Mi ne estas Esperantisto, eble.



 「わたしのエスペラント体験・夢見る頃を過ぎても (^^)・その1」です。

 最初は単なる好奇心から始めたエスペラントも、一年が過ぎました。 あれこれ言いながらもけっこうハマっている、というのが正しいでしょ う。まぁかりにも自然言語なんだからすぐに飽きるほど底が浅いもので はないし、そんなに浅くては困ります。少なくとも「ことば好き」の好 奇心を掻き立てるものがあるのは間違いなさそうです。

 そしてどうやら今は「この言語について語るのではなく、こ の言語をとにかく使ってみる」段階に入っているようです。ちょ うど一年という「区切りのいい」時期にそういう段階に移れたのもうれ しい。本稿は「語る」時代終了記念です。〈思想〉に興味はないという 人は、遠慮なくこちらへどうぞ。ぼくもそう したいです(^^)

 といっても、ことばである以上学習・勉強はずっと続くわけだし、考 察は日日続くわけだし、折に触れて何か言いたくなることも出てくるか も知れないし。ひと月後にこの言語の悪口雑言を撒き散らしている可能 性すらあります(爆) その点をお含みおきいただきますよう。


*もくじ*

五歳児の知恵熱
ラディカルな言語だから
仲間でなくたっていいじゃないか
ラディカルなのはいいけれど
〈人工言語〉の冒険
言語差別と「公平・中立」
使いたいことばを使えるなら
思想のお邪魔/思想がお邪魔
思想ぎらい
エスペラントに未来はあるか
Mi ne estas Esperantisto, eble.



五歳児の知恵熱

 「知恵熱」というのは、『新明解国語辞典第五版』(三省堂)によれ ば「小児の乳歯が生える頃起こる熱病」ということだが、ぼくには別の 刷り込みがある。「ふだんものを考えない人間が頭を使い過ぎて熱を出 すこと」というような印象があって、ここでの「知恵熱」もそういう意 味で使っている。

 学び始めてふた月も経たないうちに、日記という形でエスペラント文 を書き始めた。いくら何でもその頃にまともな文章など書けない。事実、 後で読み返してみると、綴りの間違いは熟達してもやるとしても語法的 にも文法的にも疑問だらけ、こりゃひどい、思わず顔が熱くなる、とい うしろものである。

 そのとき思っていたのはこういうことだった。人は誰も自分の母語を 学ぶ時、文法や語彙をじゅうぶんに身につけてから徐ろに発話を始める のではない。聞いて憶えたことばをすぐ使ってみる。相手が受け入れて くれればそれは使えるわけだし、間違っていれば回りの人間がヘンな顔 をしたり嗤ったり正したりしてくれる。そうやってことばを身につけて いく。自分は母語を獲得しつつある三歳児と同じなのだ、と。三歳児の 作文だから、片言の羅列だ。たどたどしいに決まっている。でも、それ でいい。

 いまの学習程度は五歳くらいだろう。幼稚園に入るくらいの歳だが、 そんな感じでよそに出かけていってエスペラントで話してみたり、メイ リングリストに入って〈議論〉をしてみたり、エスペラント文でメイル をやりとりしたりしている。何人か知り合いもできた。「人との出会い」 というのが発生しているわけだ。

 人との出会いというものは大なり小なり何かしらのショックをもたら す。ましてこれはエスペラント、さまざまな〈思想〉が渦巻く妖しの世 界である(笑)。強烈な〈シソウ〉やら〈ジッセン〉やら〈ウンドウ〉や らがまるで活火山の溶岩のようにふつふつと泡を立て、流れ出している。 これまで遠くの木の陰からこっそり覗いていた盆踊りの輪の中に突然入っ てしまったようなもので、いや、驚きました。

 幸か不幸か、というか、あいにく、というか、あまたの〈思想光線〉 〈思想ジャンプ〉〈思想キック〉や〈思想ハリケーン〉(なんだ、これ は?)を食らいながら、観察している自分がいる。イヤですね。ぼくは その方面ではちょっぴりは鍛えられており、それどころかある種の〈危 険思想〉(笑)の洗礼すら浴びており、つまり、ころっとマイるほど無邪 気じゃなかった。とはいえジャンプもキックもハリケーン(どんな技な んだろ?)も念仏に腕押し、柳の耳に暖簾でやり過ごすほど人間ができ ているわけでもないので、いちおう受け止めることは受け止める。で、 あれこれ考えを巡らす。それで「知恵熱きぶん」というわけである。

ラディカルな言語だから

 ぼくは「言語差別」に苦しんだり憂えたりした末に国際共通語を希求 したわけでもなく、このクズみたいな現実、やりきれない社会への憤り を経てこの言語の〈公平・中立〉の理念に出会ったわけでもない。ぼく にとってはただのことばだった。勉強を始めて少し経って 「2000年8月15日のエスペラン ト語」を書いたが、そこでも「公平」やら「中立」やらには まっっっっっっっったく触れていない。なにしろ中学生だかの頃にちょっ と齧った時も公平さとか中立性に惹かれたわけではないのだから、年季 が入っている。

 エスペラントを「単なることば」扱いするとまるで自分自身が侮辱さ れたかのようにイキリ立つ人がいるようだ。「いきり立たなくていいん だよ」と言っておきます。なぜかといえば、エスペラントが何かしらの 思想的主張を不可避的に含んでいるのだとしても、同意できない人にとっ てはそんな〈思想〉は存在しないのも同じだ。けれど言語仕様はそうで はない。言語仕様は、思想に同意する人であろうが対立する思想を持つ 人であろうが、まったく関心のない人であろうが、ひとしく存在を確認 でき、共有できるkonkreta(具象)な実在なのだ。そしてエスペラントは 確とした言語仕様をそなえた立派な言語である。特定の思想を前提とす ることなく「ただのことば」と言い切れるということは、言語にとって 大いなる名誉と言っていい。このことはもっと積極的に評価されるべき だと思う。

 それはともかく、これほどまでに「〈思想〉渦巻く(笑)」世界とは思 わなかった。困っちゃうのは、これらの〈思想〉ないし〈思想的言説〉 たちが、ちゃんちゃら笑っちゃうような代物ではなくて、それぞれはい ちいちごもっとも、と頷くことが可能なものばかりだというところであ る。

