国際共通語」だと思いますか?  あるいは「国際共通語」としてふさわしいと思いますか?

 きわどいところばかり狙っているでしょう(笑)

 英語という一民族語が「国際共通語」然と振舞っている現状について、 またそれを容認したり助長したりしようとする風潮について、議論がか まびすしいようですね。日本では「英語公用語論」などとと呼ばれる 〈提言〉が出たものだから、よけいにカマビスシイみたいです。 ( 「21世紀日本の構想」懇談会

 これについて自分の態度を決定し、一貫した意見を述べるには、まだ 勉強が足りないと思っています。ただ、コンピューターの世界は目に見 えて圧倒的に英語中心、アメリカ合衆国中心、ASCII中心ですから、か ねてから「なんだかなぁ」と感じてはいました。一石を投じるくらいは してもいいだろうと思います。とはいえ、英語がコンピューターや情報 処理を始めとしてさまざまな分野で優勢を誇っているのは事実なので、 これを無視したり闇雲に否定したりするのは意味がない。どうしたらい いんでしょうね。

 塩野七生さんのようないい意味でのリアリストにかかると、「必要な ら、やればいいじゃない。でも必要のない人まで血まなこになることは ないでしょう」「やるにしても、母語をきちんと習得して、責任ある言 動ができて、基礎教養も身につけるならね」と明快です(『ローマの街 角から』(新潮社、ISBN4-10-309626-8))。これにはまったく同感です。

 で、「英語と国際共通語」ですが、きわめて直感的に、きわめて漠然 と、一民族語がなりゆきとはいえ「国際共通語」の座に居すわるよりは、 〈人工言語〉が「国際共通語」になった方がこの先の世界には有利なの ではないかと思います。

 これまでは、異なる言語を話す者どうしが接触するとき、一方が他方 の言語を(あるいは互いが互いの言語を)習得して交流を開始してきた わけですが、そろそろ違うやり方が試みられてもいいんじゃないかな、 という程度の考えなんですけど。言語という、これまでは人間が半ば無 意識的に作り上げてきた体系を、意識的に、全世界のもろもろの地域の さまざまな水準のいろいろな人間間の交流を視野に入れながらデザイン していくというようなことを、考えていってもいいんじゃないか。今が そういうことの可能な時期かどうかは判りませんが。

 あと、世界は変わらないより変わった方がいい、という、ひじょ→に 単純な考え。(笑)

 本当に〈人工言語〉でなければならないのかどうかは考えなければな りませんが、できるだけ構文規則が単純で、意味規則も願わくは単純で、 それでいて文脈に依存する部分が少なく、かつ表現力が豊かな言語がい いわけで(笑)、そんなに都合のよい民族語がそうそうあるとも思えな いから、とりあえず〈人工言語〉が妥当であるとしておきましょう。

 といっても、そういう「意図的な国際語」が国際社会に根づいていく 具体的なプロセスまでは想像できません。「成行きでなった国際語」が 政治経済学術で攻めてくるなら、文化芸術囲碁ポルノ(笑)で対抗する んでしょうか。

 まぁ、そういう考えなんで、英語を捨てるとか、英語を拒否するとか、 英語を憎悪する(笑)とかいうのは莫迦げた話だと思う。英語は現在の この世界では重要な言語だし、どんな言語であれ知らないよりは知って おいた方がいい。

 それと同じように、英語に肩入れするとか、英語を特別扱いするとか、 英語を溺愛するとかいうのは莫迦げた話だと思う。公用語の地位を与え ようとしてまで優遇するというのは、素朴な感想として、どーかしてる と思います。

――では、エスペラント語は「国際共通語」としてふさわしいと思いますか?

 うーん……その話題について語るのは地雷原にスキップしながら入っ ていくような気分なんですが……「さあ、どうでしょうか」というのが 今の正直な思いです。

 エスペラント語が完全で万能だなどと思ってはいません。ほかの自然 言語と同じように、「いい」ところもある、だけど、「悪い」ところも ある。これはもういいですか(笑)

 インターフェイス言語としての限界のようなものもきっとあるのだろ うと思っています。つまり、過大な期待はしていないし変な幻想も抱い ていないつもり。「言語は常に不完全で、非対称で、不公平である」っ て、響三十朗という人が言ってるんですが、ぼくもそれに近い考えを持っ ています。

