「おもちゃ言語」、「お楽しみ言語」

Elfinita en 2000.12.05



 「わたしのエスペラント体験・“初学者のころ”」です。

 初学者、というのは謙遜でも自己卑下でもなく単なる事実です。

 いつごろ初学者の域を脱するのか定かではないけれど、習熟するまで 何も感じず何も考えないというのは無理なので、いま現在の考えをまと めてみました。

 時が経てば、ころっと考えが変わるかも知れません。




私と言語

 「自然言語の勉強」なんてとても久しぶりで、なかなか新鮮でした。

 「そういえばN年前には、『お金と時間の余裕ができたらアテネ・フ ランセでフランス語と英語を勉強しよう。うん、ぜったいそうしよう』 なんてことを思い描いていたっけ」なんて、思い出したりもしました (当然、そんなことしていません)。

 そんな私にとって(どんな私だ)、「ひとりでも学べる」というのは 勉強に向かう意欲に大いに影響したと思う。

 思うにことばの勉強というのは、否が応でも使わざるを得ない状況に 身を投じる(投じさせる)か、机に縛りつけて無理やりにでも頭に詰め 込むか、自分から自発的に吸収するような精神状態にする(させる)か しないと、身につかないのではないだろうか。どんな勉強だってそうか。

 好奇心は強い方だと思っているが、手当たり次第に何にでも手を出す わけではない。言語好きなのは間違いないと思うけれど、どんな言語で もばりばり勉強するわけではない。手を出しても飽きっぽい。飽きっぽ いけれど、ツボにはまれば、気が済むまでやる。でもどうなったら「気 が済む」のかについては統一見解がない。

 そんな私(どんな私なんだか)が興味を持って続けられている。

 前もって言っておくと、ぼくはエスペラント語については何の含みも ない。ぼくにとってはこれは「数ある自然言語」のひとつで、そして、 それだけのことだ。ちょっと変わった出自のせいで異色を放っているけ れど、だからって恐れ入るほどのことはない、フツウのことばだ。この 言語について、またはこの言語に対して、あるいはこの言語に関連して 公に言明されるいかなる主義、信条、思想、運動に対しても〈中立〉で あるつもりでいる。今のところ。

 ついでに、ぼくはエスペラント語を自然言語と見なしている。形式言 語に対峙するという見方ではそうなる。従って〈人工言語〉ということ ばも「(人為的に)デザインされた自然言語」という意味で用いている。 人工言語でない自然言語は、とりあえず「民族語」と呼んでいる。

言語の勉強って、似ているかも

 言語といえばこのしばらくの間、ぼくにとってはプログラム言語だっ た。それなので今回エスペラント語を勉強する時も、プログラム言語の 習得と重ねて見ていた。それがぼくには自然な視点なんだから仕方がな い。

 同じ「言語」だけあって、自然言語の勉強とプログラム言語の勉強に は似ていると思わせるところがいくつかあった(どんな勉強だって似て いるのかも知れない)。

「プログラム言語と自然言語なんて、ぜんぜん別物じゃんかよー」 というご意見の方もいるかも知れない。
うん、まったく別物かも知れない。

 どんな言語だって最初は得体の知れない記号列として立ち現れる。

 ぼくが最初に目にし、プログラムを書いた言語はBasic(今のビジュ アルなんとかではなく、古いヤツです)だったが、初めは何が書かれて いて何を意味するのか判らないといったらなかった。

 判らないというのは不安なものだ。そしてそこで拒絶反応を起こして しまうか、ごふっと丸呑みしてしまえるかで、言語に対するその後の道 が分かれるように思う。

 ある時、ふと、〈文〉を理解できると思える瞬間が来る。これまでた めつすがめつ眺めてもなかなか〈意味〉を読み取れなかった〈文〉や 〈文章〉が、なぜかすっ  と頭に入ってくる感じがする。そんな風に して、どんな文を書くとどんなことが起こるか判るようになってくる。 自分が思ったとおりのことを〈文〉に書け、人の書いた難しい〈文章〉 も理解できるようになる(プログラム言語では、「読む」より先に「書 く」方が上達する)。

 ひとつの言語を完璧に習得するには、言語にもよるが最低半年、最初 に学ぶ言語ならN年はかかる(プログラム言語の話です)。完璧かどう かは、その言語からしばらく離れていた後でも〈文〉を自在に書けるか どうかで判る。習得できていないうちは、判ったつもりでいても構文が メロメロだったり思い出せなかったりコンパイラやインタープリタに怒 られたり、用法の思い違いをたくさんして蟲をたくさん出したりする。

「自在に書ける」というのは、プリミティブ(基本演算)とか 組み込み関数とかと呼ばれるものや、標準ライブラリ関数と呼 ばれるものたちをたくさん暗記している、ということとはまっ たく違う(そんなのは些細なことで、憶えていなければマニュ アルを引きながら書けばいい)。そうではなくて、「その言語 でものごとを考えられる、世界を眺めることができる」という ことだ。

 ひとつの言語を思う通りに操れるようになれば、他の言語を学ぶ時に も有利に働く。プログラミングの〈モデル〉、コンピュータの〈モデル〉 が形成されるからではないかと思う。新しい言語に対してもそれからの 類推が利くのだ。逆に、ひとつの言語にそれくらい親しむこともなしに 複数の言語を自在に操ることはできないのではないかと考えている(プ ログラム言語の話です)。

 C、Awkなどいくつかの言語の開発に貢献したカーニハンという人が言 うには、「プログラム言語習得の一番の近道は、それでプログラムを書 いてみること」だそうだ(熟練者なら誰だって言うことだが)。