 「ことばとしてのエスペラント」より思想的主張に共鳴する人がいる のも理解できないではない。これまでまったく縁のなかった人が突然 〈思想光線〉を浴びたら、そのショックたるや想像するに余りある。 「これまでな〜〜〜〜〜〜〜〜んにも考えずに(谷岡ヤスジ調)暮らし てきたけど、世界にはさまざまな問題が山積してるんですねっ。いま目 醒めましたっ。やっぱり世の中の不正は正していかなければイケナイと 思いますっ。わたしも今からウンドウしますっ」みたいな人も、中には いるだろう。それでやおらラジオ体操を始めるならかわいい(しーん)。 もとい。熱心な運動家になったりする。こういう人は案外多いのではな いかと睨んでいる。

 「エスペラントを使うなら思想的背景をきちんと理解してもらわなけ ればならない」「思想性を理解してもらうことなしにこの言語の普及は あり得ない」という人もいる。ぼくは「言語は人間の精神活動の共通下 位基盤」と捉えているので、思想とは切り離して考えることができるし 切り離すべきだと考えている(その方が普及しやすいんじゃないかとも 思っているんだが、どうでしょうか)。でもぼくのこういう考え方はあ まり受け入れられないようだ。ぼくの立場を是とすると、エスペラント に籠められた〈思想〉に真っ向から対立するような人人もこの言語を使 えることになる、そういう連中も同じ〈仲間〉と認めるのか、〈連帯〉 できるのかというわけだ。

仲間でなくたっていいじゃないか

 まぁ、出発点(終着点かな?)からして違うと言ってしまえばそれまで なのだが、ぼくにとって重要なのはこの言語が現実世界の中で然るべき 地位を獲得して、国際補助語として機能す る、すなわち日常のあちこちでいろんな局面でエスペラントを耳にしま た使うようになることなので、その観点からすれば、エスペラントを話 すからといって別に〈仲間〉であったり〈連帯〉したりする必要もない のではないだろうか。いま現在、エスペラント話者が何かと言えば集ま り〈連帯〉しているのはこの言語が普及していないからで、言ってみれ ば世界的に広く行き渡るまでの過渡期的な状態だからである。エスペラ ントの話者人口がある程度以上の規模になれば仲間意識など薄れる一方 だろうし、連帯しようにも多すぎてできない筈だ。

 話者がどのくらいの数になれば普及したと言えるのか、というのは難 しいけれど、これはまさに現在の状態(あちこちで〈仲間〉が〈連帯〉 している)が解消されたことを証拠とするのでいいと思う。自己言及的 な定義だけれど、目安として悪くはあるまい。数値が必要ならば、「総 人口の1パーセント」くらい、世界全体なら6千万人、日本ならば120万 人、割引きして100万人というところでどうだろうか。

 日本の各地にエスペラントのクラブ、ないしサークルがある。いま全 国に100のサークルがあったとしよう (JEI (日本エスペラント学会)の発表では88)。現在の会ひとつ当たりの 会員数は(地域によってばらつきがあるだろうが)せいぜい100人だろ う。月一回の連絡、会報の印刷(コピイ)や発送、などを考えればこれく らいが手弁当で面倒を見られる限界だと思う。サークルの数が増えない と仮定して、サークルひとつ当たり1万人の会員がいる状態を想像して みよう。これで合計100万人規模だ。

 100人規模で通用しているシステムが1万人規模でもスケーラブルに通 用すると思うのはナイーブ過ぎる。会員への連絡を葉書でするとして、 一人で一日に160人分発送手続きを済ませられるとしても(一時間あた り20人×8時間)、1万人捌くには63人日かかる。電子メイルだって1 万 人にメイルを送るには膨大な時間を食う。自前で処理するなら太い回線 と強力なサーバーが必要で、やはりそれなりの経費がかかる。会員情報 を管理するにも何かしらのシステムを組まなければやっていられないが、 1万人相手のシステムを趣味のプログラミングで組むのは自殺行為であ る。既存のパッケージを買うか(コレがまたけっこう高価なのだナ)、 専用システムを発注するか(輪をかけて高価なんだナ)することになる。 会費の管理と運用だって大変だ。年会費ひとり1000円としても一年当た り一千万円の金が動く。これは単なるサークルの域を超えている。きち んと会計し、結果報告をしなければ許されない規模である。だいたい、 会員が1万人ということはちょっとした会合(月例会、勉強会)を開く にも日本武道館くらい借り切らないと場所がないということだ。こんな 状態で、〈仲間〉意識を保ったり、〈連帯感〉を高めたり、行動をとも にできたりするだろうか。

 「話者人口がそれくらいになったら、サークルの数が1万くらいに増 えるのだ」とか、「いや、地域のサークルが今のJEI的な存在になる。 だから地域規模で『エスペラント大会』を開いたり、その規模で連帯を 図っていけばよいのだ」という意見もあるだろう。それはそれで悪くは ないけれど、本末転倒だ。〈仲間〉が欲しくて、〈連帯〉がしたくてエ スペラントをやるわけではないだろう。(あれ、そうなのかな?)

 総元締めのJEIは当然もっと大変で、100万人も会員がいる組織など、 例があるだろうか?(大手インターネット・サービスプロバイダーなら そのくらいはいるか) 「日本エスペラント大会」には100万人の5パー セントとして5万人が集まる。開催地にしてみればワールドカップが一 試合やってくるようなものだ。いずれにせよ大規模組織にふさわしい運 営方式に移行する必要がある。

 「普及する」とは、そういうことだ。そんな規模になって、なおかつ 現在と同じように「大会に行けば知った顔ばかり」「名前を聞けば顔が 浮かぶ」などという状態である筈がない。エスペラント話者どうしの関 係は疎遠になり、外国でエスペラント話者に出会っても「よかった、コ トバが通じる」と思う程度でそれ自体には感動はなく、「今駅前に留学 してエスペラント習ってます」という話を聞いてもふ〜んとしか思わな い。朝のテレビ番組には「エス会話ワンポイントレッスン」なんてコー ナーができる……。普及するとは、そういうことだ。エスペラントを話 すということが何ら特別なことではなくなる世界だ。エスペラ ントということばに何の特別な思い入れもなくなる世界なのだ。

 好き嫌いの話になってしまうが、そもそも「同じ仲間」という発想が 好きではない。自然に似て多様であるのが人間ならば、現実の百万都市 にさまざまな人がいるのと同じように、100万人のエスペラント話者に もさまざまな人がいる筈だし、いて当然だし、いなければおかしい。同 じ日本語を話すからと言って、それだけで〈連帯〉することはなく(もっ とも日本人は異国で群れたがる傾向があるみたいだが)、英語を話す人 がみな同じ価値観を共有しているわけではない。それと同じように、エ スペラントを話す人がみな同じ考え、価値観を共有している、するもん だ、するに違いない、せねばならない、であるとうれしい、というのは ナイーブな幻想と言えよう。(げんざい日本のエスペラント人口は1万 人程度と見積もられているが、これは多様性が生じるには充分な数であ ろう。〈仲間〉〈連帯〉という幻想は既に崩れていておかしくない)