 実際、人が言うほど〈合理的〉とは思えないし、構文上も多義性、曖 昧さというものが随所に入り込んでいる。構文が曖昧だというのは、言 語処理上大きな障害になるわけで、よくも悪くも「自然言語」だという のはそういう意味です。それに、「ひとつのことばで話せる」ことと、 対立や問題を解決することとはまったく別の問題領域で、「意思が正確 に伝わってしまったがために問題を惹き起こす」ことだってあります。 だから「ことばが通じる」だけでは足りない。

 エスペラントを支持し推進しようと考える人たちは、「民族の文化を 大切にしながら、民族の違いを越えて交流する」などと言います。ぼく もそうあって欲しいですが、そのためには、直接の意思伝達とは別の場 で、民族や文化の違いについてたゆみのない相互理解が試みられなけれ ばならないでしょう。そうした努力がなされるという前提の上で、人工 言語はインターフェイス言語として機能するんじゃないかと思います。 それが「国際補助語」ということばの意味でしょう。そういっ た努力がないのなら、どんな〈人工言語〉を創ったとしたって「国際補 助語」になんかなれないのではないでしょうか。

 その相互理解のための言語に民族語を使うのは趣旨からして妥当でな いのであれば、やはり何かしらの〈人工言語〉を使うのがよいのでしょ う。エスペラント語がそれにふさわしいのかも知れません。

 ただ、その〈人工言語〉はできる限り「〈民族性〉のにおい」が薄め られるのが望ましいでしょう。それも、言語の文化的側面をも切り捨て るという方向にではなく、いろいろな民族のさまざまな文化が混淆した 新しい文化、というか、新しい言語文化というか、文化言語というか、 そういうものを模索していくという方向に薄められるのがいいと思って います。

 今のところ文化と言語と民族は切っても切れない縁にありますが、 「特定の民族や民族語に依拠しない文化や言語」が成立し得ないと証明 されたわけでもない。そういうものが成り立つのかどうか、形成し得る のかどうか、〈人工言語〉はこの命題に挑戦しているのかも知れません。

――エスペラント語はどんどん普及して欲しいと思いますか?

 それはもちろん。せっかく学んだことばが衰えていくのを見たくはあ りませんから。自分がそのことばから離れて行くのでなければ。 EU(European Union, 欧州連合)とか、FIFA(Fideration de Internationale Football Association, 国際サッカー連盟)とかいった 団体などでエスペラントが公用語になったら面白いのになぁと思ってま す。

 さっき言い忘れましたが、勉強しようと思ったのには「共同体」の存 在があります。切実な理由がある場合は別にして、どんなに魅力的な言 語であっても(しかし言語の「魅力」って何でしょうね)、それを学ぶ ことで何かを得る(潜在的にでも)のでないと、学ぼうという気に人は ならないと思います。独りっきりでは何も得られません。つまり、その 言語を使用する「共同体」の存在は欠かせない。

 プログラム言語なら、それが自分にとって有意義でありさえすれば独 りきりでも勉強できるし、活用できる。極端には「自分一人で発明して、 自分ひとりで使う」ということだって充分あり得る。でもそうした場合 でも、情報やユーティリティの開発や入手、ライブラリの充実やバージョ ンアップの期待などを考えたら、「コミュニティ」の存在は重要ですが。

 自然言語はそうはいきません。たったひとりで黙黙と使う自然言語な んて自己矛盾です。

 エスペラント語の維持普及発展の運動がこの国で衰えていくとしたら、 それはうれしくないです。ぼくが勉強できたのも先人のおかげだし、ウェ ブなんかで電子辞書を公開したりしてくださっている〈先輩〉たちのお かげです。

 せっかく学んだんだし、苦労をしなくとも然るべきところから本を取 り寄せられる、せめてそんな程度には栄えていて欲しい。そのうちぼく もこの共同体に何か貢献できるようになるかも知れませんしね。

 自分の方から離れていくようなことがあったら、ごめんなさいですけ ど。

――ありがとうございました

是是非非(非)

 ウェブをあちこち散歩してみると、エスペラント語の話題もちらほら あって、賛否両論がかまびすしい。

*何の役に立つ?

