断章
(Cxu mi povas nin nomi SAMLINGVANOJ?)

*もくじ*
今どこにいるのかというと
のほほんイタリア語独習法
「高水準」の落とし穴
Cxu mi povas nin nomi SAMLINGVANOJ?

今どこにいるのかというと

 勉強を始めて一年半が過ぎた。

 このごろはすっかり怠けて、メイリングリストで送られてくるメイル を読むくらいしかしていない。世界各地の人が参加しているので、みん なエスペラントで話している(ときどき英語やフランス語で書いている 人がいる)。

 先日久久にメイルを書いたら、ほんの数行なのに、ずゑんずゑん書け ないのに焦った。やはりことばは生もの、使い続けないとすぐ傷んでし まいます。読むだけではダメですね。メイリングリストでもっと活発に 発言すればいいのだろうけれど、どうもその気にならない。ぼくが参加 しているリストは実は「質が低い」というと侮蔑的ととられるが、でも そうも言いたくなるような発言がけっこう多い。もっと「高度な」リス トに引っ越せばいいのかも知れないが、そういうのは《思想色》が濃そ うで剣呑である。そろそろメイリングリストも卒業するべき時期なのか もしれない。

 本も読んでいない。飽きたわけではなく、読まなければならない本は 数冊たまっているし『鏡の国のアリス』のエスペラント訳とか読みたい 本もあるのだけれど、他に読みたい本や読まなければならない本がたく さんできてしまった。こういうところが独学の弱点と言える。サークル に所属していれば定期的に勉強したり会話したりで継続できる。こんな ことを言うと「では同じようにエスペラントを『ことばとして』使いこ なそうとしている有志を求めて行動せよ」とか言われちゃうのだけど、 残念ながらもっと他にやるべきことがある。今のところ優先度は低いの だった。

 これはディレッタントの限界ででもあるのかも知れない。これから、 ぼくと同じように、つまり思想共鳴とか思想先行でなくことばへの興味 からエスペラントを始めようと考えておられる方は、ひと山越えた後ど うするかを今のうちに考えておかれるとよい。

のほほんイタリア語独習法

 そんなわけで、わけでというのは接続語として変だが、今は朝鮮語 (政治的配慮を省いています)をつついたりイタリア語をぱらぱら見た りしている。

 これは予定の行動であって、エスペラントをやっつけた勢いでかねて から興味のあった民族語も少しかじっておこうという考えによる。 「のほほん独習法」を民族語に 適用する試み、と言ってもいい。(そういえば「のほほん独習法」を読 んで「この方法で朝鮮語を勉強してみようかな」と言っておられた人が いたが、どうなさったであろうか。この手法で実績が上がれば実用新案 を申請して……は冗談だけど、「のほほん留学」を惹句にして語学学校 でも作ろうと思うので、進展をお知らせください(うそ)。これ、講師 は何もしなくていいから楽だよな。でもそれじゃ生徒も集まらないか (笑))

 それで、イタリア語である。

 のほほん的にはまずは簡単な入門書、エスペラントでもお世話になっ た「エクスプレス」シリーズなどから入るべきなのだが、もはやそれも すっ飛ばしていきなり文法書を読むという暴挙に出ている。はっきり言っ てなめてかかっている。イタリア語もロマンス語の流れを引く言語で、 どころかラテン語の直系の子孫で、ロマンス語の残り香漂うエスペラン トを学んだ後ならばまるっきりの丸腰で臨むよりは拒絶反応が少ないだ ろうと思ったのだ。

 その点はほぼ見込みどおりなのだが、文法の複雑さには呆れている。 いや、難しいですね。民族語は難しい。

 名詞に性があるのは驚かないとしても、指示代名詞とか指示形容詞と かがやたらとたくさんある。なんでこんなにあるのか理解できないほど、 それは「よそもの」には不可解で不条理で不自然で不気味な眺めである。 語尾変化も複雑きわまりない。言語なら当然そうあるごとく規則的な変 化の方が多いようだが、これだけ例外も多いのでは、「総体として、不 規則に変化する」と言ってしまいたくなる。これらをその使い分け方ま で含めて憶えたとして、しかもそれはまだ人称代名詞や語尾変化だけに 過ぎないと思うと、やっぱりエスペラントの方が遥か に簡単だぜ、そりゃそうだよ簡単なように創ったんだものと思っ てしまう。