 ほかの自然言語は判らないが、エスペラント語についてはこれは当たっ ているように思う。自分で書いてみようと思う、書けそうな気がするレ ベルに達するのがたやすいのだ。

 文を書く、という能動的な体験をすると、受容するだけの立場では見 えないことがたくさん見える。不足しているものがあれば即座に自分に 跳ね返る。判ったつもりでいても判っていないことが、すぐに明らかに なる「あれ、こういう書き方でいいのかな」「これはコンパイル通るの かな」と思うところがぽろぽろ出てくる(もちろん、「話す」という能 動的体験も大切だろうが、独習ではなかなか話す機会に恵まれない)。

 そんなことを繰り返すうちに、その言語の輪郭が、受け止めているだ けの頃とはまた違った形、違った感じで自分の中に描かれてくる。よう な気がする。そうなったらしめたもの、かどうかは判らない。しかしそ の言語の自分なりの〈輪郭〉というか、やはり〈モデル〉かな、それを 形作るのは悪いことではないだろう。

 念のため、もちろんプログラム言語でも「人のプログラムを読む、そ れもできれば優れたプログラマーの書いたコードを読む」ことは大切な 訓練だ。

 人のプログラムを読み解くことにはいくつもの意義がある。よりよい 書き方(作法といったことも含めて)を学ぶ、プログラムデザインを学 ぶ、システムデザインを学ぶ、発想を学ぶ、コーディングの技術を学ぶ、 自分以外の人の流儀を知ることで自分の流儀を相対化する、……。プロ グラミングの腕が悪い人は、たいてい読む訓練ができてないとみていい。

どんなことば?

 〈人工言語〉〈国際語〉ということで名前だけは有名ですが(確かゴ ルゴ13はエスペラント語にも堪能じゃなかったっけ)、その〈正体〉は なかなか知られていないようです。散歩の途中でこのページに迷い込ん でしまった人のために、簡単な紹介をしてみましょう。

 ことばというのは普通、民族とか部族とかいったある集まりを単位に 長い時間をかけてある面自然発生的に、ある面無意識的に、ある面意識 的に形成されるのに対し、構文規則と語彙を人為的に定めているので、 〈人工言語〉といわれます。

 エスペラント語は「既存の言語から構文や語彙を抽出する」という方 法で形成されています。抽出対象はラテン語系(ロマンス語系)の諸語 が中心だったようです。

 いわゆるローマ字で綴り、読む、その意味ではヨーロッパ風のことば です。「日本語をローマ字で読み書きしようという人たちもいるぞ。だっ たら日本語も『その意味ではヨーロッパ風のことば』か」などとまぜっ 返さないでください。

 アルファベット(字母)は28文字。英語のアルファベットと比べると Q, W, X, Yがなく、代わりに独自の文字が6つ含まれています。コンピュー ター的に見ると、この6つの文字は当然ASCII文字集合にはなく、 ISO-8859-1 で拾われたかというと拾われず、ISO-8859-3(通称 Latin-3)にやっと入りました。

 コンピューター上で文字を扱うときの概念として、「文字集合」とい うものが国際規格に定められています。

 数値と文字の対応づけを取り決めたものですが、取り決め、約束ごと に過ぎませんから、対応づけは考え方次第でいろいろあり得ます。ISO では概ね民族語ごとにその民族語で使われる文字をひとまとめにして文 字集合を定めています。ラテン語系諸語にはラテン文字の文字集合、ロ シア語にはキリル文字の文字集合、など。それぞれの文字集合は互いに 独立であり、文字集合が違えば同じ数値でも違う文字を表しているとさ れます。日本語の文字集合では1は「あ」だけれど、英語の文字集合で は1が「a」を表しているといった塩梅です。

 複数の文字集合は「シフト」という概念で共存可能です。文章のある 部分では日本語の文字集合(「1は“あ”」)だけれど、別の部分で英 語の文字集合に「シフト」すれば、その部分は英語を表すと見なすので す(「ここでは1は“a”」)。

 複数の文字集合を扱えるようにする(「シフト」を許容する)かどう かはプログラムの実装次第ですが、現在のところ、ASCIIと自国語以外 のことばの文字集合にも対応できるような面倒見のいいソフトウェアは そんなに多くはありません。同一文書(ファイル)内で混在可能なもの となるとかなり寂しい状況だと思います。しかも、プログラムは処理で きても、その文字集合の文字を表示できるか、または入力できるか、と なるとまた別の問題が持ち上がります。

 (ちなみに、「すべての文字集合をまとめて一通りの数値で表しちゃ え」という考え方もあって、それがユニコード(Unicode)と呼ばれるも のです。一見便利で合理的に思えるけれどこれはこれで問題を抱えてい ると考える人たちもいます)

 話が逸れました。「独自の文字」は、具体的にはローマ字に「字上符 (supersigno)」と呼ばれる記号を付加したものです。山型というかブー メラン型の記号で、フランス語のアクサン・シルコンフレクス、日本語 ローマ字の長音記号に似ています。

 ご覧のウェブページは日本語で書かれていますが、ウェブ(HTTP, HTML)上で「日本語文字コードとLatin-3文字コードが混在した文書」と いうのが許されるのかどうかというと、仕様から見てだめでしょう。ま た日本語文字コードというのは日本語を表すためのもののくせになぜか ローマ字の長音も表記できません(これはよく考えるとすごいことです よね)。

 今のところぼくは、ASCII文字集合の範囲内で 表記できる「代用表記」と呼ばれる記法を使っています。いろいろ な流儀がありますが、ぼくのは「cx/ux」型です(一時は「ch/uh」型に してみたけれど、戻りました)。

