エスペラントの思い出

 この言語の存在を初めて知ったのがいつか、今では思い出せない。な んでこんな言語に興味を持ったのかも今となっては謎である。

 中学一年生か二年生の頃には知っていたのは間違いない。つまり三年 ほど前のことだ(しーん)。その頃、阿刀田高の『詭弁の話術』(KKベ ストセラーズ・ワニ文庫、ISBN4-584-30001-1)を読んだ。その中にエ スペラントが題材として使われている箇所がある(エスペラント支持者 の方にはお気の毒だが、この言語を賞賛する内容ではない)。これを読 んで、「ふ〜ん、誰もが簡単に使える世界語かぁ。面白そうだな」と思っ た――のかも知れない。そんな記憶がないこともない。でも後になって でっち上げられた記憶かも知れない。

 本棚にある古い『エスペラント基礎1500語』『日エス会話練習帳』 (いずれも大学書林)の奥付を見ると、これを買い込んだのは高校一年 か二年の頃と思える。なぜその頃、と思い出すと、その頃はどういう理 由か外国語に興味を持っていて、本屋で大学書林の「四週間シリーズ」 などの背表紙を見て興味津津だったのだな。『朝鮮語四週間』とか『ア ラビア語四週間』とか、なぜだか無性に買って勉強したかった。そんな 時期があった。もっともこれも逆で、本屋で「四週間シリーズ」を見か けて語学に惹かれたのが事実かも知れない。なにしろアレは表紙の書体 など古めかしく、体裁はそっけなく、そういう佇まいがちょっと興味を そそる。

 中学時代には既にそうだった筈で、というのはその頃から自分の世界 が広がり休日に隣町などに遠征して本屋巡りをするということを始めた からだが、本屋の語学コーナーで大学書林の『基礎1500語』シリーズな どをつらつら眺めるといった塩梅だったのは確かで、であれば、そんな 状態が続いた挙句高校時代に噴出してエスペラントに走ったということ かも知れない。ちなみにこの傾向は今でもあって、語学コーナーをぶら つくのは好きである。

 だからといってなぜその時期にエスペラントかという説明にはまった くなっていない。思うに、乏しい小遣いの中から何かを買うのに、さし て現実味も必要性もない言語よりは少しは興味のあるものに投資しよう、 といった動機だったのかもしれない。当時のぼくには、アラビア語より は「誰もが簡単に学べる世界語」の方が興味深かった。

 『基礎1500語』の冒頭のアルファベットや巻末の文法概要は読んだ 記憶がある。『会話練習帖』もぱらぱらめくってみた。しかし、いくら 「誰もが簡単に学べる」といっても、『基礎1500語』レベルの本を一冊 読んだだけで理解し使えるようになるほどに簡単な言語などあるわけが ない。そんなことも想像できなかったほど稚かった。いやいや、「誰も が簡単に」と強調するのは、エスペラントを普及したい立場の人として は当然の心情だろうし、またそういう人は熱意のおかげで実際に簡単に 学べたのかも知れないけれど、熱意を持たない人間が好奇心から始 めて薄っぺらい本一冊で使いこなせるようになるほどやさしいものでは ない ことくらいは断っておいて欲しいものだ。確かその頃もう 「トルストイは2時間で読み書きできるようになった」という逸話を知っ ていた気がするが、そんなのは嘘だと思った記憶も ある。

 アルファベットといえば英語のそれしか知らないごく一般的な現代日 本人中学生ないし高校生にとって、エスペラントのアルファベットはや はり違和感があった。例の「字上符」(フランス語のアクサン・シルコ ンフレクス、英語のキャレットに似た記号。エスペラントでは「小さな 帽子」ともいう)のついた文字のことだ。違和感というほど苛立たしく はなかったが、やはり奇妙ではあった。中学校くらいで「世界各地の文 字」などちょっと教えておいてもらえると、こういうことも奇異に感じ なくなると思う。また、これは『会話練習帳』の方か、「こんにちは (Bonan tagon. ボーナン ターゴン)」とか「こんばんは(Bonan vesperon. ボーナン ヴェスペーロン)」なんかは、「おおぅ、異国の ことばだぜぇ」などと感心しながら憶えたりした。ただし、vesperonを 語頭のveにアクセントを置いて憶えた。これははっきり憶えている。 「アクセントは最後から2番目の音節」なんて書かれていても、初心者 なんかこんなものだ。bonanやtagonが無事だったのは、単にこれらが 二音節の単語だからだ。