 一方で、たとえば二人称の人称代名詞はlei(単数), loro(複数)とい うのだが、これらはそもそもは三人称の人称代名詞から出張してきたも のだ。面と向かって「あなた(がた)」と名指すのは失礼という感じ方が あってのことかなと想いを巡らせたりする。こんなところから、その言 語や民族の感覚とか特徴とかが垣間見えるのは何だかうれしい。民族語 は何といってもその民族の歴史とか記憶とかを内包している、少なくと も現在の姿に過去の刻印を残しているものなのだ。これは一介の《人工 言語》にはあり得ないことであり、いくら文法が簡単だとか国際共通語 として好ましかるべき性質を持っているといっても簡単には乗り換えら れない由縁なのだろう。

 難しいという話だった。

 同じような役割の単語がたくさんあって人称とかによって使い分けな ければいけないところとか、語の変化が難しい。憶えきれない不安がの しかかる。

 難しいのだが、それでも平気な顔をして文法書を読んでいるのだから、 まるっきりちんぷんかんぷんなのではない。どころか、着実にのほほニ ストとして理解がじわじわ進んでいると思う。半年ばかりつきあえばイ タリア語の文章の輪郭くらいつかめるようになるかも知れない。そんな 感じで世界各地のことばとつきあっていけるのならいいなと思っている。

 いきなりイタリア語を学び始めたのならこうはいかなかったのではな いだろうか。エスペラントをひと通り勉強していたからのほほんと「勉 強」できるということはないだろうか。というのは、イタリア語のあち こちを見ながら、「ああ、これはエスペラントでいうとあれに相当する な」とか、「エスペラントではこうだったものがこうなるのか」とか、 「エスペラントのあの単語はきっとこれから採ったに違いない」とか思 い、それによって理解を速めている気がするからだ。新しいものに出逢っ た時、人間はつい自分が過去に知っている事物になぞらえて理解(でき たふりを)しようとするものだが、それのたとえや比較の対象にエスペ ラントを使っているわけだ。

 もちろん、英語など過去に学んだほかの民族語も比較やたとえの対象 に使われる。だからエスペラントだけのおかげではない。しかし、エス ペラントは英語に比してロマンス諸語の香りが強いことを考えると、ロ マンス諸語を学ぶのならそれに先立ってエスペラントを学んでおくとい くらか勉強が楽になる、ということはあるんじゃないかと思う。いくら か、ではあるものの。

 ともあれ、よその国のことばを学ぶのは面白い。

 英語でいう「人称代名詞の所有格や目的格」は、フランス語やイタリ ア語にはない。相当するものはあるが、所有形容詞や人称代名詞補語形 とやらになる(後者は格変化ではないのだろうか?)。所有形容詞は形 容詞であって「格」ではないので、使われ方や文法での扱いも異なって くる。ほかの形容詞と同じように係る名詞の性や数に一致する。これは 英語の所有格には見られない。翻るとエスペラントでは人称代名詞に形 容詞語尾をつけると所有形容詞になる。フランス・イタリア式である。

 あるいは、数の数え方は、20で一区切り、80は「20が4つ」とすると ころ、フランス語とイタリア語で似通っている。など、など、など。

 こういうことに気づいたからと言って何か洞察を得たり知見を開いた りということはないのだが、複数の自然言語を学ぶ――学ぶといっては 大げさならかじるのは、前頭葉への刺激になってよろしい。

「高水準」の落とし穴

 メイリングリストのひとつで、最近ひさびさに面白い記事を見かけた ので紹介する。

 いわく、「エスペラントは学ぶのが容易な言語だが、ギリシア・ラテ ン語に由来する高水準語彙がある(なぜエスペラントの語根を用いて合 成しないのか?)」云云。ちょっと意訳したところがあって、原文では 「高水準の語はギリシア・ラテン語の由来を有している」となっている。

 たびたび話題になることのようだが、「高水準語」は古代ギリシア語 やラテン語を知っているか、せめてヨーロッパ文明が身近な者にしか容 易に理解し得ず、そのような語彙の存在はエスペラントを「誰にでも学 びやすい」ものと言い難くしている、と考える人たちがいるらしい。そ してそういう人たちが次に言うのはこうだ、「エスペラント本来の語で 言い換えたり、生来の語根で合成するべきだ」。これが例の「公平・中 立」の文脈で言われることもあるらしい。すなわち、「これではギリシ ア・ラテン語ないしヨーロッパ文明に親しんでいる人間にとって有利で あり、そうでない人間に不利である。これは中立性を欠いている」。

 ヨーロッパ諸語には「手持ちの語彙で賄いきれない新しい概念は、古 代ギリシア語やラテン語の語彙を借りて取り扱う」という傾向があるら しい(ヨーロッパのどの言語もそうなのかどうか正確なところは知らな い)。それへの反省(?)も踏まえてのことだろう。ひとつの事物を指 すのに複数の語があるのは非効率的だ、「ひとつの事物にひとつのこと ば」であるべきだ、という考えも踏まえられているかも知れない。