 以下にエスペラント語のアルファベットを代用表記で示します。

文字 読み 文字 読み 文字 読み 文字 読み
A, a G, g K, k S, s
B, b Gx, gxヂョ L, l Sx, sxショ
C, c ツォ H, h M, m T, t
Cx, cxチョ Hx, hx N, n U, u
D, d I, i O, o Ux, ux
E, e J, j P, p V, v ヴォ
F, f フォ Jx, jxジョ R, r Z, z

 各文字の読みはその文字の「名前」です。母音の場合、「名前」はそ のまま発音でもあります。子音の場合、「名前」から「o」の音を取り去っ た音が子音の音となります。ただしここに挙げたのは疑似的な「音」で、 正しくありません。詳しくは入門書に当たってください。

 これらの文字が表す音以外の音はなく、これらの文字がどんな並びで 現れようと発音は変わりません。「c」は常に「c」の発音をし、ほかの 字も同様です。また、並びの中の字は必ず発音されます(「一字一音」 というそうです)。つまり、初めて見る綴りであっても、意味は判らな くとも「声に出して読む」ことはできます。逆に、音を聞けばそれを字 に書き表すことができます。

 英語では th とか ch とかのように同じ綴りの発音が語によって違っ たりしますし、フランス語には「有音のh」と「無音のh」があったりし ます。すでにアルファベットにそれが表れていますね。英語のアルファ ベットの「A」は「エィ」と読みますが、綴りの中では実にさまざまな 音を表します。そういう事態はエスペラント語では起こりません。

 これは特に初学者には助かるでしょう。見知らぬ言語(文字、綴り) に接して何が困るといって、「それをどう読んでいいのか判らない」ほ ど困ることはないのではないでしょうか。音に変換できなければ、その 文字や綴りは一挙に「あのあれ」「こんな形をしたあの文字」「いや、 ここんとこがこんな風に跳ねてて」「そうそう」「いやいやこういう綴 りで」「そうだっけ?」というような表現や会話に転換されてしまいま す。初めて見た漢字をどう発音するのか判らなくて、辞書を引こうにも 引けなかった記憶は誰にもあることでしょう。

 アクセントは〈強弱〉型で、最後から2番目の音節にアクセントがあ ります。

 文法は16条からなります。これはサッカーの競技規則の数とほぼ同じ です。サッカーと違い、オフサイドはありません。

 サッカーが競技規則を憶えればすぐに試合をできるわけではないのと 同じで、この16条を丸暗記したからといってすぐ読み書きペラペラにな るわけではありません。ただこの16条はいずれも単純で、また全体とし て規則的に構成されています。判りづらいオフサイドもないし。とはい え、文法が簡単だということは、試合中に立ち現れるさまざまな個別の 事象はすべてレフェリーの判断に委ねられるということです。

 文法が単純だからといって、競技規則に書いていないようなことをし てもいいというわけではありません。非紳士淑女的な行為、破格の文、 意味が曖昧になるような文は、嫌がられ、批判され、場合によっては警 告が出されます。目に余る逸脱をした場合、使用者は即時退場となり、 一試合以上の出場停止処分を受けます。

 先に記したように、文法はまったく独自に構築したのではなくて既存 の民族語を参考にして作られているので、あっっと驚くような代物では ありません。一見して感じられる輪郭は英語やフランス語のそれに似て います。文の中のことばの並びは{主語・述語・目的語(補語)}とい う並びが普通です。が、{主語・目的語(補語)・述語}とか{目的語 (補語)・述語・主語}とかいう並びも構文上可能で、実際にそういう 文もしばしば見かけます。さらに「無主語文」という構文もあり、これ らは見ようによっては日本語っぽい感じもします。

 文法上の性はありません。名詞と形容詞は単数形/複数形の変化をし ますが、変化は極めて規則的で単純です。後述するように「格変化」と いうものもありますが、この変化も単純で安定しています。

 不定冠詞はなく、定冠詞が一種類あるきりです。

 動詞は「法」と「時制」によって変化しますが、やはり簡単で規則正 しいものです。人称による変化はありません。

 なお、悪夢の関係詞(関係代名詞、関係副詞など)もちゃんとありま す。

 下敷になったラテン語(ロマンス語)系諸民族語との大きな違いは、 「品詞によって語尾の形が定まっている」「語尾変化には例外がない」 ことでしょう。また、指示詞、疑問詞、関係詞の語形もまたみごとにき れいに整えられています。これらは実に規則正しくて、「ああ、〈人工 言語〉なんだな」としみじみ感じさせてくれます。

 語彙の多くはラテン語系(ロマンス語系)の諸語から採集されており、 英語の単語に見かけの似た語も数多くあります。その点、英語を少し知っ ていればなじみやすいと言えます。フランス語も知っているとさらに都 合がいいような気もします。ラテン語を勉強しておくとなおいいかも知 れません(笑)。もちろん、英語ではないわけだから、類推の利かない 部分もあります。似ている単語でも意味が違うということも多多ありま す。でも、その違いもまた刺戟になるものだし、違いが判ることも言語 を学ぶ面白さのひとつです。

エスペラント語って……(1)

 名詞と形容詞には「格変化」ということが起こる。ヨーロッパ系の民 族語にはこの手の言語がいくつかあるそうだが、ぼくにとっては初めて の出逢いで、大いにとまどった(英語にはなかった筈だし、フランス語 にも、確か、なかったと思う)。

 格というのは、日本語辞典によれば「そのことばが、文中でほかのこ とば、特に述語に対して持つ意味的な関係」ということだそうだ。日本 語では格助詞を用いて格を示すが、「格変化」をする言語では、 語形を変えることで示す。「格の違いを見せる」という言い回しはここ から起こった(うそ)。