 よくあるのが「エスペラント語人口なんてどれだけあるんだ」「実用 には耐えまい」「そんなもの学んで何の役に立つんだ」という意見。

 話者人口が少ないことを〈マイナー〉と言うとすれば、圧倒的に〈マ イナー〉には違いない。特に深い考えもなくまなじりを決するほどの思 い入れもなく勉強を始めたので、「何の役に立つんだ」と言われるとハ タと困る、というのが正直なところ。面白い、だけじゃだめでしょうか? (爆) 勉強してつまらない言語というのがあるのかどうか知らないけ ど。勉強するのがつまらない状況は大いにしばしばあるけど(ちょ爆)

 いや、そんなことを言うから「好事家の言語」「芸事、たしなみの世 界」「言語界の『趣味の園芸』」などと陰口を叩かれちゃうんだな(最 後のは、ぼくがデッチアゲたものですが)。

 「実利」から離れたことを言ってしまうとまた説得力はないだろうが、 〈言語的思考回路〉の増設には大いに役に立つのではないかと思う。母 語による思考回路以外にもうひとつ思考回路を持っておくのは誰にとっ ても悪いことではない筈だ。これはしばしば「相対化」ということばで 語られる。母語以外の言語で考えることで「母語(文化)的なものの見 方」からある程度脱却しようというものだ。

 それはどんなことばだっていいわけだが、〈人工言語〉はその人工性 のために、誰がどんなことばを学んだとしても常に〈もうひとつの選択 肢〉であり得る。それに、ぼくはエスペラント語で考える域にはまだ遥 か及ばないけれど、英語やフランス語による思考回路を構築するよりは ずっと簡単だろうという感触はある。お手軽に思考回路を増設できるな ら好都合ではないだろうか。英語を学ぶのもいいがエスペラント語も学 べばいい。英語は捨ててなんて言わずに両方学べばいいと思う。

「思考回路の増設」自体は悪いことではないと思うけれど、 これにはこれで問題があるような気もしている。が、うまく 言えないのでいつかまた別の機会に。

*人間のための言語ではない?

 「“人工的に創られた”言語に、感情や情緒を表現できるのか/でき るわけないじゃないか」といった意見もまだまだあるようだ。「相互理 解のためには相手の文化的背景などへの理解や洞察が不可欠、そういう 背景を持たない〈人工言語〉は共通語にはなり得ないのでは」という意 見も目にした。

 まったくの推測なのだが、上のように言う人たちの中でエスペラント 語をひと通り学んでみた――たとえば、簡単な文章(頻出する500の語 根のみ使用した文章、とか)の読み書きができる程度――という人は、 そう多くないのではないだろうか。はっきり言えば殆どいないのではな いか。「〈人工言語〉は所詮つくりもの。民族語には及ばない」という 主張を読むと、たいがい観念的であり、いささか感情的でもあり、単な る断言であり、論証の形になっていないと見えるのだが、みなさんはど う思いますか。

 どんな言語であれその〈輪郭〉がつかめる程度に習熟するにはそれな りの時間を必要とする。だから「対象を熟知した上で批判する」のは難 しい。しかしだからといって、ろくに知りもしない人について顔つきや 声の印象や周囲の評判だけから判ったようなことをいうような態度は好 ましくない。実際に学んでみれば、いいところ(あるとして)も悪いと ころ(たくさんあるのに違いない)もはっきり見える筈だ。

 それにこの手の主張は、N年前によく見られた「コンピューターごと きに人間さまの代わりが勤まるわけがない」という〈意見〉を思い出さ せる(ぼくも昔はそんな風に思っていた口だ。いや、今でも思っている かも知れない)。

 この人たちはウェブで調べものをする時に自動翻訳ソフトの助けを借 りたりしてないだろうか。機械が〈機械的〉に翻訳した文章は、素材が 自然言語であるなら、人工的に創られた言語で表された感情よりも「本 当らしい」だろうか。あるいはまた「ロボットペット」の振舞を見て目 を細めたりしていないだろうか。またロボットが職人の〈技〉をみごと に写し取って真似てみせるのを見て、この人たちはどう思うだろうか。

 「相互理解うんぬん」にしても、だからこそ〈人工言語〉が適してい る、という見方だってできるだろう。相互理解が不可欠であるのは自明 だし、最終的にはお互いの民族語で話せた方がいいに決まっているけれ ど、4000とか8000とかあると言われる民族語をすべて習得するのは無理 な話。では最大公約数をどこに求めるかと考えると、特定の文化的背景 に依拠しない状態での意思交流こそ望ましいとも言えるのではないのだ ろうか(今のエスペラント語がそれにふさわしい、と言っているのでは ない)。