 ぼく自身何度か述べているように、エスペラントの造語能力は大した ものだ。ある程度学んでみるとその強力さと有り難みが判る。たとえば 「言う: diri」という語を知っていれば、

といった具合に、「言う」に関連する語をいくらでも(というのは嘘だ が)導出できる。入門書に「語合成ができるから、単語をひとつ憶えれ ば30憶えたのと同じことだ」というようなことが書かれていて、学び初 めの頃にはこれに疑義を呈したこともあるが、ある程度学んでみると、 30は大げさだけれども類推しやすいのは確かである。この辺を「学びや すさ」としてアピールしたい気持もよく判るし、それはある程度事実だ ろう。この造語を徹底し、「高水準語」を除去することによってエスペ ラント習得に「差別」がなくなるなら好ましいと思わないでもない。所 詮《人工言語》なんだし、そういう実験がなされてもいいだろう。ただ し、ふたつの条件が満たされるなら。ひとつめは、

  1. ある語が「高水準語」であるかないかを判定する一般的なアル ゴリズム、ないし判定基準を提示してくれ。

 判定基準がなければ、合成語による置き換えは恣意的なものになって しまう。恣意的であることが即悪であるとは言わないけれど、恣意的な 置き換えはことば狩りに通じる危険がある。高水準語かどうか を判定するアルゴリズム、ないし何らかの客観的な基準は欠かせない。 これはすなわち高水準語の定義とは何かということでもある。

 先のメイリングリストでの発言からは「古代ギリシア語・ラテン語に 由来する語は高水準語」という意見が読み取れる。とすると、こんな例 はどうだろう。たとえば電話のことを英語でtelephoneという。これは tele(遠くの) + phone(音)に分解され、いずれもギリシア語だかラテン 語だかからとられている(筈である)。一方、エスペラントでもなんた る偶然の相似か、電話のことをtelefonoという。辞書によれば語根語 (語根に品詞語尾をつけただけの語という意味。ぼくの造語かも知れな い)だが、ではこれは「基本語(非高水準語)」なのだろうか、高水準 語なのだろうか。

 「古代ギリシア語・ラテン語に由来する語は高水準語」という命題か らは、高水準語となり、基本語彙からの合成で置き換えられて然るべき だ。たとえばforsono = for(遠くの) + sono(音)とかにでもなろうか。 そうではない、基本語なのだというなら、その根拠は何か。「短くて憶 えやすいから非高水準語彙」という判断基準はあり得る。では何文字ま では短くて、何文字以上が長いと判断されるのだろう。

 要するに、何をもって「高水準」とするかが曖昧なのだ。そんな状態 で「高水準語の排除」などできるとは思えない。できなくはないだろう が誰もが納得するものにはならないだろう。

 ふたつめの条件は、

  1. もとの「高水準語」を抹殺するのでなく、合成語と並立状 態にして、自然淘汰に委ねてやれ。

 いかに《人工言語》とはいえ、またいかなる正当なあるいは崇高な理 由があるのであれ、すでに流通している語を抹殺する権利は誰にもない。 仮に権利があり強制力があるのだとしても人は自ずと使いたい(使いや すい)語を使う。「高水準語」と合成語の両者を競争させるのが最も適 切だし、実際的である。合成語の方が支持されれば「高水準語」はやが て滅びるだろうし、それでも「高水準語」には意義があると見る人がい れば命脈を保つだろう。それで充分だ。

(「いかに《人工言語》とはいえ」と書いたけれど、民族語ですらこと ば狩りをする人は何のためらいもなく正当なあるいは崇高な目的のため にことばを狩る。《人工言語》ならその人工性ないし計画性故にこ そいっそう狩りやすいと考えられてもおかしくはない)

 この手の話題では「高水準語」の意義がまったく無視されているよう に見えるのも気になる。

 ことば(語彙)は有限である。いっぽう現実世界は無限の要素を含む 無限集合と考えられる。ことばの世界より現実世界の方が遥かに複雑だ し、現実世界は次次と新しい概念を生み出したり導入したりするし、こ とばはいつだって現実に対して遅れを取る。ことばで現実を規定しきる ことなどできない話であって、人は常に「有限のことばを用いて無限の 現実にどう対処するか」という問題を抱えて生きている。