 「格」の種類は言語によって異なるようで、4つある言語もあれば6つ ある言語もあり、凄いものでは128とか256とか、まぁそれはぼくのでた らめだが(最大で20くらいらしい)、そういう格の変化に加えてさらに 人称、数、法や時制による変化も加わるから、そのバリエーションたる や想像を絶する。日本人に生まれてよかった。でも母語話者は何の苦も なく習得しているに違いないのだ。母語って不思議です。

 さいわい、エスペラント語ではこれも単純化されており、「名格」 (辞書に載っている〈ふつう〉の形)と「対格」(主として目的語とし て働く場合の語形)とのふたつしかない。しかもこれもまた規則的であ る上に例外がない。のだが、そーゆうものに慣れていない人間にとって はこれだけでもけっこー大変だった。

 まず、文が読めない(ぉぃぉぃ)。対格のおかげで目的語は動詞の前 に出られるのだが、おかげで読む方の頭は混乱する。語順に自由が利け ばいいというものではないのだ(もちろん、利かなければいいというも のでもないだろう)。

 次に、当然のこととして、自分で文を書く時に間違える。名格と対格 とでは文の意味ががらりと変わったりそもそも文が成り立たなかったり する。

 第三に、名詞の格が形容詞を引き連れる。つまり名詞が対格ならそれ に係る形容詞も対格にしなければならない(「格の一致」という)。こ れをしないと「格の不一致」という事態になる。当たり前である。当た り前なのだが、このために意味が通らなかったりおかしくなったりする。 ちなみに某国にあるのは「核のスイッチ」(つまんない)。

 「格」に慣れるかどうか(といっても名格は〈通常の形〉だから、格 変化は一種類しかないのだが)が、エスペラント語習得の第一の壁かも 知れない。格変化がなく語順が決まってしまっている方が憶えるのに楽 は楽だろう。

エスペラント語って……(2)

 「文法が簡単で規則的」と言われる。「だから(ほかの自然言語に比 べて)学ぶのが容易」と言われる。

 文法の根幹(構文規則)が単純であることは間違いない。ぼくはザメ ンホフが定めた原典を見たわけではないが、なんといったって16個の規 則しかなく、ひとつひとつは平易で簡潔であり、それらが規則的に構成 されている。しかもオフサイドがない(もういいって)。そう、構 成されている。きれいにデザインされているといっていい。

 先日久しぶりにフランス語文法の教科書をちらりと覗いたら、その章 や節の多さに驚いた(「第2群規則動詞」ってどんなのだったっけ)。 基本規則が16個というのは、奇蹟的な少さと言っていいのではないだろ うか。

 その点、文法を憶えるのが容易であるのはほぼ間違いないと思う。歯 切れが悪いのは、英語やフランス語といった民族語を多少なりとも知っ ているとそのことが有利に働く可能性もあるからで、「簡単で例外のな い規則」自体がそれ単独でどれだけ習得を助けているのかはぼくには何 とも言えない。

 もしこれから勉強しようと思っている人がいたら、「規則的」「簡単」 というお題目には期待し過ぎない方がいいと忠告するだろう。数が少な くて規則的だからといって「時間をかけずにたやすく習熟でき る」「何の苦労もなくものにできる」ことにはならない。

 「16条」には文を生成したり解釈したりするためのごく基本的なもの しか含まれていない。最低限の構文規則と意味規則というべきもので、 これらから正しい形の文を導出することはできるだろうが、「よい形の 文」を作れる保証はない。コンパイルを通るからといって、バグがない ことにはならないのだ。「よい形の文」をつくるための意味規則、用法 を含めたら、文法はそれなりの量になる。そしてけっこう曖昧だったり 矛盾していたりするところがあると、ぼくは感じている。

それが「欠点」だと言いたいのではない。当たり前のことだと 思っている。それが自然言語というものだ。「簡単」「規則的」 「論理的」ということばを過大評価することはない、と言いた いだけだ。

 ここでは深く述べないけれど、「文法(構文)が簡単」ということは 別の部分に負担をかけているということなのではないだろうか。そう考 えると、構文規則が16個では少な過ぎるのではないかという気もする。 もしかしたらエスペラントはある意味自然言語界のLispなのかも知れな い(^^)

 ともあれ、用法や意味規則は民族語が複雑であるのと同じく複雑であ り、〈きちんと〉身につけるにはそれなりに時間がかかるというのが現 在の感想だ(それでもやはり他の自然言語に比べれば簡単、なのかも知 れないにせよ)。

エスペラント語って……(その3)

 接辞(接頭辞、接尾辞)というのは日本語にもあるし英語にもある。 きっとどんな言語にもある、言語(語彙)を拡張するための一般的な仕 組なのだろう。

 エスペラント語はそれを組織的かつ大大的に採り入れ実行している。 接辞を使って意味を派生させたり、品詞語尾をつけ替えて品詞変換させ たりするということが、かなり自由にできる。また二つ以上の語を連結 して語を生成ないし合成することもできる。この造語の仕組と造語能力 の高さはとても興味深く面白いものに映った。

 いざ勉強にかかってみると、凄まじいまでに接辞が飛び交うは、二重 三重の合成はあるはで、何が何だかわけが判らない。実はあまりいい仕 組じゃないんじゃないかと思った。もともと接頭辞ではない筈の前置詞 や副詞も当然のような顔をして接辞になり済ましている。逆に、接辞を はじめ前置詞や副詞が形容詞になったり名詞になったり動詞になったり もする。自由奔放ということばが浮かぶ。

 次第に慣れてきて、接辞や前置詞、副詞をある程度憶えたら、ある日 突然、文章の中に見知らぬ綴りが出てきてもいくらか推量がきくように なった。そうなってみると、この仕組、造語力はやっぱり強力で弾力に 富んでいて面白いと思う。