 文化的背景への理解が必要であることが、言語の選択を規定するのか どうか。意思疎通の手段と文化背景理解の手段とは独立して考えること ができるとも言えるのではないか。大体、それなら「中国人と日本人が 英語で会話をする」といった状況は大いに不条理なのではないだろうか (英語が中国や日本の文化的背景への理解に満ち満ちているかというと、 とてもそうとは思えないし……)。

是是非非(是)

*「優れた言語」って何?

 「肯定派」からは、こんな発言がある。いわく、「『国際共通語』に は民族語でなく、もっと言語として優れているものを選ぶべきだ」。

 さて、これはどういう意味なのだろう。同じ〈人工言語〉の間で比較 するのならまだしも(それだってしょせ ん〈宗教戦争〉だと思う)、民族語と比べて優劣を論じることに何 の意味があるのか。〈人工言語〉はおしなべて民族語よりも「言語とし て優れている」のだろうか? エスペラント語は民族語よりも「言語と して優れている」のだろうか? 人類が過去持ち得た言語の中ではもち ろん、未来に渡って持ち得る自然言語の中で最も優れているのだろうか?

 まるで言語として使いものにならないような〈人工言語〉を創るのは たやすい話だし、エスペラント語にしたって、そこそこよくデザインさ れているとは思うけれど、〈人工言語〉ならきれいにデザインされるの はまぁ当たり前であって、これが最良の決定的なデザインだと検証され たわけではないし、〈わりかしいいデザイン〉であることが「優れてい る」ことの証になるわけではない。

 そもそも言語が「優れている」とはどういうことなのか。言語それ自 体に優劣はつけられるのか。何をもって優劣とするのか。仮に基準を設 定できるとして、その基準に照らしてエスペラント語が「優れている」 とする根拠は何か。百万歩譲って優劣をつけることが原理的に可能なの だとしても、われわれにそれを論じる資格があるのだろうか。 われわれとて民族語の中で育ち、民族語を母語としている身ではないか。 これはけっきょく「言語差別」ではないのか?

 先の発言は「言語帝国主義」、英語が現在「国際共通語」然として振 舞っている現状、またそれをよしとするような風潮への反論といった文 脈で語られているのではあるけれど、勢い余って勇み足をしてしまって いるように見える。確かに英語は発音が難しいし、文法も難しいけれど、 それを理由に英語を「劣っている」と決めつけることができるのだろう か。できるとしたら何の資格によってであろうか。言語差別をするなと は言わないが、こういう発言は「否定派」の猛反発を招くだけなのでは ないだろうか。いただけなさでは「言語帝国主義」と似たようなものだ。

 ぼくは本格的に勉強をする前にこの発言に出くわしたが、「優れた言 語って何なんだ」「もしかしたらエリート臭芬芬の、思い上がってつけ 上がった自意識過剰のイヤな言語なのかも知れないな、やめとこうかな」 と思った。「英語に代わる選択肢」を探そうとする人たちも眉を顰める んじゃないかと心配だ。

*「国際共通語」への道

 こんな発言もある。「世界中の言語から文法要素と語彙を抽出して言 語を作っても、混沌として実用に耐えないであろう。ヨーロッパ諸語の 風味を残しているものの、もっとよい案が出てこない限り、エスペラン ト語が『国際共通語』にもっともふさわしい」。

 「もっとよい案がうんぬん」は当たり前であって、もっとよい言語が 見つかったらそちらに乗り換えればいいだけの話だ(本当にそうかな?)。 となると問題なのは「より望ましい言語」の探求や模索だと思うのだけ れど、上の発言はその努力をてんから放棄しているように見える。

 「エスペラントはよい言語だから生き残ったのだ」という見方もある だろうが、「生き残ったから〈よい〉のだ」という見方もできる。ぼく はそう見る方が健全なように思う。

 この言語が「成功」したのは、言語仕様が大きな要因なのは間違いな いとしても、言語仕様をいま風に言えば「パブリックドメイン」に供し たこと、維持普及のための組織を早くから確立したこと、世界中にユー ザーを獲得できたこと、「共同体」をあちこちに持てたことも大きいと 思うし、もしかしたらそれらの方が要因としては重要かも知れない。言 語もある意味生命体だから、生き延びなければ死んでしまう(当たり前 ですね)。