 最初に「出発点(または終着点)が違う」と書いた。〈思想性〉を重視 する人がほんとうに広めたいのは「〈公平・中立〉という思想」あるい は「ザメンホフの思想、理想」であってエスペラントということばでは ないのかもしれないな、などとぼんやり思ったりもする。

 「思想とともに普及することで、全員が同じ思想を共有するのだ」と いう考え、理想を否定する気はない。が、ぼくには、「考えや思想の異 なる人とでもエスペラントをkomunigi(共有)できる」方が素晴らしいよ うに感じられる。エスペラントを使うことで考え方の異なる人どうしが 意見を交換できるなら、それもまたひとつの 「橋渡し」とはいえないだろうか? いえないんだろうな (^^)

ラディカルなのはいいけれど

 エスペラントを〈思想〉が取り巻いているのはこの言語にとって〈い い〉ことだったのか、どうなのか。

 ザメンホフは「世界中の、母語を異にする人人が同じ立場で意思疎通 できるように」とエスペラントを創案したという。「国際補助語」 とか「橋渡し言語(橋渡し語)」と称 されている。前者は国際的な意思疎通の局面で補助となる言語という意 味であり、後者は異なる母語、異なる民族性の間に橋をかける言語とい う意味がこめられている。こうした考え方にはぼくも賛意を惜しまない。 ぼくとしてはその程度に留めておいて欲しいとさえ思う。

 が、これでは留まってくれないようなのだった。

 ここには「公平、平等」という観念が潜んでいる。いくら橋を架けて くれても、こちらから向こう岸に渡るのに大変な苦労をするようでは意 味がない。いくら補助の役を果たしてくれても、誰かが暴利を貪るよう ではうれしくない、というわけである。

 そして〈平等〉は今やあまりに根源的なテーゼであるが故に、社会の さまざまなレベル、さまざまな領域に適用できてしまう。そのためか、 この言語に付随してさまざまな〈思想〉が飛び交っている。また、「国 や民族を超えて」という発想から「世界市民」「地球市民」という観念 が降りてくる。「この言語を話す者はこの言語に付随する思想たちに共 鳴している筈であり、仲間として連帯できるのでなければならない」と いう信念も、エスペラントが〈単なる人工言語〉ではなくその背景に強 烈な〈思想〉を持っているからなんだろう。

 しかし、ザメンホフが民族間国家間の平和への希望や公平や平等への 願いを抱いていたにせよ、超国家的な理想を持っていたにせよ、それは ザメンホフ個人の思いに過ぎない。それに共鳴するのも自由だけれど、 共鳴しないのも自由だろう。〈思想〉に共感しないからといって言語仕 様に共感しないということはないし、〈思想〉に共鳴できないなら使う なというのもおかしな話だ(おかしくないのかも知れないけれど)。

 この辺り、いったいほかの〈人工言語〉たちの共同体はどうなってい るのか知りたいものである。〈人造的な自然言語〉であるということ自 体が、ある種の思想を内包するのだろうか。ほかのことばたちも、おそ らくは同じような思いからそれぞれ創案されたのに違いないし、設計思 想からしてそのような言語は自ずと国や民族を超えようとする、そうい う傾向が内在する、とは言えると思う。ではすべての〈人工言語〉はみ な同じような〈思想〉に取り巻かれているのかどうか。それとも、エス ペラントのこの状況はエスペラントに固有のものなのか。

もしどの言語も〈公平・平等・中立〉といったことを謳っているのだっ たら、どうしてまるで流派に分かれて競うようなことをするんだ? 目 指すところは同じなんだろう?

 もしこうした言語に〈思想〉が不可避的にとりつくものならば、「国 際共通語」「国際補助語」「世界語」なんでもいいけれど、その実現は ムズカシイのではないかと思ったりもする。ことばは思想に仕えるもの ではないからだ。言語で思想は規定できるが、言語は思想に規定される ものではないからだ。

 〈思想〉の裏打ちがなければ、「国際補助語」は成り立たないのだろ うか。〈公平・平等・中立〉にとことんこだわらなければ「国際共通語」 にはなれないのだろうか。『国際語思想の本質と将来(Esenco kaj estonteco de la lingvo internacia)』と題された文章でザメンホフが 言っていることは相当程度「当たってる」とは思うが、それのみを立脚 点とする必要もないのではないか。人類が「半ば無意識に築いてきた 〈民族語〉とは異なる自然言語」を手に入れたというのがスゴイことだ とぼくは考えているし、この事実は〈思想〉なんかとは独立して意義と 価値があると思っているのだが。

〈人工言語〉の冒険

 〈人工〉という語の使い方についておさらいをしておく。

 言語を「自然言語」と「人工言語」とに分ける分け方がある。これは 「自然発生的に形成された言語」かどうかによって分類するということ なんだろうが、ぼくはこの見方をとらない。

 もうひとつ、「自然言語」と「形式言語」という対比のさせ方がある。 これは言ってみれば「自然界で使われている言語」かどうか、「形式的 に定義可能な言語」かどうかによって分類する方法であって、ぼくには この対比の方が馴染み深い。この見方からは、エスペラントなどは紛れ もない自然言語、どうしようもないほど自然言語であると言える。

 そういうわけで、ぼくの文章の中では「民族語(半ば無意識に形成さ れてきた自然言語)」に対峙する意味で〈人工言語〉ということばが使 われる。「人工的な自然言語、人為的にデザインされた」という意味で ある。

 人工ということばを嫌って「計画言語」という語を使う人もいるらし い。民族語の無意識的無自覚的形成過程に対して、意識的意図的に形成 されてきた点を強調するわけである。これは悪いことばではないと思う けれど、なんだか差別語の言い換えと同じ要領に見える。

 さて、〈人工言語〉、既存のどの民族語でもない自然言語の見方は大 きくふたつあると思う。ひとつは、エスペラントがそう主張しているよ うに、「平等」「中立」という属性を重視する見方。もうひとつは、 「人工性」という属性を重視する見方。

 エスペラントの立場は「人工だから〈公平〉であり〈中立〉なのだ」 ということだが、「エスペラ ント語雑感(2001年1月)」でも述べたように、エスペラントの「公 平さ・中立さ」はせいぜい引用符つきで使う程度のものでしかないとぼ くは見ている。(まったく不公平ということはない、念のため)