 これからエスペラント語を勉強しようと思っている方がいらっしゃっ たら、まず接辞、前置詞、副詞(本来副詞と呼ばれるもの)を暗記する ことをお勧めしたい。全部で100個に近い量になると思うが、これらと その派生語を憶えればそれだけでもエスペラント語の仕組は理解できる と思います。

 ただ、「そういう仕組があるから単語をたくさん憶える必要がない」 「単語を10憶えればそれは30、100憶えたのと同じだ」などといった宣 伝文句も目にした記憶があるが、これは少少言い過ぎではないだろうか。

 確かに接辞などで合成された語は基本となる語根から類推することが できるので、まるっきり見知らぬ綴りに比べれば理解しやすいし憶えや すい。これは初学者にはひじょうにうれしい。この仕組は特に基本的な 語彙には浸透しており、たとえば〈左〉という語根はなく「反・右」と いう。〈冷たい/寒い〉という語根はなく「反・熱い」という。あるい は〈走る〉という語根から「外へ・走る⇒走り出る」、「中へ・走る⇒ 走り込む」というように語を導出できる。

 設計者ザメンホフはまさに「単語を憶える労力を減らす」「少ない語 で豊かな表現力を実現する」目的でこういう仕組を導入したらしい。慧 眼というべきだろう。ブレイクスルーってヤツだ。ただし副作用として 単語が長くなる傾向がある。

 しかし、類推は類推であって、同じ接辞がついていたり同じように派 生したりする語であっても、意味の導出の仕方はそれぞれの語で異なる と考えた方がいいように、ぼくには見える。

 「drinki: 酒を飲む」に対して「fordrinki: (財産など)飲み潰す」、 「danki: 感謝する」に対しては「fordanki: 辞退する」(「すっかり 感謝する」ではない)。

 「brili: 輝く、光る」に対して「ekbrili: 輝き始める、きらっと光 る」。「preni: 手にとる」に対しては「ekpreni: つかむ」(「手にと り始める、一瞬手にとる」ではない)。

 ek- という接頭辞は「動作の開始、一瞬の動作」を表すとされるが、 動詞「havi: 持っている」につくと「ekhavi: 手に入れる」だそうだ。 う〜む。

 また、al- という接頭辞は「働きかけ、付加」などを表すとされ、 「paroli: 話す」につくと「alparoli: 話しかける」、「diri: 言う」 につくと「aldiri: 言い足す」。

 「iri: 行く」に他動詞化する機能を持つ接尾辞 -ig-をつけると、 「irigi: 行かせる」。それが、「morti: 死ぬ」に対しては「mortigi: 殺す」となるそうだ。ぼくの感覚では「死なせる」であり、死なせると 殺すとでは意味合いが違う(「故意に殺す」という語は別にあるので、 「死に至らしめる、死ぬのを座視する」という意味の「殺す」なのかも 知れない)。ともあれ結局「mortigi: 殺す」と、個別に憶えることに なる。

 動詞の意味や役割も違う上に接辞自身が多義なんだから当然さと言わ れたら、返すことばはない。いや、ぼくも当然だと思う。それに、派生 された語や合成された語は、その原義は接辞の意味などから類推可能だ としても、自然言語である以上いずれ転義を生じて意味を拡張していく。 そうなったらやはり「単語の意味は、個個に憶える」ということになる 筈だ。

 要するに見慣れぬ綴りに出会った時の理解の手間が少少減る、新しい 単語を記憶する費用が少少安くつく、不安に怯える度合が小さい、とい う程度のことではないだろうか。

エスペラント語って……(4)

 先に挙げた、接頭辞を使って反意語(「反・〜」)を導くという手法 もかなり強力なものだ。反対語はどの民族語にもあるものだが、エスペ ラント語では機械的に生成できる。「反対語であること」が語の綴りに 明示的に現れる点も興味深い。

 だが、強力な代わりに、この手法は安直な二元論的視点を設定してし まう〈危険〉も含んでいるのではないかと思う。

 たとえば、〈病気〉は「反・健康」というのだが、病気が健康の反対 だとするのは、現在ではものの見方としていささか素朴ではないだろう か。〈卸売〉は「反・小売」で、判るような判らないような感じ。「流 通戦争勃発!」みたいなイメージを喚起させる。根拠はないが (^^)  「卸売が『反・小売』」であって、「小売が『反・ 卸売』」でないのは、流通の末端から逆方向に流通ルートを見ているか らだろうか。〈不透明〉が「反・半透明」というのは、これでいいのか。 なぜ「反・透明」でないのだろう。

 〈左〉を「反・右」としか言えないというのは、やっぱりど うも違和感がある。しかもその「右」という語がもともと長い (dekstra)から、「反・右」はもっと長くなる(maldekstra)。こう いう一番基本的な語は短くして欲しかった。

 〈左〉を表す語根がない、というのは、左利きの人にとってはどうな のだろう。気にする人は気にするんじゃないかと想像しちゃったりもす る。何しろ左利き用の鋏やナイフは手に入りにくかったり、あっても高 価だったりする世界だ。コンピューターの分野でもキーボードやマウス は左利きを無視している。最近でこそOSも対応し、左利き用のマウスも 販売されているけど。ある知合いは「慣れてるから」と平気でさかさか 右利き用マウスを右手で操っていたけど。

 〈左〉派の人たちは厳然たる対立関係のもと非常な緊張を強いられて 暮らすことになる(笑)。「エスペラント語は左利きを差別する言語で ある」と誰かが言い出したら、どうなるのだろうか。100年間そういう 騒ぎが起こったこともなさそうだが(その証拠に今だに「反・右」と言っ て済ましている)、クレームをつけようと思えばつけられるのではない か。ひねくれたい人は「malmaldekstra」「malmalgranda」などと言って みてはいかがだろう。

