エスペラントでハナモゲラ



 「わたしのエスペラント体験・夢見る頃を過ぎても (^^)・その2」です。

 その1では、エスペラントに関する思弁のうち、溜まっていた「〈思 想〉関連のもの」を吐き出しました。どんなことを書いているのか読ん でみたいぜ、という人は、こちらへどうぞ。 読まなくてもなんら問題はアリマセン。

 その2では、言語としてのエスペラントに焦点を当てて、心に映りゆ くよしなしごとを綴りたいと思います。


*もくじ*

「ミーム」としての言語
〈インターフェイス言語〉の意義
〈インターフェイス言語〉の意義(続)
エスペラントの〈簡単さ〉は何によるのだろう
エスペラントでハナモゲラ
メタ言語――から考えは拡散する
表記の沙汰



「ミーム」としての言語

 学び始めのたぶんわりと早い頃に、ことば、言語というものを「ミー ム」になぞらえた。そんなことを思いつくのはぼくだけではないようで、 他にも似たような考えを述べている人に出会った記憶がある(ウェブペー ジでだった気がする)。

 「ミーム」というのは、『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店、 ISBN4-314-00556-4)で有名なイギリスの生物学者リチャード・ドーキン スが提唱した説である。「利己的な遺伝子」とは、遺伝子の自己複 製を繰り返すという特徴を本質的なものと見、生命体は遺伝子とい う「自己複製子」の乗物、「遺伝子を伝えるために作られた遺伝子機械」 (同書)に過ぎないとする見方である。

 ドーキンスは人間の文化に遺伝子と同様の「自己複製子」を見出した。 「基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じうる点で、文化 的伝達は遺伝的伝達と類似している」。そして文化的進化と遺伝的進化 の類似性から「文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝え る名詞」を考え、遺伝子(英語でgene, ジーン)と発音の似たことばとし て「ミーム」(meme)という語を創案した。(引用はすべて前掲書より)

ちなみに遺伝子はエスペラントならgeno(ゲーノ)。ミームに対しては原 義をとって(英語での音にも合うし)mimoとしたいところだけれど、残念 ながらこの語にはすでに別の意味があてられている。genoに合わせて memoでも、と思っても、これにも別の意味がある。残念。

 ドーキンスはミームの例として「楽曲や、思想、標語、衣服の様式、 壷の作り方、あるいはアーチの建造法」などを挙げている(前掲書)。遺 伝子が肉体を媒体として自己を複製しながら生命という乗物を乗り換え ていくのに似て、これらのミームは模倣されることによって自己を複製 しつつ脳から脳へと渡り歩いていくのだ。

 これだけの紹介ではよく判らない、という人は、ぜひ『利己的な遺伝 子』を読んでみてください。でも、これだけの紹介でも、エスペラント を取り巻く〈思想〉たちはじゅうぶんにミームに見えることと思う。そ れらはザメンホフの脳から発し、あるいは20世紀の民主主義と人権尊重 という時代の波から生まれ、複製と変異を繰り返して「エスペランティ スト」たちの脳から脳へと100年以上も渡り歩いている。これらのミー ムがミーム・プールの中で成功を収めることができるかどうか? こう いう観点から眺める分には〈思想〉も面白い。

 ぼくが「エスペラントはミームになぞらえられるか」と思ったのはそ ういうことではなくて、ことばそれ自体がすでにミーム的だと思ったの だった。が、今回改めて『利己的な遺伝子』をぱらぱら読み返してみた ところドーキンスはそんなことは言っておらず、あるいはぼくがミーム という概念を頭の中で勝手に作り替えていたのかも知れない。ただ、ドー キンスは「ミームには、染色体に相当するものがあるとは思えない」と 言っているが、大雑把で強引な同型対応をするなら、言語はミームにとっ ての染色体なのかなという気もしないでもない。

 ここで「言語は道具であると同時に対象であり、主体であると同時に 客体でもあり、形式であると同時に内容でもあり、プロトコルでもあれ ばデータでもあればプログラムでもある」 (「エス ペラント語雑感(2001年1月)・言語というシステム」)という卓見 を思い出さなければならない。ならば、言語はミームにとっての染色体 でもあり、同時にミーム自身でもあるということは充分にあり得るので はないだろうか。

 言語がミームに見られないのは、また、民族語の半ば自然発生的な形 成過程と、言語自体の下位基盤としての広大さによるのかも知れない。 しかし、〈人工言語〉の存在を視野に入れるなら、言語がミームとして 振舞ったっておかしくはない。それは構文と語彙を憶えることによって 「模倣」でき、人から人へ伝播する。しかも、言語だから、使う人によっ て微妙にかつ確実に差異=変異が生じる! ミームとしての資格は充分 ではないだろうか? さらに言語というものの表現と意味とが複雑に絡 み合った自己言及的なあり方は、まるでDNAを想起させる。

 実はそのときの思いつきはせいぜいこの程度のことだったのけれど、 こうして考えてみるとなかなか示唆的な気もする。「国際共通語」のミー ム・プールで、あるいは〈人工言語〉のミーム・プールで、エスペラン トミームは他の言語ミームと生き残りの死闘を演じているわけだ。して みると、〈公平・中立〉とか〈言語的平等〉とかいうのは、エスペラン トというミームが生き残りのために採用した宣伝戦術とも見ることがで きる。