 ここまでで、「ひとつのことばで世界をつなぐ」だとか、「公平で中 立な国際補助語」とか、「ザメンホフの理想に打たれた」とか「差別は いけないんだ」などということばも意識も足の小指の毛の先ほども出て きていないことに注意されたい。これはぼくがそういうことに関心があっ てこの言語に触れてみたのでないことを示している。

 日本が誇る世界水準の殺し屋/スナイパー/ヒットマンであるゴルゴ 13は世界各国語を話す(さすが)が、その中にエスペラントもあったと思 う。それを知ったのはいつ頃か。先の中学生のころか、高校生のころか。 vesperonのアクセントを語頭に置いていたなんてことを憶えているのも、 それが実際に使われるさまを想像して読んでいたからなのかも知れない。 そんな気がする。まぁ、その程度の興味から始まったのかも知れない。 『詭弁の話術』といい、たかだかそんな発端である。

 「おはよう」「おやすみ」くらいは憶えたけれど、次の一歩で躓いた。 その証拠にこの頃の記憶に他のエスペラント文も単語も残っていない。 やはり難しかったのだ。少なくともその年頃の人間が好奇心で始めて勉 強を続けられるほどやさしいものではなかったのだろう。

 高校生のエスペラント話者、などと聞くと、その頃の自分を思い出し、 すごいなあと感心する。

 この頃エスペラントをものにしていたら自分はどうなっていただろう かと、ふと思ったりする。そして、その頃にきちんと学ばなくてよかっ たと心の底から思っている。

 勉強を進めればいずれはエスペラントないしザメンホフが唱えた「公 平」だの「中立」だの「人類人主義」だのに触れずには済まない。人が どう思うか知らないが、「平等」とか「公平」とかいうことについてけっ こー敏感な人間なのだ。今思うと小学生の頃なんか莫迦みたいに「人道 的」だった。周囲の友人がやらかすいかにも小学生的な、人を小ばかに したとるに足りない悪口や悪ふざけが許せなかったし、仲間外れやちょっ としたいじめを見たら食ってかかったりもした(でも自分でする分には 何とも思わなかったかも知れない)。そんな人間がナイーブな神経のま まエスペラントの《思想》の世界に浸ったらどうなったことか。想像す るだに恐ろしい。

 幸か不幸か、エスペラントに取り組んだのはほんの一時期だけのこと で、それからふっつりと縁が切れた。ふたたび出逢ったのは 2000年になってからで、 これまた「公平」だの「中立」だのとはまったく無関係な文脈でだった。 それでよかったと思う。そんな枕詞がついていたら、決して「勉強しよ う」などとは思わなかったのではないだろうか。こんなことを書くと世 界のエスペラント界の中でさらにいっそう居場所をなくすわけだが(爆)、 まぁそういう人間だっている。そのような、言ってみれば「異分子」 (しかしその異分子の方が圧倒的に数が多い筈である)をも取り込んで こそ《人工言語》は民族語に伍して「国際共通語」になるための地場を 確保できるのだと思う。なんて、信念があってやっているわけでもない けれど。

 この再会は奇跡的だった。エスペラントのことを見かけた雑誌も本来 こんな単語が載るような雑誌ではなかった。なおかつ、たまたまその雑 誌を整理がてらぱらぱらめくってみていただけなのだ。なんか運命的な ものを感じないこともない。ことはない(笑)。今回の偶然がなければ次 は10年後だったかも知れないし、20年後だったかも知れないし、死ぬま で再会することはなかったかも知れない。それだけのことだ。死ぬ直前 に「偶然の再会」を果たす方が遥かに奇跡的だ。それに比べれば今回は 驚くに値しない。もっとも死ぬまぎわに思い出して「ああ、勉強してお けばよかった」と後悔するようなことにはならなくてよかった。

 世界が広がったことは間違いなく、そのことについては運命に感謝し ている。この言語の勉強や実践の過程での発見、再発見、人との出逢い、 ちょいとした議論や意見交換、見方考え方の違いの確認、いずれもこの 言語の介在なくしては難しかったと思うし、見過ごして生きていったか も知れない。知ることは知らずに終わることよりよいのだ、と、とりあ えず言っておこう。

 でも、N年前に深入りしなくて、やっぱりよかったな。

(おわり ―― 2002.03.19)

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