 過去の百年はなかったものとして、もし今エスペラント語を含めいく つかの「国際共通語案」が中立で公平なスタートラインに立っていたと したら、果してどうなるのか。「ヨーロッパに偏っており中立とは認め 難い」としてアジアやアフリカは別の言語案をとるかも知れない。欧米 が推して結局エスペラントに決まるかも知れないが、それは「言語のよ しあし」とはあまり関係がないだろう。

 事実はそうではなく、「国際語コンテスト」は百年前に行なわれた。 そこでエスペラントは生き残り、百年の積み重ねがあって、現在日本と いう国で好奇心から独習するのにも不自由ない程度の状況に至っている。 つまりは「デファクトスタンダード(エスペラントではefektiva normo でしょうか)」ということであって、「言語自体のよしあし」は大して 関係ないのではないか。

 という、現実的な選択という意味での「もっともふさわしい」なら、 ぼくも頷く。

 「世界中の言語から文法要素と語彙を抽出」して混沌とするかどうか はひとえに言語デザイナーの「腕」にかかっているので、「実用に耐え まい」で済ませるのは安直だ。もちろん簡単に創れないのは直観的に間 違いない。しかし、だからといってその努力を放棄する必要もない。東 アジア陣営としては、それに挑戦するのは悪いことではないだろう。 100年前の「バトル・ロワイヤル」の勝者(勝者ではないという意見も 聞こえてきそうだが)エスペラント語とことごとく比較されるから厳し い勝負にはなるだろうけれど、そういう挑戦が絶えるのは望ましくない。

 エスペラント語を受け入れるとしても、エスペラント語のそこかしこ に潜んでいる「ヨーロッパ諸語の風味」まで所与のものとする必要はな い筈だ。この言語を使うとした上で、それから「ヨーロッパ風味」を薄 めていくこと、アジア風味(?)を足していくこと、というのも大切な のではないか。「語彙や文法にヨーロッパ寄りのところがありますけど ね、ま、仕方ないんですよ。ほかにいい言語案もないしね」で済ませて はいかんと思うのはぼくだけでしょうか。

 それにしても、「世界中の言語をモデルにした実用的な人工言語」の 創造が直観的に「絶望的な難題」と思えるところに、自然言語が抱えて いる(もちろん抱えようとして抱えたわけじゃないけど)問題のひとつ がある。なんで言語はこうも多種多様なんだろう? それは生物種が多 様なのと同じことなのかも知れないね。

是非是非

 こんな風に、「肯定派」「支持派」は手放しで持ち上げ、「否定派」 「反対派」は渾身の力を込めてこき下ろす、という具合で、その中間に 位置するような意見になかなかお目にかかれない。これはこの言語の特 質によるのか、それとも〈人工言語〉という対象が態度を二分させるの か。あるいは「言語」というのはそもそもそういう主題なのか。

 自然言語の世界にはこんな領域もあるんだと知るだけでも、ちょっと 学んでおく値打ちはある。入門書の一冊くらいは買っておいて損はしま せん(まじ)。別に〈中立〉とか〈公平〉とかいうことばにこだわるこ とはありません。単にひとつのことばとして〈活用〉することはできる んじゃないかと思います。

中立なんて、あり得ない

 英語のような民族語が「事実上の国際共通語」という地位を占めるこ とへの異議申し立てとして、この言語は「民族語でないから〈中立〉で ある」「誰にとっても第N言語であり、学習の手間を要するから〈公平〉 である」と主張している。その点については異論はない。だが、文化的 な領域については話は別だと思っている。

 入門書で選択疑問文(「はい」か「いいえ」で答えられる疑問文)を 知った時から、「否定疑問文の返答はどうなのか」が気になっていた。

 自分がそうだったから、英語を学んだ人ならきっと「カルチャーショッ ク」を受けたと思っているのだけれど、英語では否定疑問文(〜ではな いのか?)に“肯定的に”答えるなら「No, ...not... (はい、〜ませ ん)」だし、“否定的に”答えるなら「Yes, ... (いいえ、〜ます)」 である。間投詞の使い方が日本語と「逆」になる。エスペラントではど うなのか。ところがこれに答えてくれる文献がなかなかない。自明と思 われているのか、煩わしいので触れたくないのか。ある本で、やっとそ れについて触れているのを発見した。エスペラント語は英語と同じで、 否定疑問文に肯定的に(つまり疑問文を肯定する)答えるなら「Ne(は い、〜ません)」だし、その反対なら「Jes(いいえ、〜です)」だそ うだ。