「人工である=公平・中立である」というのが幻想であることは、不公 平・非中立な〈人工言語〉などいくらでも想像できることから判るし、 「計画言語」という語を用いるともっと鮮明になる。「計画的であるこ と」は、「公平・中立であること」の十分条件ではない。「公平・中立 であるように計画されたのだ」と主張することはできるが、そうである ならその「計画」の公平性がキビシク追及されないとおかしい。
いずれにせよ「公平・中立」の定義域が問題になるが、エスペラントが デザインされた当時における定義域と現代における定義域とにずれがあ る以上、無条件に「この言語は公平・中立だ」などとは言えな い筈だ。

 〈公平・中立〉を謳いながらエスペラント自体は大して〈公平〉でも 〈中立〉でもないとゆーのは困ったものだが、言語なんてどうせもとも とそーゆーものなんだし、「ほどほどの公平、ほどほどの中立」で手を 打つことにしてはどーだろーか、などとフマジメなぼくは思うのだ。つ まり、もうちょっと〈人工性〉のよさを、〈公平〉とかいうスローガン とは無関係な「人工であること」の意義を考えてみてもいいのではない だろうか。

 次の節の主題だけれど、とあ る民族語が政治経済的なりゆきで「国際共通語」然と振舞うのを、ぼく 個人は決して望ましいとか好ましいとかは思っていない。それよりは 〈人工言語〉を採用した方が、人類の今後のためには有益なのではない かと思っている(エスペラントを使ってみている理由のひとつである)。

 ことばが人類の財産であるとするなら、全人類の共有財産としての言 語には何が数えられるだろう。民族語は、すべてを含めるか、何も含め ないかだろう。これまでのところ言語というものは国家とか民族とかと 分かち難く結びついており、時には民族や個人のアイデンティティに深 く関わったりもしてきた。だから民族の財産ではあっても全人類の共有 財産とは言い難いと考えれば何も含まれない。だが〈人工言語〉にはそ のようなつながりも関わりもない。〈人工言語〉こそ、全人類が合意し 得る最小公倍数的共有財産にふさわしい――と、まぁ、理屈をこねれば こんな感じだろうか。

 この観点は〈公平〉とか〈中立〉とかいうスローガンとは大して関係 がない。むしろ、そうしたことがらとは独立して考えることができる点 で優れている。別に〈不・公平〉な言語であっても、〈非・中立〉であっ ても、そんなことには関係なく、「人為的にデザインされた自然言語」 であるという一点で、それは民族を超えて共有される資格のあるものな のであり、人類の「補助語」とするにふさわしい。これならエスペラン トの「不・公平さ」「非・中立さ」も許容できるじゃないか! われな がらすばらしい着眼ですわ(爆)

 「じゃあ数多ある〈人工言語〉の中からなぜエスペラントなのだ」と 言われたら、今のぼくは、「曲がりなりにも百年以上生き延びてきて、 それなりの蓄積があるし、今なお世界で相当数(100万人程度といわれる) の話者がいるから」と、答えておこう。〈人工言語〉たちの間で言語仕 様や付随する〈思想〉の優劣を論じても始まらないので―― 「〈人工言語〉の宗教戦争」「エスペラ ント語雑感(2001年1月)」参照――、ここは言語間の自由競争と淘 汰に任せるのが公平で民主的な態度だと言えよう。よい人工言語が生き 延びるのではなく、生き延びたのがよい人工言語なのだ。

これはプログラム言語にもいえるので、よい思想とよいデザインを持ち ながら普及に伸び悩んだり忘れ去られたりした言語は数多い。その逆に、 大していいところもないのに単に「広く使われている」というだけの理 由で幅を利かせている言語もある。

 もっとも、こんな考えが広く受け入れられる筈はない。なぜならこの 考え方は何のご利益も、心の平穏ももたらさない。だから熱狂 的な支持者がいる筈もない。従って熱烈な運動も起こりようがない。そ れでも、こういう考え方の方が、ぼくの性には合っているようだ。

言語差別と「公平・中立」

 英語が「国際共通語」然と振舞っている現状を「言語帝国主義」「言 語差別」と断じ、これを排しよう、改めようとする立場がある。エスペ ラントを支持する立場の中でもっとも一般的なものである(と思う)。

 実は、ぼくはこれに馴染めないでいる。別に英語を偏愛しているとい うことではない。「言語差別」という考え方に馴染めない。正確に言え ば、双手を上げて賛成する気にならない、このことばにわっと飛びつく 前に考えたい気にさせられる。

 たしかに、そういうことばで言い当てられる状況はあるのだろう。ど んな言語を使うのでも、母語としている人(母語話者、なんていう)の 方が後から学ぶ人よりも圧倒的に有利である。非母語話者がその言語を ものにするには長い時間と(習得方法によっては)莫大な資金が必要であ り、しかもそれでもなお母語話者と同程度に習得できる保証はない、と 言われている(これは英語だけでなく、どんな民族語にも当てはまる)。 このことを踏まえて英語の現在の力具合を見ると、母語話者と非母語話 者とで「機会の不平等」が生じる可能性があるし、ひいては経済格差な どをもたらす可能性もある、とされている。

 母語話者と非母語話者を隔てているのは、本人の意志とか努力とかに は全く関係のない、単に「そのように生まれ育ったかどうか」の違いで しかない。それでこのような差があるのは差別ではないか、というわけ だ。確かに、ウェブなどで情報を収集しようとすると、貴重な情報源な のだが英語で書かれており、読むのを諦めるか、読めても膨大な時間を 費してしまうことがある。そんなとき「ネイティブスピーカーだったら こんなのさらりと読めるんだろうに」と思ったりもする。

 しかし、開き直って「とある民族語が『国際共通語』になったってい いじゃないか」という考え方を仮設してみることもできる。(筆者がこ のように考えているというわけではない。みんなが自明としているもの ごとに、もう一度疑問の光を当てているだけだ。誤解のないよう)

 たとえば、母語話者が圧倒的に有利になるのだとしても、それはそれ でいいじゃないか、単に英語を母語とするその「生まれ」だけで有利に なるのは許してあげましょう、という考え方。慈悲に溢れまくっている わけである(笑)。 それで英語を主な使用言語とする国、はっきり言えばアメリカ合衆国が 強大な影響力を振るったっていいではないか、世界のリーダーの重荷を 背負わせておけばいいではないか、という考え方。 「みんな、これから英語をばりばり使おうじゃねぇか、そうでなきゃ長 屋を追い出されちまわぁ。なーに、そうしていりゃうまい話にありつく 割合も増えるってもんだ。なぁ熊さん」という態度。別に突拍子もない ものではなく、日本で英語学校がこんなに繁盛しているのはそれだから ですよね。「アメリカに行きたい」「六本木でナンパしたいされたい」 「学べば何かいいことがある」などと。