 と書いてきたが、やはり言語そのものはミームではなく、せいぜいあ る語に込められた観念とか、ある用法とか言い回しとかがミームなのか なぁという気もしないでもない(苦笑)

 どういうわけかこういう非実際的というか反実際的な思弁は大好きだ。 今後も折に触れて研究成果を発表していきたいものです。

〈インターフェイス言語〉の意義

 この見出しをつけてみて、我ながら憮然とした。ブゼン、というのは おかしいですけれども。

 いったい、人は自然言語を使うのに「意義」など考えるものだろうか?  朝鮮語を使う意義、ヒンディー語を学ぶ意義、タガログ語を知る意義…… 必要だから学び、使うのだし、あるいはその言語やその言語を使う人人 に興味があるからだし、それで充分なのであって、それ以上のことは誰 も考えない。それなのに、同じ自然言語でもこと〈人工言語〉となると 途端にムズカシイ顔をして意義を唱えたり正当性を検証してみせたりす る。そうあらねばならないのだろうが、そうあらねばならないことが 〈人工言語〉の辛いところだろう。

 初学者時代のなかごろの話である。

 『Asteriks(アステリクス)』という漫画のシリーズがある。

 ぼくは塩野七生の『ローマ人の物語』でこの漫画のことを知った。フ ランスの原産で、時は古代ローマ、共和政末期から帝政期に移ろうとす る頃、主人公アステリクスをはじめとするガリア人の一団が、ローマ軍 団を相手に立ち回ったりクレオパトラと絡んだりするというお話だそう だ。古代ローマに興味のある人は一度手にとってみることをお勧めする。

 ずっと読んでみたいと思っていたので、エスペラント版があると知り うれしくなって買い込んだ。本、というよりムック式というか、上等の グラフ誌のような体裁なのだが、見返しに出版されている国のリストが 載っている。それによれはざっと次のような国でそれぞれの国語に翻訳 され出版されているらしい:

オーストリア、ベルギー、ブラジル、ブルガリア、イギリス、 中国、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、スペイン、 イタリア、韓国、クロアチア、オランダ、ルーマニア、ロシア、 スウェーデン、トルコ

 残念ながらこのリストには日本が入っていない。塩野七生によれば、 とある出版社が手がけたが売行きがぱっとせずに撤退したようだ。こん なとき、インターフェイスしてくれる言語があるのはうれしい。フラン ス語が読めなくても日本語訳がなくても、エスペラント版があれば、そ の作品に接することができる。この程度の漫画は、エスペラントでなら 初学者の学力であってもときどき辞書を引く程度で読める。実際ぼくは 最初は辞書を引き引き読んでいたが、じき面倒になって、少少判らない ところがあっても気にせずに読んだ。

 ちょっと待てよ、という人がいるだろう。「それなら英語だってイン ターフェイスになるじゃないか」「英語版があるなら英語版を読めばい いじゃないか」という論法は依然として強力だろう。ぼくも「〈反・英 語〉論者」ではないから、英語を重視する態度を闇雲に否定するつもり はない。しかし、そう理屈どおり願いどおりには行かないのが世の中な わけで。ぼくらがさんざん英語を教わりながらけっきょく満足の行く読 み書き能力を身につけられないのはみなさん身を持ってお判りのとおり。

 「原作をほんとうに楽しみたいなら、原語(この場合はフランス語)で 読め」という意見もある。これはごもっともで、ぼくもある種の文芸作 品に関してはそのように考える方である(ただし実践することは滅多に ない)。だが、ぼくだけのことかも知れないが、文芸作品なら気合いを 入れて原語でちまちま読む覚悟もできるものの、漫画を同じようにやる 気にはならない。基本的に本は寝転がって読みたいクチなのだ。(まぁ、 今回はエスペラントの勉強も兼ねてたもので、辞書を引いたりしたけれ ども)

 「英語が思うほどできなくて、対象言語も大して知らなくて、それで も『世界』と触れ合いたいなら、選択肢のひとつとしてこの言語がある」 ということだ。

 もちろんこれはきれいごとであって、「ハイ、じゃーみなさん明日か らエスペラント一筋でいきましょー」とはとても言えない。悲しいかな 現在のところ、エスペラントという窓を通して見える世界は、文芸、漫 画、映像といった分野ではひじょーに狭い。原著作権の心配のない民話 とか古い文学作品くらいしか見当たらず、『Asteriks』のように現代の 作品がエスペラントに訳されるのはそう多いことではないようだ。また、 ぱっと見た限りでは、例の〈思想〉的見地から推奨可能なものばかりで ある。

 また、根本的な問題点として、文芸、漫画、映像といった分野でのイ ンターフェイスでは翻訳の質が重要になる。重要どころか品質は厳しく 追究されなければならない。「逐語訳しました」「ただなんとなく訳し てみました」といった程度のものをエスペラント版として出されたので は、読む方はたまったものではないし、インターフェイス言語としての 意義すら薄れてしまう。柳瀬尚紀のような、都築道夫のような、小田島 雄志のような熱意を持って、原作の香りまで写し取る努力が求められな ければならない。そうでなければ、「原語が判らなくても、エスペラン トがある」という言説が成り立たない。そんな優れた翻訳家が沢山いる かというと……いる筈ないよね。