 問われている案件に対する肯定・否定と考えれば、「Aであるか」と 問おうが「Aでないのか」と問おうが、「Aである」ならJes、「Aで ない」ならNeとなる。それはそれで筋が通っている。(ちなみに「疑問 文を肯定する」というのは日本語的な考え方で、案件「Aである」を 「甲」、「Aでない」を乙と置けば、疑問文は「甲?」または「乙?」 であり、肯定するならいずれも「はい」となる)

 そんなことまで知れば、英語やエスペラント語の間投詞の使い方は納 得できるが、でも日本語と流儀が違うのは事実であり、戸惑う。流儀が 異なるのはかまわないが、一方ではこれが母語と同じ流儀だという人た ちがいる。

 もうひとつの例。

 辞書によれば、建物の一階、つまり通常地面と同じ高さの階をエスペ ラント語では「teretagxo」(逐語訳すれば「地面の階」)という。 「unua etagxo」(逐語訳すれば「第一の階」)は日本語でいう「二階」 になる。この「階」の感覚はイギリス英語のそれに似ている。フランス もそうだったような記憶がないこともない。が、日本(語)とアメリカ 英語では、地面と同じ高さの階が「一階」だ。

 ここに「文化の違い」が入り込んでいる。ナニ、そんなものだろう。 既存の文化から解き放たれて言語をデザインするなどできやしない。だ からそれが悪いなんて言わない。だいたい、「建物の階をどう数えるか」 について世界的な合意がないのだから、〈中立〉なんて望みようがない。

 しかし、それがエスペラント語形成に関わった人たちの自明の共通認 識であったにせよ、公正さを期す激しい議論の末であったにせよ、違う 数え方をする言語にとって〈不公平〉になっているのは事実だ。イギリ ス式(ヨーロッパ式なのかな?)の数え方をする人たちにはこの語は自 明であるのに対し、たとえば日本語を母語とする人人は、いつも頭の中 で変換ルーチンを通さなければならない。エスペラント語の使用にあたっ て、前者は「先天的な優位を享受している」ことになる。

 では逆にしたらいいのかというと、今度は「イギリス式」の数え方を する人たちが困るだけだから、いずれにしても〈公平〉にはならない (それに、「地面と同じ高さの階」を「ゼロ階」と考えれば、イギリス 式の方が、プログラマーの感覚には合うかも知れない)。必要なのは、 「階の数え方」に関する世界全域的な合意なのだ。

(それにしても、日本では、坂の途中に坂を抉るような感じで建ってい て、坂の低い側にも高い側にも入口があったりする、そんな家をしばし ば見かけるけど、ああいう建物の場合、イギリスではどちらを「地面と 同じ高さの階」としているんだろう? それともイギリスではそんな家 は建てないのかな?)

 些細なことと言われるかも知れないが、階の数え方ひとつにこういう 食い違いがあるのなら、総体としてどこにどれだけ隠れているか判った ものじゃない。

 「だからエスペラント語はだめだ」と言っているのではない。日本人 にとってはなるべく日本語とかけ離れた〈国際語〉の方がいいんじゃな いかとも思う。

 民族語はその民族の文化と分かち難く結びついている。エスペラント 語は参考にした民族語の「文化(的背景?)」を取り込んでしまったと いうだけのことだ。その意味では「<人工言語>だから<文化>がない」 というのは間違いで、何かしらの文化を含意しているには違いない。願 わくはいっさいの文化から独立した言語をデザインして欲しかったとこ ろだけれど、そんなの19世紀末には無理だったに決まっているし、現在 だって無理に違いないし、これから先も長いこと無理だろう(もしかし たら人間には永遠に無理なのかも知れない)。試みはあってもよかった と思うが(誰かやってみませんか)、議論が紛糾して結局何も実らなかっ たに違いない。

 そして、要するに、そういうことだろう。〈中立〉とか〈公平〉とか 言ったって、そういうものだ。引用符に入れて使って欲しい所以である。

 エスペラント語はそれを使う人の母語や文化を尊重することになって いる筈で、でも上に挙げた例のように明らかに異なる文化を「踏みにじっ ている」場合がある(「踏みにじってなどいない」という見方もあるだ ろう)。「疑問文への答え方」とか「建物の階の数え方」について、充 分な議論が重ねられ、その結果として「この言語としてはこうしていこ う」というものが蓄積していくのだったらいいな、などと思ったりする。

「合理的」ってどうゆうこと?