 こうした考え方の何がまずいのか? 「差別」とされるのは、先天的 な事情から「不当な利益不利益」が生じているからだという。では、そ れを受け入れてしまうなら、「差別」ではなくなるのではないか? 差 別を受けているとされる側が「先天的な差なんだもん、しょーがないじゃ ん」と言ったらどうなるのか。

 英語母語話者は大した努力もなしに英語世界で有利な地位を占めたり 莫大な収入を得たり文明を享受できるのかも知れない。非英語母語話者 は有利な地位や莫大な収入を得るのにも多大な努力が必要でありあるい はそれにも拘らず地位も収入も手に入らないのかも知れない。でも、別 にそれだっていいじゃないか。英語で勝負をしなければならない世界に、 すべての人間が属しているわけではないだろう。確かに、英語以外のど の点をとっても自分よりも劣っている人間が、英語を母語とするという だけで自分よりも高い位置にいるのを見るのは、気持のいいことではな いかも知れない。だが、それが人生ってものだし、世の中ってものだし、 現実ってものではないか。

 イヤ、こういう観点はどうあっても受け入れられる筈がない(爆)。 観点を変えてみよう。

 英語が「国際語」然と振舞う。英語母語話者は特権的な地位を占め、 非英語母語話者は喘ぎながら英語を習得する。この状況を逆手に取って しまうことは考えられないだろうか。英語母語話者の人口は、『あえて 英語公用語論』(船橋洋一、文春新書、ISBN4-16-660122-9)によれば、 3億7700万人だそうだ。非英語母語話者の方が圧倒的に多いのだ。こと ばの「正しさ、正確さ、きれいさ、流暢さ」の判断基準なんてどうせ相 対的で流動的なものだから、「非英語母語話者用法」とでもいうべきも のをがんがん流通させれば、母語話者だからといっていばるのがおかし いということにもなる。みんなで堂堂と非母語話者らしく話せばいいで はないか。それを嗤う方がおかしいのだ。そうしていくうちに、英語も どんどん変質していくだろう。いつか学びやすい言語になってくれれば、 それでもいいと言えるのではないか……

 〈公平・中立〉というけれど、それによってわれわれにもたらされる のは何なのか? べつにこのスローガンに反対するわけではないが―― そういう単純な二項対立じゃないんです――、「別に公平でなくたって いいよ」と言われたら、返すことばがないのではないか。

 英語が現在のような影響力、支配力を持つようになったのは、ひとえ に政治経済方面の力関係ゆえだろう。過去の「国際語」と同じように英 語もまたいずれは現在の地位を滑り落ちるかも知れないが、それはやは り政治経済方面の力関係によるのだろう。それは現実である。政治経済 の複雑怪奇百鬼夜行魑魅魍魎に立ち向かうのに、生真面目な正攻法だけ ではいかにも心許ない気がする。

 ところで「言語差別」も問題だとしても、日本では「英語被差別願望」 というか「英語マゾヒズム」とでも言えるような傾向が見られるけれど、 これを何とかするのが先決なんじゃないかと思う。

 テレビのクイズ番組やバラエティ番組、時にはニュースショウなんか で、街を行く人人にカメラとマイクを向け、例題となる日本語の文を挙 げて英語でなんて言うかを答えさせる、といったコーナーがあったりす る。これらのコーナーは、体裁はどうあれ実情は、街を行く日本人がい かに英語を知らないか、話せないか、発音が悪いかを見せることを目的 にしている。答える人たちも、ちゃんとした英語表現ができないことを 恥じたり、恥じるのでなければおちゃらけたり一緒になって笑ったりし ている。放送する側も視聴者を笑わせようとしているし、見ている人も 笑う。あれを見るとぼくはなんだか哀しくなってチャンネルを変えてし まう。時にはそういうコーナーがあるというだけで番組全体が嫌いにな ることもある。

 一方で「英語崇拝」と批判される状況があって、他方、それと表裏一 体をなすみたいに、英語に対してヒクツになってみせる状況がある。こ ういう傾向がある限り、「言語差別反対」なんて叫んでも、多くの日本 人にはピンと来ないのではないか。

使いたいことばを使えるなら

 英語の「言語差別」断罪とカップリングされていると思えるのが「言 語権」という考え方である。ユネスコあたりで決議されたものらしい。 Yahoo! などの検索エンジンからリンクを辿っていけるので、興味のあ る人は覗いてみてください。

 いつの頃からか、「言語の多様性を肯定し、守ろう」という考え方、 いわゆる「少数言語」(話者人口が少ないからこう呼ばれるものと思わ れる)を滅びるままにさせるのでなく、積極的に保護していこうという 考え方が出てきているようである。ぼくも、自然と同じように、生命と 同じように、多様であることはよいことだと考えているので、生物を保 護するように言語も保護されていいと思っている。

 この「言語権」、現在はどちらかといえば仮説として提示されている 段階のようで、詳しく見ると問題もあるものらしいけれど、基本的人権 の一部として、あるいは基本的人権から導出される権利として、「土着 の言語」「民族固有の言語」を使う権利、守る権利を認めようというも のである。ぼくはこれを精読したわけではないが、少数言語、他民族 (他言語)の干渉により消滅の危機に瀕している言語を想定して提案さ れているものらしいと理解した。

 しかし、これ自体はけっこうな考え方だと思うが、「滅びたい言語」 を滅びさせてくれるのかなと思ったりもする。

 ぼくはある議論で「自分が使いたいことばを使う権利」というのを仮 定してみた。人は誰も自分が使いたいと思うことばを使うことができる、 というものだ。最初は言語権を念頭においた仮説だったけれど、どうや らそれとは関係ない、むしろ言語権の裏返しなのではないかと思うよう になっている。

 テゲレモニア語ということばがあるとしよう。この言語は全人口が 1000人くらいしかいないテゲレモニア族という民族全員が使い、他にこ の言語を話す者はいない。話者人口1000人の少数言語、危機言語である。

 あるとき、テゲレモニア国民会議が催され、ひとりが壇上に立って言 う。「テゲレモニア語は長い歴史を持つ美しいことばだ。しかし、文法 がやたらと難しく、習得に時間がかかる。そしてそれを話すのは今やたっ た1000人だ。このことばを長らえさせるのはやぶさかではないが、この ことばに執着するのもどうかと思う。そこでだが、公用語を英語として はどうだろう」

 老若男女、国外で働く者、国内で生活する者、さまざまな立場の者が 混じっての激論の末に、テゲレモニア語を捨てる決議が全会一致で成立 する。あるいはいきなり採決して満場一致、でもいい(その方がショッ キング)。「やっぱりぃ、この先のことを考えたらー、エイゴの方がぁ、 世界っていうの? それに直結してるしぃ」。かくしてひとつの美しい 言語が消滅していく。