 〈開く〉が「反・閉じる」というもぼくの感覚からすると逆の方が自 然に思う。

 基本的な語彙を合成語で賄うから意義がある、というのは頷けるもの の、基本語彙は豊富に揃えておいて欲しかったな。

エスペラント語って……(5)

 品詞語尾のつけ替え(品詞変換)、接辞による語の派生という仕組は、 日本語に似ていなくもない。いや、どんな言語にも似ているのかも知れ ない。似ていると強引に思い込んで、つまりエスペラント語を日本語に引き 寄せて理解していく、というのは面白い学び方かも知れない。

 たとえばこんな例はどうだろう。

tagoタゴ日(名詞)
tagaタガ昼間の、日中の、一日の(形容詞)
tageタゲ昼間、日中、一日に(副詞)
cxiutagaチウタガ毎日の(形容詞)
cxiutageチウタゲ毎日(副詞)

 日本語だと助詞をつけるが、その代わりにエスペラント語は語尾をちょ いと変えているわけだ。そういう〈要領〉だと思えば、日本語を母語と する人は学びやすいかも知れない。日本語では「ゆうべ彼女に電話した」 とか「今日は暑い」とか「明日学校に行く」とかという。また「ゆうべ の献立」「今日の気温」「明日の天気」という。そのときの「ゆうべ」 「今日」「明日」が副詞的(名詞以外のものを修飾)、形容詞的(名詞 を修飾)な働きをしていることに気づけば、上のエスペラント語も理解 しやすいのではないか。この比喩が日本語文法から見て正確だとは言い ませんが。

 語の派生はやはり強力な仕組だ。類推が利いてうれしい例を挙げよう。

rido笑い ridego大笑い
ridi笑う ridegi大笑いする
ekridi笑い出す ekridegi???

 ekridegi は「大笑いを始める」、つまり「吹き出す」になるだろう。 これはなんかいい感じですね。

 さて、上のささやかな例から、エスペラント語の仕組の素晴らしさを 窺わせるクイズを出してみましょう。下の空欄には何が入るでしょうか?

rido笑い ridego大笑い
dormo眠り、睡眠 dormego

 正解があるとすれば、「爆睡」かな(爆)。

固有名詞はちょっと切ない

 エスペラント語で「アメリカ合衆国」は Usono というが、これは略 語なのだろうか。『改訂新撰エス和辞典』(日本エスペラント学会)に は、「Usono = Unuigitaj Sxtatoj de Nord-Ameriko」とある。これは、 左辺は右辺の同義語だということなのか、左辺は右辺に由来するという ことか。

 Usonoが正規の名詞(というのもヘンなことばだけど)ならば、こん なのじゃなく上の「長い名前」が正式名称ということにして、略称USA とでもした方がよかったのではないかと思う。英語のUSAと同じ綴りだ からではない。どうせなら意を汲んだ〈訳名〉の方がいいと思うからだ。

 そういえば、略語にも名詞語尾をつけるのだろうか。"JEI"はJapana Esperanto-Instituo(日本エスペラント学会)の頭字語で、固有名詞と 考えられるが、名詞語尾はついていない。語形から見て動詞である可能 性はある(語根 je に動詞語尾 -i のついた形)。

 もちろんこれは冗談。でもエスペラント名詞ならJEIoと表すべきでは ないのだろうか? それとも「頭字語、略語は名詞語尾をつけない」と いう例外規定があるのかな? 公式見解について、どなたか知っている 人がいたら教えてくださるとうれしいです。

 地名や人名は概念写像ということができない。だから固有名詞は原理 的に〈翻訳不可能〉と考えられる。それでもある言語での固有名を別の 言語の綴りと発音で表さなければならなくて、そういう時は無理やり綴 りや音を写し取る。フランスの地名を英語では英語の綴りにして英語読 みするし、その逆もそうだ。日本では韓国の地名人名を現地読み(に似 せた日本語発音)で表記し、その逆もそうだ。これはもう無理があるに 決まっているので、だから「ギョエテとはおれのことかとゲーテ言い」 という句が詠まれたりする。

 エスペラント語の場合は品詞語尾が定まっているという事情もあるか ら、なおさら「エスペラント化」する必然性は理解できる。しかし、な んでもかんでもエスペラント化すればいいというものでもないだろうと ぼくは考えている。コンピューター関連用語は特にそうだ。

 別の文章でも触れたが、コンピューター用語の〈訳語〉では、Lispが Lispoだそうだ。PascalはPaskalo。BasicがBaziko。UnixはUniksoになっ て、ASCIIはAskio。

 辞書を見ると、英語のlispやbasicに相当する語彙はエスペラント語 にあり、それぞれlispo、bazo。そこから上のように〈翻訳〉したとい うことなのだろうか。だが、原義どうしは確かに照応するかも知れない が、プログラム言語の名前としては単に「舌もつれ」とか「基礎的」と かいう意味だけではない。パスカルはフランスの哲学者の名前でもある が、それもやはりPaskaloと綴るのか。

 GNUという知る人ぞ知る世界的なソフトウェアプロジェクトがあり、 その成果物のひとつにGNU Emacsという文書エディターがある。ぼくや ぼくの周囲の人人は「ぐぬー いーまっくす」と発音している。上の例 にならうと、Gnuo Imakso とでもすることになる。GNU Emacsの多言語 化バージョンをMuleといって、MULtilingual Enhancementの略でもあり、 「ロバ」の意味でもある。これはMjuloになるのか、それともAzeoとか か。いずれにしてもそれらはGNU EmacsでもないしMuleでもない、ぼくに 言わせれば。

 「マイクロソフトウィンドウズ(Microsoft Windows)」をMikrosofto Vindozoとする一方、「Xウィンドウシステム」は Fenestrosistemo Xと している。片方が「音訳」で片方が「意訳」と、統一感がない。 「MS-Windowsはウィンドウシステムではない」という主張が籠められて いるなら見識は買うけど(爆)。後者には「X」という、エスペラント 語にない文字が残っている。それならUnixはUnixのままでいいのではな いか?