 著作権の問題、翻訳の質の問題、ともに個人では解決できないことな ので、ここでこれ以上言うのは止める。プラス思考に転じよう。このと ころエスペラントに否定的なことばかり書いているらしく、「少しは支 持者を増やすようなことを書け」と言われているのだ(うそ)。

 世界各地の民話とか、少数民族の口承文芸など、日本語訳は望めず、 その国ないし民族のことばでしか読めそうもないもののエスペラント訳 は、わりと沢山ある。世界各地の民族の風習などを知りたい、なんて人 には、この言語を知っていると重宝するとは言える。話者や利用者が世 界各地に点在している強みだろうか。

 有名どころではシェイクスピア、『オズの魔法使い』、『老人と海』、 『カンタベリー物語』、ボードレール、『異邦人』、ゲーテ、ハイネ、 ダンテ、『デカメロン』、『百年の孤独』、ほかには北欧、東欧、中国、 韓国、などなど。ひとつのことばを憶えるだけでこれだけ多岐にわたる 国や作家の作品を読めるのは、利点といっていいと思う。

〈インターフェイス言語〉の意義(続)

 コンピューターによる翻訳(機械翻訳)の話だけれど、N種類の言語間 の相互翻訳を一対一で行なおうとすると、n(n-1)通りの 翻訳機(プログラム)を創らなければならない。そこで、翻訳の過程であ るひとつの言語を介在させる。これを「枢軸言語(pivot language)」な んて言う。N個の言語(の文)はいちどこの枢軸言語に変換され、枢軸言 語(の文)から目的言語に変換されて翻訳が完成するという塩梅だ。こう いう仕組にすれば、N種類の言語間の翻訳機を作るにしても、少ない数 で済む(N * 2通り)。この仕組なら対象言語を増やすの も比較的たやすい。

 やはり初学者の頃、文法の「簡単さ」に着目して、エスペラントをこ うした「枢軸言語」にすることはできないのかなと思ったりこともある。 実際、そういう研究がなされもしたようだ。

 今ではこの考えには否定的で、エスペラントは機械翻訳には向かない のではないかと思っている。民族語と同様、あるいはもしかしたら民族 語以上に、意味解釈の上で文脈に依存す る部分が多いからだ(これについてはこちらでも 取り上げている)。 ある語句の意味を決定するためにはその語句が文の中のどの位置に現れ たか、前後の語句は何かなどを考慮して解釈しなければならない。その ためには意味が決定できるまで文の要素を先読みしなければならないし、 先読みして決定できなかった場合には後戻りして別の候補を探索する、 ということが必要になる。当然、先読みの途中でまた意味を確定できな い語句が現れるから、そこでまた探索と後戻り(専門的には「バックト ラッキング」という)が始まる。探索空間が広大になるわけで、構文解 析器にはものすごく負担となるのだ。

 自然言語は多かれ多かれ構文解析器に負担をかけるのだが、エスペラ ントではことのほか負担が大きいように思う。構文解析はほどほどにし て、語句の用例のデータベースを用意しておき、それとのマッチングで 適当に意味を見つける、という解法が現実的かなぁ、でもそのデータベー スもそうとう巨大になるだろうなと想像する。

 機械翻訳で「枢軸言語」になるためには、自然言語の曖昧さ(文脈依 存)を廃し、文を先頭から読み下せば迷わず構文木が作れるくらいの明 快な文法を持った言語がふさわしいので、つまりエスペラントに限らず 自然言語自体は枢軸言語にはなり得ず、専用の中間言語をデザインする 方が賢いだろう。エスペラントの構文を基礎にして、機械翻訳向けに改 造して使うことは可能かもしれない。でもそうすると神聖不可侵とされ る「エスペラントの基礎」に抵触するので、エスペラント陣営からは批 判されるんだろうナ。

 話がそれてしまった。

 また悲観的なことを書きやがったなとは思わないでいただきたい。こ れは機械翻訳の話で、しかもぼくの個人的感想だ。人間間の意思疎通に ついては話はまったく別なので、ご安心を。

 人間がすばらしい情報処理機器(なにせ「遺伝子の乗り物」だもんね) であるのは、そのような「曖昧さ」が内在する言語(の文)であっても難 なく解釈し理解してしまうところだ。人間世界では、エスペラントは充 分にインターフェイス言語たり得るだろうと思っている。

 世界中には民族語が3000とか6000とかあると言われているが、それぞ れの言語が一対一で意思疎通を行なおうとするとその組合せは n(n-1) / 2通りなので、n = 3000として、 えーと、ものすごく大きな数になってしまう。世界はますます狭くなる 一方だから、やはりそろそろ何らかの〈インターフェイス言語〉を設け た方がこの先の全世界レベルの意思疎通に都合がいい。

 とあるメイリングリストでは、主な参加者は日本人なのだが、それに 混じってポーランドの人やイランの人がいる。そういう人のメイルを読 んだり、自分のメイルがその人たちに読まれるのは、ぼくもまだそうい うことに慣れていないせいもあって、新鮮であり、感動する。互いに母 語の異なる人人とひとつのことばで意思疎通ができることのよさは、や はり実際に体験するとしみじみ判る。