 「誰でも自分が使いたいと思うことばを使うことができる」権利を認 めるなら、テゲレモニア語の消滅を止めることは恐らくできないのだろ う。テゲレモニア国民会議に乱入して、「きみたちは間違っている。こ んなに美しい言語を捨ててはいけない」とか、「テゲレモニア語を使い 続ける法律を制定しない限り、経済制裁を加える」なんて言うのは内政 干渉だ。「言語権」が少数言語を使う人たちにその言語を使い続けるこ とを保証する権利ならば、「誰しも使いたいと思う言語を使うことがで きる権利」は、少数言語を捨て去る行為に根拠を与えてしまう。

 何かおかしい、何かが間違っている気がする? そうかも知れない。 でも、それがこの世界であり、現実というものなのかも知れない。

 「使いたいことばを使える権利」という仮説は、エスペラントの普及 に関する議論の最中で立てたものだった。この「権利」は一見ものすご く人権尊重的な、すばらしげな主張なのだけれど、これを認めるとエス ペラント自身にも致命的な影響を与え得る。

 ぼくは「〈思想〉を強調しない方が普及にはつながるのではないか。 どんな考え、どんな思想の持ち主であってもエスペラントを使ったって いいではないか」と言い、それに応えてある人が「ではあなたは到底 〈エスペラント的〉とは言いかねる人人――たとえば言語差別主義者、 独裁者、エスペラント撲滅論者――であってもエスペラントを使うこと を認めるのか」と言った。ぼくはすこし考えてこの「権利」を思いつき、 「この権利を認めるなら、そういう人人がエスペラントを使うことを拒 否する理由はない」と答えた。

 そう答えてから、その命題から導かれる状況を想像して、ちょっと妙 な感じがした。

 そうなのである。誰もが使いたいことばを使えるなら、差別主義者が エスペラントを使うことを止めることはできない。この言語が普及した 暁には、そういう人でも安心してエスペラントを使える可能性が高いし、 使う効果も望める。エスペラントで差別をしたり、エスペラントで個を 抑圧したり、エスペラントで人権を蹂躙したり、中には政治的集団を組 んで活動に利用し始める人人もいるかもしれない。エスペラントを使っ てエスペランティストへの弾圧を行なったり。理由なんていくらだって つけられる。そんな状況を「エスペランティストた ち」は容認できる筈もないが、でも、それを止めることはできない。

 では、「使いたいことばを使う権利」は、抑制されるべきなのか?  事前に思想検査をして、「はい。あなたはエスペラントを使ってよろし い」「あなたの思想では使ってはいけません」とか分別するか? でも これは筋が違っている気がする。人権蹂躙であり、意味は違うが「言語 差別」であろう。

 人権を尊重する立場に立つものが、まさにその立場の故に自らを滅ぼ し得る(ここで言っているのは、「〈思想〉を含んだエスペラント」)…… これはパラドックスなんだろうか? だとして、これを解消する方法は あるのだろうか。

思想のお邪魔/思想がお邪魔

 ri-ismo(リ-イスモ)なる考えが提示されている。

 エスペラントの本来の仕様では、ある種の名詞で「意味上の性」が区 別されている。amiko(友人)は暗黙のうちに「男性の友人」を意味し、 「女性の友人」を表すなら女性接尾辞をつけてamikinoとしなければな らない、とか、少年男子(knabo)と少年女子(knabino)が厳然と区別され ている、などである(初期の 文章でもちょっぴり触れている)。男性接尾辞はない。これは不公 平であり、この言語が標榜する〈公平・中立〉に反するじゃないかとい うことで出てきたのがこのri-ismoである。

 ri-ismoでは、名詞は意味的に中性とし、通常使う場合は性別を意識 する必要はない。女性接尾辞に照応する男性接尾辞も設けて、性別を明 示する必要がある場合にはこれらの接尾辞を使おう、と考える。また、 この言語の本来の仕様では三人称単数の代名詞に男女の区別があるのだ が、それを排して、中性の三人称単数代名詞を導入する。ri-ismoとい う語はその代名詞 ri に由来している。

 ぼくは言語仕様的にはri-ismoにほぼ賛成である。その理由は甚だ実 際的なもので、いちいち男か女かを意識して名詞を使い分ける(接尾辞 をつけ外しする)のは鬱陶しい。ri-ismoがそれを軽減してくれるなら、 乗ってもいいかと思わないでもない。

 「なんだ、けっきょくおまえも〈平等〉に賛成してるんじゃないか」 と言われたら、そうかも知れない(別に〈平等〉に反対しているとか 〈不平等〉に賛成しているとか言った憶えはないけど)。ただ躊躇する のは、「エスペラントを充分学んだと言えるまでは基本文法を逸脱せず にいよう」ということの他に、ri-ismoは「従来からある男女別の三人 称単数人称代名詞は使ってはならない」という姿勢である印象があって、 それで踏み切れずにいる。ぼくは今のところ「彼」と「彼女」も使えた 方がいいと思っているからだ。

 もうひとつ躊躇するのは、こちらの方が大きいかも知れないが、この ri-ismo、「ジェンダーフリー」方面につながっているんですね。ぼく のように〈思想〉と無縁の人間が使っていいのか迷ってしまうし、使う ことで、詳しくない世界のことを詳しいかのように見られるのも困る。 ぼくはぼくなりに「ジェンダー」に拘っていないつもりだけれど、それ は〈運動〉とは無縁だし、〈運動〉に賛同したり参加したりしている人 たちに比べれば生ぬるいに違いない。そういう人間が「あ、これ便利」 というだけで使うのはまずいでしょう。(ぼくの「ジェンダー」に対す る態度は、岸田秀の「唯幻論」の影響が大きいように思う。とすれば、 「ジェンダーフリー」運動とはそうとうに立場が異なる筈だ)

思想ぎらい

 そんなわけで、この言語の〈思想〉的側面には興味がないことにして いる。この言語に付随し、キックやジャンプやハリケーン(笑) で攻撃 してくる〈思想〉たちはこれらだけではない。ここに挙げたのはまだか わいい方かも知れないのだ。何気ないことの裏に実はスゴイ思想が蠕い ていたりして、うかうかと近づけない。

 〈思想〉の問題は、興味がある人たちに任せておけばいい。ぼくがこ こで提起したような疑問についてもとっくに解決済みだろう。さいわい、 エスペラントを思想の器と見るのでなく言語として享受しようという考 え方に近い傾向の人たちもちらほらいるようで、ちょっぴりうれしい。 ぼくとしてはこの言語の言語としての側面に思いを馳せる方が面白いの です。