 たとえばフランス語でどうしているか、中国語ではどうか、といった ことを調べずに書いているので、ずいぶん的外れで乱暴なことを言って いるかも知れない(「フランス語や中国語でしているからエスペラント でもいいのだ」とも思わないが)。

 プログラム言語の名前や、規格の名前、ソフトウェアの名前などは頭 字語である場合がしばしばで、そういうものは綴りを変えたら原義を破 壊する。(中には語呂合わせとしか思えないものもあるにしても)

 ASCIIはAmerican Standard Code for Information Interchangeの頭 字語だ。Askioが原語のこの綴りの逐字訳の頭字語ならば素晴らしいと 思うが、そうではないように見える。

 プログラミング言語であるAlgol, Cobol, Fortlan, Lisp, Prolog, Snobolなどは、厳密には頭字語とは言えないかも知れないが、英語の綴 りの一部をとって名前にしている。文句なしの頭字語としてはAPL, Awk, Basicなど。PL/Iもまあ頭字語と言ってよく、Perlも一応そういう ことになっている。

 プログラミング言語には人名からつけたものもあり、Pascalのほかに はAdaというのが有名だ。TuringとかEuclidというのもある。ほかの命 名法でも何かしらの意図や思い入れがあることがしばしばある。

 上にも挙げたGNU は手が込んでいて、「GNU's Not Unix」の頭字語で ある。あれっ。もとの綴りの中に出てくる「GNU 」はなに? はい、そ れも頭字語で、もとの綴りは「GNU's Not Unix」です。あれっ。そのも との綴りの中に出てくる「GNU 」はなに? はい、それもまた頭字語で、 もとの綴りは「GNU's Not Unix」です。あれっ。(以下気の済むまで繰 り返し)。

 こういうのを再帰頭字語(recursive acronym(英))という。だから GNU(英)をGnuo(エス)に置き換えたら、意味がなくなる。動物のヌーと のみ捉えて訳すのは愚だし、固有名詞のエスペラント化としてGnuoとす るというのだったら、JEIもJEIoとしなければ筋が通らない。

 目を転じれば通信プロトコルの規格は頭字語の世界であって、TCP, IP, FTP, SMTP, POP, HTTP, SNMP, ICMP, ARP, DHCP、などなどなど、 枚挙に暇がない。

 「ネットワーク」という概念語を、エスペラント語の「網」を意味す るreto に訳すのはいい。でもTELNETという通信プロトコルの名前(固 有の名前)を TELRETO とかすると、プロトコルエラーになっても文句 は言えまい。ファイル転送プロトコル全般を表す語として dosier-transmeta (transiriga) protokolo などとするのはいいが(ファ イル転送プロトコルはFTPだけではないので)、FTPをDTPなどと〈翻訳〉 したとしたら、FTPではなくなると思う。

 みなさんはどうお思いだろうか。

 『改訂新撰エス和辞典』(前掲)では、巻末の「エスペラント文法の しおり」に次のような文がある。

ただし人名の田中をTanako などとする必要はない。そのまま Tanakaを使用してよい。

また、大島義夫『エスペラント四週間』(大学書林、ISBN4-475-01016-0) にはこう書かれている。

こういう固有名詞が対格になったばあいは、語尾に 'n または 'on をつけてもよい。また形容詞をつくるばあいには 'a をつける。

いずれも「原則として固有名詞もエスペラント化すべき」という趣旨の 文章の一節なので、我田引水どころか水を引きすぎて本流の水を枯らし てしまいそうだが、このような方法で折り合いをつけられるなら、そう した方がいいと思う。

 初めに「固有名詞や略語の扱い」に触れたが、名詞語尾をつけなくて もいいのなら、ASCIIもBasicも外来の固有名詞として扱うのが理にかなっ ているのではないのだろうか。原語の原義に対応する語があるからといっ てそのまま〈翻訳〉したり、ないからといって逐字訳したり音訳したり するのは止めた方がいいと思う。つまらない混乱を生むだけだからだ。 それなら最初から原語の綴りのまま「輸入」してしまう方が、妙な不統 一がない分ましだ。

 訳すなら、原語の表面上の意味を写像するのはもちろんのこと、頭字 語であればもとの綴りの意味するところも転写し、さらに含意されてい る洒落や遊びや心意気を完璧にエスペラント語に載せ換えるよう努力す るべきだと思う(プログラム言語やソフトウェアの名前にはそういうも のが多いのだ。これは「文化」である)。

 ふたたび国名の話。

 エスペラント語で日本という国は Japanio といい、日本人はjapano という。中国はCxinioで中国人がcxino。あれっと思う人もいるでしょ う。どちらかと言えば「〜人」の方が基本で、「国」は「〜人の住む場 所」みたいな造語になっている。

 日本語での感覚とは逆なので、最初は違和感があった。「国際交流に あっては『国』なんて容れものよりも『人』の方が大切だと考えて、 『人』を表す名詞を優先させ、そこから『国』を導き出すようにしたの かな」なんて、勝手に想像してナットクしかかった。そうしたら、 Usonoのように、国名からusonano(Usonoの構成員)を導出する流儀も ある。こりゃどういうことだろう。