 ときには日本人同士でもエスペラントで対話することがあって、違和 感を感じる以前に、面白い。その行為自体を面白く思うのもあるし、日 本人であることをちょっと忘れさせてくれる快感もある。日本人のメン タリティが幾分かは日本語ということばに根ざしているのだとしたら、 日本語を使わずに対話を試みることで、幾分かは日本人的なものの見方 考え方からは離れられるのだろう。少なくとも、日本語的な言い回しと か、日本語的な表現とかのうちのいくらかは使えなくなるので、ものご とを違う風に見てみる必要に迫られる。 母語によ る思考回路以外にもうひとつ思考回路を持っておくのは誰にとっても悪 いことではない筈だと、改めて言っておこう。

といって、「非・日本人的表現」「非・日本語的表現」をすればいいと いうものでもなく、日本人的(日本語的)な表現や感性をどんどん注入し ていくことも同じくらい必要だと思っている。

 というようなことを書くと、現在の「国際共通語」暫定チャンピオン の英語と闘わなければならないのだが、ここでは「楽さ」の観点から見 てみる。

 朝のニュース番組(novajxa programo)に「英語ワンポイントレッスン」 のコーナー(programero)があって、そこで知ったのだけれど、先ごろま で行なわれていた世界陸上で日本の選手が「みんなよくやった」という のは "Everyone did a great job." というのだそうだ。また「受験生 には遊ぶ暇はない」というのは "Examinees have no time to play." だそうだ。

 なんてことのない表現、言い回しだが、なんてことのないものが咄嗟 に出てこないのは、日本の学校教育で習わないということもあるだろう けれど、こういうのが英語を日常的に使う人人の間での日常的な言い回 しだからでもあるだろう。そういうのは日日の積み重ねでできてくるの で、日日の蓄積がない人人には思い浮かばないし、そういう人に「こん な言い回しも知らないのぉ」と言うのは酷だ。難易度が1クリとか2クリ とか言っている場合じゃない(*)。

(*)TBS系の「エクスプレス」という番組の中の「クリスの英語でチ アリ」というコーナーのこと(2001年8月現在)。クリスという女の人が、 例題の難易度を「クリの数」で表してるんですが……

 であれば、日日の蓄積が醸し出す言い回しなどというものがない言語 の方が、遥かに気楽に使える筈だ。エスペラントでは上の文をなんてい うのかな、などと思いつつ見ていたのだけれど、前者は "Cxiuj faris tre bone." とか "Cxiuj estas admirindaj." などで意 味は伝わりそうに思うし、後者は "Studentoj havas neniom libertempon ludi." だっていいじゃない?  Studento(学生)じゃ意味が広すぎるなら後に "... kiuj trapasos ekzamenon" (試験を受けることになっている)とか 付け加えれば済みそうな気がする。咄嗟に言うなら、自分の持っている 知識を動員して、こんな風に言うことになる。

 この言語にも「言い回し」「慣用句」「成句」の類はある。百年間の 用例の積み重ねがそろそろ「効いて」きているのだろう。まぁ、自然言 語らしくなってきているとも言える。でも、まだ数は少ないし、そうい うものが溜まっていったとしても「言わんとするところが伝わるならそ れでよし」という態度はなくならないと思う。言語の態度というのは変 だな。正確にはこの言語を使う人の態度というべきか。そう言っていい ものは確かに存在すると思う。〈思想〉なんかぼくはどうなったってか まわないが、こうした「相手の言わんとするところを理解しようとする 態度(意志)」は守り続けられて欲しいし、もしかしたらそれこそが〈イ ンターフェイス言語〉の核心なのかもしれない。

エスペラントの〈簡単さ〉は何によるのだろう

 「ゆりかごを出て 荒波へ(^^)」の中で、「実体験上、一日30 分程度の 勉強を半年も続ければそこそこ読み書き聞き話しできる程度にやさしい」 と書いた。

 この「簡単さ」については「文法が整理されているから」とか「構文 が簡単だから」とかと説明されている。確かに構文は(骨格の16条に加 えて、暗黙の規則を入れても)比較的簡単だし、それが基礎になってい るのは間違いではないだろうが、そういうことだけでもないのではない かという気がしている。

 今考えているのは、エスペラントでは文の解釈行為において構文が占 める位置がかなり低い、言い換えれば文脈依存性の高い言語だからじゃ ないかということだ(ここでも触れて いる)。語順、対格の用法、副詞の用法などあちこちに文脈依存性 が見られると考えているが、よい例として、副詞の使われ方を挙げよう。

 エスペラントでは、副詞は「品詞のゴミ箱」とも言われるそうで、ほ かに分類しようのない語がここに入ってくるものでもあるようだ。しか し、それでなくともそもそも副詞というものは、形容詞や副詞を修飾す るし、語句や文も修飾する。守備範囲の非常に広い品詞である。その上 この言語では、副詞が叙述語(「きれいなバラ」のように限定的に修飾 するのでなく、「バラはきれいだ」のように属性とか状態を述べる語を 叙述語という)にも使われる。