 荒波に飛び込んで、友人もできたけれど、誤解されたままつき合うの も厭だったから、「よりどころを〈思想〉に求めることには興味がない」 ということを言った。無思想人間と思われているに違いない。しかし、 ここではそれを一歩進めて、「〈思想〉ぎらい」であることを宣言して おく。

 塩野七生のある随筆にこんな一節がある――

戦後、それでなければ夜も日も明けない感じだった民主主義も、全体主 義の波にさらされた経験のない私には、これもまた、絶対的なものでは 少しもなく、人類が今までに考えだした思想の一つに過ぎなかった。 (中略)マルクスは死んだ、と言えるのは、マルクスは生きていた、と 思っていた人だけである。私のように、マルクスは善良な人々の夢とし てだけ生きていたと思う者には、死んだという言葉の裏に、生きている と言っていた時と同じエモーショナルなものを感じて、あの人たちは所 詮変ってはいないのだ、と思うだけである。
(『サイレント・マイノリティ』新潮文庫、ISBN4-10-118107-1)

 上は世代論的な文章の一節なのだが、そこで述べている「彼女の世代 の見方感じ方」は、ぼく個人にはとてもよく当てはまると感じている。 そういう人間が、ある言語の言語仕様に興味を持ったからといって、ま たその言語が有用だと判断したからといって、ある「絶対的な価値観」 を無条件に受け入れるなどできる筈がない。ある「絶対的なものの見方」 のみを是とし、それと対立するものの見方を徹底的に攻撃するなど、で きる筈がない。

 その点ではぼくはエスペランティストより遥かにエスペラント的であ る筈だ。エスペラントそのものに対してさえ〈公平・中立〉なのだから。

 「言語 というシステム」で予言(笑)したとおり、「公平・中立」は圧力に なり得る。ようだ。

 どうも、今の世の中、「公平でなければならない」「平等でなければ ならない」「束縛は無条件かつ絶対的に悪。自由、解放は無条件かつ絶 対的に善」という考え方が支配的のようで、それはぼくだって「不平等 であるよりは平等である方がいい」「不自由であるよりは自由である方 がいい」と思っているしそんなことに反対しているつもりはないのだが (誤解しないでね)、ではその問題とされる「不公平」なり「不平等」 「束縛」なりについてどれだけ吟味されているのだろうか、あるべき 「公平」「平等」「自由」の姿は明確に描かれているのだろうか、「公 平」「平等」「自由」はまた別の問題をもたらす可能性を内包している 筈だがそれらについてもきちんと考察した上で言っているのだろうか、 など、そういうことが気になってしまう。

 きっと、無邪気じゃないのだろう。

 これは偏見なのだろうが、思想をやっている人というのは、概して真 面目だ。エスペラントの場合は「超」をつけたくなるくらいに真面目な 人が多いように見受けられる。きっと偏見だろう。

 真面目なヒトとゆーのは苦手だ。

 笑わない、ということではない(たぶん)。笑いの質が違う。方向が違 う。ちょっと考えても、そもそも笑いというもの自体が差別的なのだか ら、「公平」「平等」「人道主義」「個の尊厳」といったことを真剣に 思想している人の〈笑い〉がぼくなどとは異なるのは当然だろう。間違っ てもブラックユーモアなど解する筈がない。ナンセンスも許容してくれ るかどうか不安だ。ごくおとなしいユーモアやエスプリでさえ、時には、 あるいはものによっては良識の壁をひょいと超えてみたり、人間性を疑っ てみたり、個の尊厳を否定してかかったりするところに成り立つことを 考えれば、そういう人たちとぼくとでは同じ笑いを共有できないとして も当たり前だとも思う。

 まだ「初学者」だった頃だが、この言語の謳う〈公平・中立〉に着目 して、「世界征服を企む悪の秘密結社は、社内(笑)公用語にはやっぱり エスペラントなぞを採用するんだろうかなあ」と考え、そういうテーマ の小説をちょっぴり構想したことがあった。とあるメイリングリストで とある機会にこのアイデアを披露したが、案の定誰にも受けなかったよ うである。却ってより詳しい説明をせざるを得なくなり、ネタをすっか りばらしてしまったため、もはや小説にもできない(苦笑)。なにしろ 「私利私欲の集合体である悪の秘密結社が〈公平・平等〉という観念を 理解しているとは思えない」という反応が返ってきたくらいだ。マジメ にもほどがある。

 谷岡ヤスジはやはり天才だと思う。びっくりするようなイメージやア イデアが思いがけず飛び出てきて笑い転げるし、だいたいこんなものを 何十年も描き続けること自体がただごとではない。しかし、差別的な笑 いが多い。エスペラントの〈思想〉は谷岡ヤスジを徹底的に排斥するの ではないか。

 今はそうでもないが、ひと頃ホラー映画やいわゆるスプラッター映画 (さいきん、見かけませんね)に興味を持っていた。観ながら人間性とゆー ものにあれこれ思いを巡らすのだけれど、人をカンタンに殺して切り刻 んだりする映画が「エスペラント的」とは言えまい。 山田風太郎の「忍法もの」もめちゃくちゃ面白いがきわめて非人間的 な世界である。

 ある種の小説では想像力を思いきり働かせて「反・現実」「反・事実」 の世界や事件や風景を描写・構築するが、そういう行為に人道主義とか か平等とかは邪魔なだけなので、これも「エスペラント的」ではないか も知れない。筒井康隆、マルキ・ド・サドやジョルジュ・バタイユなど はエスペランティストによって焚書にされるだろうか。

 エスペラントの世界では、公平かつ平等で、人間性に溢れたあたたか い笑いしかないのかな、などと想像すると、その世界が寒く見えてきた りさえする。それともこれらは芸術だったり虚構だったりするから「許 される」のだろうか。では日常の場での笑いはどうだろう。ぼくたちは ともすれば日常生活の中でも残酷な――平等でもなければ人道的でもな い笑いを持つ。それが許しがたいことならば、虚構の場でも許されない 筈ではないだろうか。

 これらはすべて偏見だろうか。偏見だろう。そうであって欲しい。 エスペランティストの夢見る世界が、上のよう な作品や作者を葬り去るものでないことを祈っている。

エスペラントに未来はあるか

 なんだかまるでエスペラントを否定している人間のように思われるか もしれないけれど、ぼくの立場は「言語を〈思想〉的側面から切り離し て考える」というものなので、それはそれ、これはこれなのだ。 ぼくはこの言語が有用であると思っているし、ある程度は気にも入って いる。げんざい検証中だが、検証のためにがしがし使ってみたい。しか し……