 入門書を終えた後、独習書に挑戦しながら、やや高度な(と思える) 本を何冊か読んだ。『エスペラント初級・中級の作文』(阪直、日本エ スペラント学会)、『エスペラント 翻訳のコツ』(山川修一、日本エ スペラント学会)、『エスペラント言語学序説』(岡本好次、日本エス ペラント図書刊行会)である。これらを読んで、エスペラント語は〈本 格言語〉だと思った。

 用法や意味規則のこれほどの難しさ曖昧さは、好意的に言って、本格 的な自然言語の証としか言いようがない。だいたい、「入門書や独習書 で学んだだけじゃ、まだやっと第一段階を突破しただけなんだよねー。 ホントはもっと奥が深いんだもんね」とばかりにこういう本が控えてい ること自体、「使いこなすにはそれなりの代価を支払わなければならな い」言語であることの例証だ。

 それは当然のことだろう。「事実の伝達」から「論理の記述」や「感 情の細かい彩の描出」にわたる微妙で精細な表現が可能なのであれば、 語や言い回しは多義化し用法はどうしたって複雑になる。それでもなお 他の自然言語と比べて「学びやすい」と無邪気に言い放っていいのかど うか、ぼくには何とも言えない。

 これらの本からぼくが「この言語は難しい」とか「それでいいの?」 と感じた部分を挙げようと思っていたのだが、最近『まるごとエスペラ ント文法』(藤巻謙一、日本エスペラント学会、ISBN4-88887-017-9) を読むに及び、「人が言うほど〈合理的〉じゃないじゃないか」と確信 するに至った。それを書き出すとただでさえ長いこの文章がさらに倍く らいになるので、まとめて別の機会に譲ることにする。

 ぼくの知る限り、日本語で書かれたエスペラント語の文法書(文法を 体系的に記述・説明した本)は少ない。独習書は学びやすさを優先する ので文法の説明はこまぎれになるのだ。『はじめてのエスペラント文法』 という本を読みたかったのだが、絶版ということで物足りない思いをし ていたら、改訂されて『まるごとエスペラント文法』として出版された。 この言語の文法をまとめて眺めることができる、ありがたい本である。

 ぼくはそもそも〈合理的〉とか〈不(非)合理〉という日本語自体、 今では多義的な使い方をされていると思っている(Aさんのいう〈合理〉 とBさんのいう〈合理〉では観点や文脈が違っているのでそのままでは 比較できない、など)。それなので、自分ではこの言語について肯定的 にも否定的にも〈合理的〉ということばを使わないように心がけてきた。 使う場合はこのように引用符に入れている。

 もともと「自然言語なんて〈不合理〉のかたまりだ」と考えているこ ともあって、人がこの言語を評して〈合理的〉というのをそんなものか なぁと思ってきたのだけれど、『まるごとエスペラント文法』を読むと、 〈合理的〉ってどういうことなのかと考えてしまう。

 そりゃまあ民族語の方が遥かに〈不合理〉なのかも知れないし、民族 語と比べれば遥かに整理されているのかも知れない。「だからこっちの 方が〈より合理的〉なんだ」ということなのかも知れない。でも、そう なのだとしても、「民族語に比べれば〈合理的〉」だからといってこの 言語のあそこにもここにも見られる〈不合理〉がなくなるわけじゃない ので、ぼくとしてはやはりこのことばは使いたくない。

 くどいようだが、この言語の〈合理性〉が本当にその程度のものだと しても、それがこの言語の欠陥だと言っているのではない。好き嫌いを 述べることや意義や有用性を評価することと、言語仕様の合理性や妥当 性を評価することとは分けて考えたいというだけのことだ。