 それほどそんなにそのように、この言語では副詞が大活躍する。以下 の例で、太字の部分が副詞である。

  1. Sxi kuras rapide. -- 彼女は足が速い/速く走る。 (動詞を修飾)
  2. Tiu knabino estas nekredeble bela. -- あの子は信じがたいほど美しい。(形容詞を修飾)
  3. Ankaux mi iru. -- わたしも行きましょう。(名詞を修飾)
  4. Estas pli bone ke vi dormu. -- きみは眠った方がいい。 (名詞句の叙述語)
  5. Vivi honeste estas malfacile. -- 正直に生きるってのは難しいもんだ。 (動詞句の叙述語。honesteも副詞で、動詞viviを修飾)
  6. Bedauxrinde mi ne havas monon. -- 残念ながらお金はありません。 (文全体を修飾)
  7. Trafe! Mi venas de tie. -- あたり! ぼくはそこから来たんだ。 (間投詞)

 ところが、その副詞がどの語や句、あるいは文を修飾しているのかを 示す構文上の指標はない。ということは、ある副詞が何を修飾しており その結果どういう意味を表しているかは、解釈次第だということだ。 しかも、副詞の置かれる位置はわりと自由なので、それも解釈を文脈に 依存させる一因となっている。 指標はないわけではなく、いちおう、「副詞の直後の語句にかかる」 ということになっている(筈)。が、"Sxi kuras rapide." のように被修 飾語の後に置かれる場合もあり、原則ではあっても構文規則ではない。

 エスペラントでは、天候を表す文は主語のない「無主語文」という形 をとり、副詞を叙述語にする。昨日とか今日とかいう単語も副詞であり、 副詞を修飾するのも副詞だから、次のような文では:

Hieraux matene estis nube, sed poste komforte hele. -- 昨日は朝は曇っていたが、後には気持ちよい好天となった。

構文要素はまったくといっていいほどなく、文の殆どが副詞というすさ まじい事態になる。正直に言えば、上の文には少少自信がない。が、文 法上正しい文であることは間違いない。この文はエスペラントのコンパ イラにかけてもエラーは出ないのだ。この文が意味をなすかどうかは、 受け取り手がぼくの意図どおりに解釈してくれるかどうかにかかってい る!

 そして、というか、しかし、というか、受け取り手がおそらく「正し く」解釈してくれるだろうことをぼくは確信とまでは言えないがけっこ う期待できる。hieraux(昨日)やmatene(朝)は間違えようがないし、 nube(曇って)やhele (晴れて)は天候を表すと解釈するしかないし、 poste(後に)はnube とhele をつなぐ働きをしていると解釈するのが妥 当だし、komforte (快適に)がposteにかかるとは考えられない。そう、 個個の語の意味に立ち入れば、自ずと 「ふさわしい解釈」は数 通り(多くの場合一通り)に定まってくる。 仮に後半部分を hele komforte poste としたとしても、「正しい解釈」 がなされる見込みはある。変な人だとは思われるだろうが。

 これは、思うほど不都合ではない。人間なんて所詮まったく無意味な ことなんてできないわけだし、発話しようとする以上何かしらの意味を 伝えたいのがフツウだ。つまり、何か意味があるハズと思って解釈すれ ば、概ね何か意味が取り出せるのである。そしてその推測は当面の発話 を取り巻くこれまでの話の流れとか周囲の状況とかいった「広義の文脈」 によってほぼ確信できる(というか、広義の文脈に合致しない意味は切 り捨てられる)。であれば、構文規則は少なくたって大して障害にはな らない(かどうかは判らないけど)。

 構文が単純(悪く言えば貧弱)だから文脈依存になるのか、構文を単 純にするために文脈依存にしたのかは定かではないが、コンピューター 上の言語とは正反対のアプローチなので、これに気づいたときはけっこ う感動した。

 ところで、このことは新たな興味を惹起する。「エスペラントに よるナンセンス文学は成り立つか?」。あるいは、 「意味をな さない発話を正しく無意味と判別できるか? だとしたらそれは何によっ てだろうか?」

 まったくことばって面白い。

エスペラントでハナモゲラ

 「ミーム」と並んで、エスペラントを勉強しな がら思い出していたのは、ハナモゲラだった。

 こんなことを言うと、〈思想〉派の人は頭から湯気を出して怒り出す かも知れない。(でも、マジメに思想してる人はハナモゲラなんか知ら ないか)

 ハナモゲラというのは、1970年代半ばに日本で起こった、1920年代ヨー ロッパのダダイスムをも凌ぐ革命性を有する言語運動(うそ)である。 言語の意味を破壊するのみならず、構文規則や意味規則をも破壊する ことを理念とし(うそ)、ジャズマン山下洋輔、坂田明、小山章太、小説 家筒井康隆らによって繰り広げられた。

 タモリというテレビタレントをご存知だろうか。今ではバラエティの 司会者としてのみ知られるところだろうが、あの平日昼のバラエティ、 恐怖の長寿番組の司会をやる前までは、得体の知れない不思議なタレン トであり、ハナモゲラをマスメディアを通じて大衆に認知させる役割を 果たした。「4ヶ国語マージャン」とか「昼の憩い」とか「料理教室」 などのネタを知っている人がいたら……けっこーいい歳ですね。