 気に入ってはいるし、実際に使っている身だから、そりゃ「未来はあ る」と思いたい。でも、大丈夫かなぁと漠然たる不安も感じる。

 本当に普及させたいなら政治や行政にも積極的に関与・介入していく べきだろう。たとえば文部科学省の大臣か高級官僚になって、各大学や 高校にエスペラントの履修課程を置くことを指導する。エスペラント大 会を文部省が後援する。「インターネット上での国際交流にふさわしい」 というなら、「IT革命」をやるついでにエスペラント普及のための手 を打つ。政府の公式ウェブページにエスペラント版を設けるだけでも認 知度はかなり上がるだろう。経済方面だってできることはある。エスペ ラントを商取引に活用しているような企業を税制面で優遇するのだ。K ○Dのも○つ○り大学が認可された例から見て、国会でがんがん質問す るだけでも効果はあるだろう。別に自分(たち)が政治家になるのでなく とも、どこかの政治家をシンパにすればいいわけだ。

リベラルを自認する政党、政治家なら乗ってくるのではないか。それか ら、「英語公用語論」に反対する政治家にも働きかける値打ちはある。

 その昔は国際連盟にエスペラントを「国際語」として採択するよう活 発な運動がなされた時期もあったそうだ。この運動が挫折して以来、普 及活動は政治との関わりを避け、「草の根」レベル、文化交流レベルで 展開しようという意識になったと聞く。しかし、このレベルでの活動で は急速な普及は望めない。そして、国際連盟の時代のトラウマなのか、 今では政治、行政への働きかけも熱心でないように見える。あるいはエ スペラントをやる人は政治には関心がないか、政治力がないか、あるい は浮世離れしているのか、なのだろうか。

 学び始めの頃、「国連とか、ヨーロッパ連合とか、はたまたFIFA(国 際サッカー連盟)といった組織・団体で公用語にでもなればいいのに」 と思ったことがある。しかしこれはいけないことなのではないかと最近 考えるようになった。

 『バイリンガリズム』(東照二、講談社現代新書、 ISBN4-06-149515-1)に書かれているが、公用語ということは、強制力が あるということだ。そのことばをいやでも使わざるを得ないから、必然 的に話者も増え認知度も上がる、と思っていたわけだけれど、公用語は 半面ある種特権的な、他の言語を抑圧し得る立場でもあり、これはエス ペラントの〈思想〉とは相容れないように見える。「ここではエスペラ ントを使わなければなりません」「ここではエスペラントしか使えませ ん」という状況は、エスペラントおよびエスペラン ティストの望むところとは正反対のものだろう。エスペラント的に は、人がこの言語を選ぶのはあくまで本人の自由意思によるのでなけれ ばならないのではないか。

その点、「生まれながらのエスペラント話者」というのにも、興味津津 というか疑問がある。実際にそういう人はいるそうだし、さして珍しい 存在でもないようだ。だがこれについて触れるとちょっぴり長くなるの で、ここでは割愛する。

 ……と考えると、やはり普及は「草の根」的な、ボトムアップ的な、 自由意思の積み重ね・集積によっていくしかないのかなと思えてくる。 だが、これでは急速な普及は望めない。従ってなかなか普及せず、話者 人口はずっと今と同程度のまま推移して行く……などと考えると、エス ペラントとは、マイノリティであることを運命づけられている言語なの だろうか? なんて思いも頭をよぎったりする。

 とあるメイリングリストで議論めいたことがされたが、そのときも 「ウェブなんかでどんどん宣伝してくんだね」というありきたりな結論 しか出てこなかった。まぁ、確かに比較的金はかからないし、個人ベー スで活動できるし、それでいて効果は不特定多数に及ぶし、いい方法で あることは疑いようがないわけで、ぼくも少しは貢献しようと思ってエ スペラントに関するページを設けたりしているのだけれど、どうもぼく は「公平・中立」でありすぎて、ぼくの文章を読んでかえってエスペラ ントを敬遠する人もいるのではないかと悩んでおり(悩みます、いちお う)、今度もう少し本気を出してエスペラントを宣伝・普及するページ を作ろうと構想を練っているこの頃なんですが。

 コンピューターのオペレーティングシステムや、プログラミング言語 には、「キラー・アプリケーション」ということばがある(キ ラーパスではない)。そのオペレーティングシステムや言語の普及に決 定的な役割を果たす「イカしたアプリケーション」「イカしたプログラ ム」のことをいう。エスペラントにもそういうものが切に望まれるのだ けれど……

Mi ne estas Esperantisto, eble.

 Esperantisto、エスペランティストという単語は、Esperanto + ist というふたつの語幹からなる合成語である。Esperantoはいうまでもな く「エスペラントということば」、 -ist-は「従事者、主義や宗教を奉 じる者」という意味の接尾辞だ。

細かく見ればEsperantoも合成語で、esperi (希望) + -ant- (進行形分 詞接尾辞) 、「希望している人」という意味なのだが、大文字で始まる 場合は「ことばとしてのエスペラント」を表す。小文字で始めても、文 脈上ことばを指していると解釈されれば、ことばの方を指している。

 ふつう、エスペラントを使う人を「エスペランティスト」と呼んでい るそうだが、-ist-という接尾辞には「信奉者」という意味もあること から、「『エスペランティスト』って、なんだ?」というギロンが起こ ることがあるようだ。けっきょくのところ解釈は人それぞれで、「『話 す人、使う人』でいいんじゃないの」という人もいれば「エスペラント に託された思想に共鳴している人でなければそうは呼べん」という人も いるし、「やっぱり運動しなくちゃダメだ」という人もいる。

 ぼくはこの単語を知った時から、つまり学び始めの頃から「やはり思 想的側面にも共感できる人がエスペランティストと呼ばれるべきだろう なぁ」と思っていた。だから自分のことを「エスペランティスト」とは 呼べないなと感じていた。

 ある時少しふっ切れた気になり、「『エスペランティスト』なる語の 定義がどうであれ、また人が自分をどう呼ぶのであれ、自分はこのこと ばを使いたいと思えば使うし、そう思わなくなれば使わない。それだけ のことだ」と考えるようになった。ことばの定義などは問題ではない、 どう行動するかだろう。

 今はこう言いたい気分になっている。

「ぼくはエスペランティストなんかじゃないよ、もしかしたらね」

 そして、「エスペランティストでなかろうとも、エスペラントを使う ことができる」生きた実例として、使わなくなるまで使い続けようっと、 なんて思っている(^^)


あたまへ


(おわり ―― 2001.08.15)





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