 と思っていたら、ラテン語では、次の二通りの導出方法があるそうだ。

  1. 民族を指すことばから国名(地方名)を生成する。
  2. 国(地方)を指すことばから民族名を生成する。

 ラテン語を直接下敷にしたのかどうかは知らないが、お手本(の源流) がそうなっているからという事情なら、それはそれで納得する。どんな ときにどういう基準でどちらの方法を選ぶのかは定かでないが。

 個人的には、「国名」から「〜人」を導く方が日本語に近いので、う れしい。うれしいと言ったってどうしようもないけど。Usonoのように、 Japanioからjapanianoを生成することは構文上からも意味規則からも誤 りではないし不適切でもないのだから、ちょっと使ってみようかと思っ ている。「日本人の国の構成員」という、いささか変な意味ではあるけ れど、それにはそれなりの意味と使い方がありそうに思う。

「おもちゃ言語」、または「お楽しみ言語」

 改めて(少し冷静になって)考えてみると、エスペラント語を(ある いは〈人工言語〉を)勉強するというのはフシギなことだと思う。

 それが「多数派言語」ならば判る。その言語を使う人が世界中にたく さんいて、政治や経済や文化の交流の場で盛んに使われているなら、単 なる好奇心からであっても勉強することはあるだろう。

 「少数派言語」であっても、自分の仕事や学業や趣味で必要ならば、 どんなに「マイナー」(その言語を修得するために必要な文献や学習手 段が非常に限られている)でも勉強するだろう。

 幸か不幸か、ぼくにとってのエスペラント語はどちらでもない。

 一般的なのかどうか知らないが、「橋渡し言語(pontlingvo)」という ことばがエスペラント語にはあり、ぼくはこれが気に入っている。

 自分なりに愛称というか惹句を考えて思いついたのが「おもちゃ言語 (ludilolingvo)」。〈発明〉のつもりだったけれど、ハッカー用語にあっ た。『ハッカーズ大辞典』(アスキー、ISBN4-7561-0374-X)によれば、 toy languageとは、「(教育目的や理論を操るための道具としては便利 だが)汎用プログラミングには適さない言語」のことだそうだ。

 エスペラント語は上の意味では「おもちゃ」の域を越えていると思う。 だからもっと違うことばを発明するべきなんだろう。でもなんだか語感 がいいので(日本語の、ですが)表題にもしてみた。問題視されるよう なら、「お楽しみ言語(plezurlingvo)」というのも考えてはある。

 「おもちゃのように、楽しみながらあれこれ遊べる言語」「それを使う ことが、おもちゃで遊ぶように楽しく面白い、そんな言語」という意味 だ。

 こういう命名はもしかしたら、エスペラント語(または〈国際共通語〉、 または〈どの民族語でもない言語〉)を切実にあるいは熱烈に欲してい る人たちに、ものすごく失礼なのかも知れないけれど、他意はない。

 独習では回りに会話する相手もいないから、「自発的な馴れ親しみ」 を主に文を書くことで実践することになる。それで適当に思いついたこ とを文にしてみるのだが、知らないこと判らないことだらけだから、 「こんな表現はいいのだろうか」とか「こんなことばはどうか」などと あれこれ試みる。調べてみて納得したり発見したりする。ある程度慣れ て理解が深まれば深まったで、冒険心が湧いてくる。自分なりのことば や言い回しに挑戦してみるのだ(初学者のくせに、いけない学習態度で はある(^^)) そしてエスペラント語はそういう試みが (ぼくにとっては)英語やフランス語よりは気楽にできる言語なのだ。

 一種の〈実験言語〉といった意味合いもある。

 この文章でもちょっぴり紹介したように、エスペラント語の造語能力 は極めて組織的であり、意図的であり、柔軟だ。これが言語表現にもた らす可能性は追及してみたい、と思わないでもないこともないわけでは ない(どっちだ)。やるやらないは別にして。

 エスペラント語自体がひとつの壮大な実験と言えるわけだけれど、そ の中で、エスペラント話者はそれぞれの実験をしているのだと思う。そ うじゃないかも知れないが、差し当たってそう思っていることにしてい る。

 そしてもちろん、実験は楽しくなければならない。やるやらないは別 にして(笑)

 知らなかったことばを知る、判らなかったものが判るようになるとい うのは、とても楽しいことだ。

 勉強を進めていくと、いろいろ疑問も湧いてくる。勉強が進むたびに 疑問は解消されたり甦ったり新たなギモンが生まれたりしている。

 そういうことを含めて、今は読んだり聞いたり書いたりを楽しんでい る。

 もちろん、ある程度学んだら飽きてしまうかも知れないし、隕石の衝 突や何かをきっかけにとつぜん嫌いになってしまうかも知れない。

 何の意味を持つのか、は、もっと後になって判るだろう。



付録・代用表記について

 ウェブ(に限らず、おそらくインターネット全般)上での代用表記に はいくつかの流儀があるので、ここで紹介しておきます。ここに挙げた のがすべてというわけではありません。

表記法実際の表記例説明
ch/uh ch, gh, hh, jh, sh, uh 字上符の代わりにhを添える。
もっとも古い(と思える)記法
^c/~u ^c, ^g, ^h, ^j, ^s, ~u 字上符の代わりに^または~を前置する
c^/u~ c^, g^, h^, j^, s^, u~ 字上符の代わりに^または~を後置する
ウェブでよく見かける
cx/ux cx, gx, hx, jx, sx, ux 字上符の代わりにxを添える
ウェブでよく見かける

付記

(2001.01.18)
 Muleの名称を誤ってExtentionとしていたのを修正しました。



(次回「わたしのエスペラント体験・“夢見る頃を過ぎても”」をお楽しみに)

(2001.08.15)
 Mi ne estas esperantisto, eble.と、 エスペラントでハナモゲラでっす。





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