 なまかりのけさめのこのそれは、かさにはもれけめらまさりました。 くしもれてくびはさあきておれたら、なしにすみこられた。
 「かもしはるみた?」
 「ふにはももそれた。すずはびりたから」わしけこそつんだ。
 どでんかすってんか、ひみにはせもりかせみねます。

 ……というのが、たとえば、ハナモゲラである。しばしご鑑賞くださ い。(ハナモゲラを自作したのは初めてかも。出来は……う〜ん)

 「エスペラントはハナモゲラではないか」というのは、ふざけて言っ ているのではなく、いやまったくの大真面目かと問われるとそうとは言 えないけれど、でもおちゃらけのつもりはないんだが、あまり自信はな い(どっちだ)

 日本語を母語とする人にとって、「なんだか日本語っぽく聞こえるけ れど、ぜんぜん日本語ではない何か」がハナモゲラである。そういえば ハナモゲラがハナモゲラになったきっかけは、文献によれば、「初めて 日本語を聞いた外人に聞こえる日本語の物真似」だったそうだ。

 それと同じように、フランスかイタリア、スペイン辺りの人で、エス ペラントをまったく知らない人が初めてエスペラントを聞いたとしたら、 それは〈ハナモゲラ〉なのではないだろうか。ハナモゲラが、音韻、構 文、意味(?)どれをとっても日本語のようで日本語でないもので 構成されているのに似て、エスペラントはヨーロッパ諸語の要素に似て いながらでもどのヨーロッパ諸語とも異なるもので構成されている。

 ザメンホフが初めてエスペラントで喋った時、周囲の人にとっては、 ハナモゲラだったのではないだろうか。

 イヤ、これでは真面目すぎる(笑)

 「なんだか日本語っぽく聞こえるけれど、ぜんぜん日本語ではない何 か」がハナモゲラである。フランス語をまったく知らない人にとって、 「初めてフランス語を聞いた時に聞こえているもの」、それもハナモゲ ラである。「まったく朝鮮語ではないのだが、でもなんだか朝鮮語のよ うに聞こえる何か」もハナモゲラである。ヨーロッパのことばに詳しく ない人が初めてエスペラントを聞いたら、「あ、なんかヨーロッパのこ とばっぽい」と思うだろう。そういえば梅棹忠夫の随筆に、時代劇の映 画を撮った時に南蛮人の喋ることばにエスペラントを使った話がある。

 う〜む、これでも真面目すぎだな。仕方ないな。

 ヨーロッパ諸語から構文や語彙の要素を取り入れながら、しかし巧み に綴りをずらしたりして、また独自の文法を与えたことで、まったく異 なる言語が生み出された。これは、そーとースゴイことなのではあるま いかと思う。まさにハナモゲラに匹敵するといって過言ではない(こん なことを言うとまた〈思想〉派の人に……)

 そういうものとして、つまり、「実在し、実用になるハナモゲラ」と して、エスペラントを楽しむ、という楽しみ方はあるのではないかな。 「実用になるハナモゲラ」なんて、自家撞着だけど。

 やっぱり「真面目」はいかんな、ハナモゲラを出しておいて。

 エスペラントの「文脈依存性」を逆手にとって、「エスペラントの構文と 語彙をそのまま用いながら、しかしエスペラントとしては意味をなさない 文」を作り、楽しむんだろう。たとえばこんな具合だ。

Temu pri Esperanto Hanamogerigita. -- 「エスペラントのハナモゲラ 化」が主題になれ。
Estu bone ke vi dormu. -- きみは眠った方がよくあれ。
Cxu ni farite de niaj malamikoj volas diri tiel ke vi kolerigxos? -- われわれの敵によってなされたわれわれはあなたが怒り出すように 言うことを欲しているか?
Kioma horo nun estas tioma horo? -- そんな時はいま何時?
Neniu pasxas neniam neniom. -- 誰も決してちっとも歩かない。

 もちろん、こんなのは初めの一歩を踏み出すための第一歩だ。そして、 こんな遊びは、エスペラントに母語話者と同等程度に習熟していなけれ ばできない芸当であることは言うまでもない。――意味をなしてはいけ ないのだから。で

 本節の出だしからすっかり道を外してしまいましたね。

 ぼくはハナモゲラをリアルタイムに知っているとは言い難いけれど、 ハナモゲラは〈ことば〉というものについてあれこれ考えさせててくれ るので好きだった。もちろん面白かった。エスペラントもまた〈ことば〉 について考えさせてくれるので好きである。願わくは面白くもあって欲 しい。

 当時、幸か不幸か、ハナモゲラをエスペラントに結びつけて考える人 はいなかったようだ(いてたまるか、との声が聞こえる(^^))。 もし誰かそんな莫迦なことを考える人がいたら、日本のエスペラント運 動は今とは少し違ったものになっていたかも知れない……かも知れない (そんなことねーよ、との声も)。

  ところで……

 エスペラントを生まれて初めて聞いた時に聞こえているものは、何な のだろうか? 「エスペラントのように聞こえるけれど、でもまったく エスペラントとは異なるもの」ができたとしたら、それはいったい何な のだろう?