 と、予防線を張っても、エスペランティストの方方からものすごい反 発を食らいそうだな(苦笑)。

言語というシステム

 この言語を勉強し始めて改めて認識したけれど、〈ことば〉を巡って、 実にいろいろなモンダイがある。こいつらに首を突っ込むとすぐに〈宗 教戦争〉や〈思想闘争〉に巻き込まれる気がするので、立ち入らないよ うにしている。各種「主張」や「運動」も興味を持って見ているが、眺 めさせてもらうに留めている。

 言語の問題が厄介なのは、そもそも言語というものが人間のあらゆる 活動の全領域にわたる広大な下位基盤だからだろう。それは道具である と同時に対象であり、主体であると同時に客体でもあり、形式であると 同時に内容でもあり、プロトコルでもあればデータでもあればプログラ ムでもある。そこでは誰もが当事者であり、しかし関わり方はそれぞれ で異なる(しかも微妙に異なったりする)。好みとか主義主張とか政治 的信条とか個人的信念とか打算とか利権(笑いごとじゃないぞ、きっと) とかが微妙にしかし不可避的に入り混じって、なかなか「客観的な論証」 という作業に辿り着けないように思うし、辿り着いたところでそれだけ では決着がつかなかったりする。論理だけでは決着がつかないのは、ま、 〈自然言語〉なんだから当然といえば当然かも知れない。

 もし「何らの主義信条もなしに使うことなど考えられない」「この言 語を使う以上、しかじかの主義信条思想に同意するのは当然だ」などと 言われたら、ためらいなくこの言語を捨てるだろう。

 かどうかは判らないな。まぁそのときに考えよう。

 困ったことに、言語というのはそれ自体がひとつの体制でもある。

 言語は人の精神活動をその言語体系に組み入れようとし、束縛しよう とする。ことばはもともとヒトが自分の思いを外に表すためのものなの に、外に表すうちにできあがってきた記号の体系が、人を圧迫するよう に作用し始める。この〈体制〉からはみ出すものは許さないぞとでも言 うかのように。また、言語には、その言語を育んだ文化が内包するさま ざまな〈差別〉が組み込まれている。言語はもともと差別的なのだと言っ てしまってもいいかも知れないくらいに。

 なんて皮肉なんだろう。

 人はそのシステムに属することで安心も得るが、圧迫や抑圧も被る。 そして、人はそこから逃れようとする。(あらゆる)言語表現は言語と いうシステムから脱出する試みと言ったっていいのだ。

 エスペラント語も自然言語の体系である以上、〈体制〉の一面を持っ ているのに違いない。〈中立〉〈公平〉というスローガンは充分圧力に なると思うし、「エスペラント語的なものの見方考え方」といったもの がどこかに隠れていて、知らず知らずのうちに話者に強制されている可 能性もある。これはいいとか悪いとかではない。宿命のようなものだ。

 その点、出自からして非常にラジカルな言語なのに、〈体制〉の維持 という面では非常に保守的だというのも面白い。オリジナルのデザイナー であるザメンホフが、「この言語が国際補助語として全世界に認知され るまでは、構文を変更しないように」と言って以来百数十年、「16箇条 の文法」は大事に守られてきたそうだ。これに抵触するような変更をし ようとすると大変な騒ぎになるらしい。もちろんそうしなければ革新に 革新が重ね打ちされて収拾がつかなくなっただろうことは容易に想像で きるけれど、「革新的なものを維持するためには保守的でなければなら ない」というのは、逆説的で面白い。他にも通じるものがありそうに思 える。

 でも、有難がっておしいただいているだけではその〈体制〉を硬直さ せ疲弊させるだけだ。それを「抜け出そうとする」試みを抑圧する側に は回りたくない。できるならば新しいことば、新しい言い回し、……新 しい表現、新しい意味をどんどん開発していく側に立ちたい。この百年 間になされてきたに違いないのと同じように。民族語ならば、母語話者 の誰もが毎日使う中で(無意識的に)「脱出の試み」を繰り返していく。 エスペラント語はそういう言語ではないから、これは意識的に試みなら れければならないだろう。

 これもまた〈実験〉だ。

なんてことを含みつつ

 勉強を続け、使い始めている。自分がこの言語を使うことの、現在で の意味も、おぼろげながらつかめてきた気がする。

 こういうさまざまな要素を含む大がかりな実験に参加できてうれしい。 いや、自分から離れて行くようなことがあったらごめんなさいですが。


あたまへ





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