(つい梅棹忠夫の随筆なんか引いてしまったけど、かたやエスペラント とザメンホフの理想主義に強く惹かれた人なのに、こちらは〈思想〉を 嫌ってみたりしゃれのめしてみたりの人間で、どーもすいません)

メタ言語――から考えは拡散する

 学び初めの頃、こういうエスペラントに関する話題はエスペラント語 で語るのがいいんじゃないか、と、ふと思いついた。

 言語を論じたり扱ったりする際には、「対象となる言語」と「対象を 取り扱う記述言語」とが存在する。記述言語は対象言語より一段レベル が高い、ないしは抽象度が高いと見る(当然といえば当然ですが)。記 述言語はまた「言語を扱う言語」という意味で「メタ言語」と呼ばれた りする。この「メタ」というのにぼくは弱い(^^)

 その頃に書いたこんな断片が残っている:

 ……メタ言語で思い出したけれど、というのは嘘で、このことばを持 ち出したくてこんな展開にしてみたのだけれど、インターフェイス言語 としてのほかに、エスペラント語がメタ言語として機能するのだったら いいな、と思っていた。言語に関する諸問題を論じる時に、民族語でな くエスペラントを使うわけだ。
 どうせ〈人工言語〉なのだから、メタ言語として振舞うのにも問題は ないと思う。もっともそのためには構文が明快であること、論理の表現 が明快であること、などが必要にはなるだろうが。

 いったいどんなよじれ脳髄がこんなことを思いつくのか、頭蓋骨を開 けて見てみたいものだが、まあ当時はそう思っていた。

 言語を扱う場の常として、対象言語と記述言語が交錯する。対象を正 確に捉え、記述レベルをきちんと分けられればいいのだが、これがけっ こう難しい。たとえば対象となる言語が日本語で、文が「隣の客はよく 柿食う客だ」だとすると、「この『隣の客はよく柿食う客だ』という文 に現れる『隣の客』は誰か。また『柿』は自宅の柿か、『隣の客』が持 参した柿か」という具合になる。

 この例ではメタ言語(記述言語)と対象言語が同じ日本語なので、どう しても混乱する。引用符(鈎括弧)で区別はしたが、音読したらごっちゃ になる。エスペラントはその〈人工性〉のために、どの民族語に対して もメタ言語になれる筈だ。ためしに上の例をエスペラントに置き換えて みると:

Cxi tie montrigxas frazo '隣の客はよく柿食う客だ'.
Kiu estas '隣の客' en la frazo?
Cxu la vorto '柿' signifas tiu(j) '柿' de la gastiganta hejmo, aux tiu(j) kiu(j)n la gasto kunportis?

といった具合になって、日本語で日本語を取り扱うよりは少しは見通し がよくなる……んじゃないかなと思ったのだ。

 学び始めのころにそんなことを考えるとは大胆不敵だが、勉強のネタ に困っていたせいもある。勉強のためにはエスペラント文をがしがし書 くのがいいのだが、適当なテーマがない。日日心に映りゆくよしなしご とを漫然とエスペラントで書けるといったら、これは相当な使い手と言っ ていい。その点まさに勉強中の対象言語は恰好のテーマだ。それに、 「エスペラントの問題はエスペラントで片をつける」というのはカッコ よい(笑)

 しかし、「エスペラントでエスペラントを語る」というのもなかなか に学力がいる仕業だとほどなく判り(すぐ判れよ<自分)、けっきょく、 何もしなかった。試みなくて正解だった。拙い「エスペラント力」で挑 んでいたら却ってひどいことになっただろう。それに何といっても、こ の方法ではエスペラントを判る人にしか伝わらない(苦笑)。

 「自分が自分のメタ言語になれるかどうか」「自己言及可能かどうか」 「自己記述できるかどうか」ということにも関心があった。

 これはとても当たり前のことで、でも重要なことでもある。

 自己記述的な文というのはどんな自然言語ででもできる:

  1. 「この文は間違っている」。
  2. 「次の文は間違っている」。
    「前の文は正しい」。

これのエスペラント版は:

  1. "Cxi tiu frazo estas falsa."
  2. "Sekva frazo estas falsa."
    "Jxusa frazo estas vera."
    (falsaは「贋の」といった意味が本義のようだが、ここでは敢えて 「偽」という意味で使っている(malveraの方がいいんだろう)。誤 用だったらごめんなさい)

 関心があったのはそういうものではなくて、「エスペラントの文法を エスペラントで記述できるか」ということだ。自身の文法を記述できる くらいに「強力」でなければ、インターフェイス言語にしろ何にしろ 「使えない」だろう。

 エスペラントで書かれたエスペラント文法というのは案外少ないよう だ。まぁ、「誰にとっても外国語」なことばだから、文法も自国語で 解説された方が誰しも楽には違いない。 神聖不可侵とされる「エスペラントの基礎(Fundamento de Esperanto)」 も、仏・英・独・露・ポーランドの5ヶ国語(これは目的が「エスペラ ントを世に知らしめる」だったから特別だろうが)。 "Plena Analiza Gramatiko"(『文法詳解』とでも訳すのかな)という本 が権威あるとされていて、これはエスペラントで書かれている(筈)が、 ぼくが買おうとした今年の春には「品切れ」とのことだった。 代わって"Gramatiko de Esperanto"(『エスペラントの文法』そのまま ですね)という本を薦められた。ぱらぱら見るとけっこう詳細に立ち入っ ているもののようで、期待している。そのくらいの本があって当然なの で、大切な文法を「よそのことば」で記して間に合わせているようでは 困る。

 こんなことが気になるのは、ぼくが“言語屋”だからだろう。プログ ラム言語の記述能力を評価する基準のひとつは、自身のインタープリタ ないしコンパイラ(ひっくるめて解釈機構)を記述できるかどうかである。 ということはまったくないが、汎用プログラム言語の場合は大きな開発 目標にはなる。なにしろその言語の解釈機構にはその言語で扱うデータ 型や制御フローがもれなく現れるわけで、それを解釈できないようでは 言語仕様に大きな欠陥がある可能性がある。テストとしても格好だ。

 コンパイラの場合は、自分自身をコンパイルできるようになると、以 降の開発は自分自身を用いてできる。ブートストラップというわけで、 他の言語のお世話にならずに自立できる利点は大きいし、可搬性を高め る役にも立つ。インタープリタの場合は、「プログラム実行中にその言 語のプログラムを読み込んで解釈実行する」機構を手にする持つことに なり、これはその言語の機能拡張上重要な機構となる(「フック」なん ていいます)。といって、いいことずくめではない。自己言及には魔力 があり、その言語を協力にもする代わりに、その言語に致命的な「穴」 を開けもする。

 ……話がそれた。これはプログラム言語の場合で、自然言語ではそん な恐ろしいことはありません(たぶん)。

表記の沙汰

 エスペラントで文章を書くとき困ることがある。

 ことばを知らないとか、構文が判らないとかいうことではない。いや、 これはこれでイカンと思うのだが、単に自分の勉強不足であることもはっ きりしているから、困るには及ばない。困るのは、引用符や句読点の使 い(こなし)方である。

 英文やエスペラント文では、次のような書き方が支配的に見える。

"Madam, I'm Adam," Adam said. Eve respondis, "Mi ne komprenas vin."

 会話文は引用符で地の文から独立しているが、文の切れ目となる句読 点は地の文とつながっていて、そこで文が切れるならピリオド(.)が置 かれるし、そうでなければカンマ(,)が置かれる。読んだ限りのエスペ ラント文はみなこの流儀だった。

 後に『文法の散歩道』(小西岳、日本エスペラント図書刊行会)を見る と、ホントはもっとムツカシイ条件分岐があることが判った。ちょっと 紹介してみる。

  1. 地の文に続いて引用がある場合は、その間を:または ,で区切る。
    Mi diris, "Estos bele morgaux." (ぼくは言った、「明日は晴れるよ」)
  2. 引用の後に地の文が続く場合、引用が.で終わってい るなら,に変える。
    "Ne pensu plu, cxio finigxis," sxi diris. (「もう考えないで、すべては終わったわ」と彼女は言った)
  3. ふたつの引用の間に地の文がある場合。
    1. 前の引用が疑問符、感嘆符などで終わる場合はそのまま。
      "Cxu vere?" mi mirigite kriis. "Cxu li malaperis?" (「ほんとう?」ぼくは驚いて叫んだ。「彼がいなくなったって?」)
    2. 前の引用が句読点で終わらないものなら、,を 付加する。
      "Estus bone," li parolis, "ke vi tuj irus tien." (「すぐにそちらに向かわれた方が」彼は言った、「よろしいかと 存じますが」)
    3. 前の引用が.で終わるものなら, に変える。
      "Vi pravas," mi respondis. "Mi rapidos." (「あなたの言うとおりだ」私は答えた。「急ぐとしよう」)
    4. 前の引用が文として完結しているなら、地の文は .で終わらせる。そうでなければ、 ,で終わらせる。
      用例は上に挙げたとおり。

 これはぼくには違和感があって、というのは、会話文は地の文ではな いのだから、地の文の構造の支配を受けるのはおかしいと思う。文が続 くか切れるかというのは地の文(の発話者)の関心事であって、会話文 (の発話者)には関係ないことじゃないか?

 日本語の文章での句読点の使い方(特に会話文の中の)は人によって さまざまだが、ぼくは次のような様式に馴染んでいる。

  1. 「閉じ括弧の直前には句読点は打たないんだよね。こんな風にね」
  2. 「慣れといえば慣れなんだけど、慣れがセンスを形成することだって ある。あの人そう言ってなかったっけ?」

 この流儀をそのまま持ち込んでみようと思ってそのまま持ち込んでみ たのだが、驚いたことに、これはこれでものすごく違和感があった。た とえば、次のように書いてみたのだ。

Mi diris, "Estos bele morgaux".
"Ne pensu plu, cxio finigxis", sxi diris.
"Estus bone", li parolis, "ke vi tuj irus tien".
"Vi pravas", mi respondis. "Mi rapidos".

 どうやらラテン文字(ローマ字)だけの文章では、「英文式」の方がしっ くりくるらしい。じっさい、よく読めば筋の通ったことを言っているの だ、上の規則たちは。

 しかし、ヤッパリ、引用文の中の句読点が引用の仕方や地の文に影響 されるのは気持ち悪いし……

 自分の態度、というか、自分のスタイルについての態度をどうしよう か、ということで、今ちょっと悩んでいる。


あたまへ


(おわり ―― 2001.08.15)





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