 この問題に立ち向かおうとして、既存の語彙にない新しい語を導入し たりする。その新しい語は当然よその言語から借りたものだったり、新 しく創造した綴りであらざるを得ない。このとき自分たちとまったくか け離れた言語から借りてくるより、何かしら接点のある言語からいただ く方が普通であろう。

 「高水準語」なる語を人が(特に否定的な人が)どういう根拠で使っ ているのか知らないが、高水準という語はプログラム言語の世界にもあ るのでそれからの類推でいうと、「抽象度の高い語」ということだろう。 抽象度が高いとは「高尚でわけが判らない」ということではなく、複雑 な概念を一語で表すという意味である。「概念を凝縮する」といっても いいだろう。高水準語のこうした役割のおかげで、低水準語彙だと何十 語も何百語も費やして表すような事柄を一語で言い当て、了解すること が可能になっている。経済学的に見れば意思伝達コストの軽減に役立っ ているということだし(笑)、文化的には高水準語はやがてその言語自体 を豊かにする。

 初めは見慣れずに馴染めないかも知れない。見慣れない概念を捉える ために埃を被っている辞書から拾い出した(そして組み合わせた)語な のだから当然だ。しかし、多く使われて充分に広まれば、それは「基本 語彙」に組み入れられる。先のtelephone(英) がいい例だろう。そんな もの、19世紀以前のこの世界にはなかったのだ。まったく新しいものだ からそこらにある語彙で表すのは不適切だったので――かどうかは知ら ないのではっきり言ってここは嘘ですけれども――、いにしえのギリシ ア語やらラテン語やらの語彙(に由来する語)を組み合わせて造語した。 今では由来を知っている人などいないほどであっても、使われ始めた当 初は「高水準語」だった筈だ。

 「古代ギリシア・ラテン語に由来する語は高水準語」との仮定からす ると、エスペラントではtelefonoを嫌ってforsono = for(遠くの) + sono(音) といった「基本語根からの合成語」を採用することになるだ ろう。でも、たぶんこんな語を使う人は少ないだろう。もはや telephone(の音訳)が世界的に流通しているからだ。(繰り返しにな るが、telefono がどちらに属するのか、高水準語否定論者は明確な根 拠をもって述べられなければならない筈である)

 くだんのメイリングリストで題材に具されたのはredaktoro(編集者 の意)だった。redakti (編集する) + isto (従事者) からredaktisto と言えるのだから、redaktoroなどという語は不要だという論旨だ。辞 書にはどちらも載っている。これなど、まさに自然淘汰に任せればよい 例だろう。

 さいきんの新語では、日本語では「下部構造」とか「社会資本」とか 訳されるという「インフラストラクチャ(infrastructure, 英)」はどう だろう(ぼくは「下位基盤」と意訳している)。これはinfra(下の) + structure(構造)で、どちらもラテン語から来ているそうだ。エスペラ ントではsuba strukturoと言えて、無理な「置き換え」とも思えないか らこれでよいとも言えるけれど、suba strukturoなる語は「下の構造」 というよく判らない意味、ないしはごく一般的な意味を含んでいる。値 域が広いわけだな。それに対して仮にinfrastrukturoという「高水準語」 を導入するとすると、これは「社会生活を支える基盤」という特別な意 味、他の何ものでもないその概念を一意に指すことばになる (これはまさに英語で造語される時に無意識にせよ考慮されたことでは ないだろうか?)。

 ところで辞書をめくっていたら驚いた。紫外線、赤外線を、エスペラ ントではtransviola, trandrugxaというらしい。transは「(間にある ものを)超えて/向こうに」という意味で、光の波長、スペクトルを想 起させる要素がまったくない。英語だと

ultraviolet = ultra (超えた) + violet (紫)
infrared = infra (下) + red (赤)

で、あー紫の方が波長が短い(周波数が高い)のだなーと判る仕組みに なっている。ま、日常生活には不要な知識だと思うのでどーでもいいこ とだろうけど、なんだか英語での名前(の構造)の方がぼくは好ましい。

 だんだん話は逸れるが、エスペラントの特徴のひとつに綴りを見れば 誰でも発音できる「一字一音」があるけれど、語彙においても「一意味 一単語」――意味と単語との一対一の対応――を志していると感じられ るフシがあって、そこは好きになれない。(例証はできないけれど、同 音異義語は殆ど見かけないし、類義語も民族語に比べたら遥かに少ない と思う)。

 基本語彙が少ない数に押さえられていることは、これから学び始める 人にとっては大きな長所には違いない。けれど、習熟した人にとっては、 語彙の少なさは表現を平板にしたり類型的にしてしまう短所となる(別 にわたくしがそれほど習熟しているというわけではありません。断じ て)。「日常レベルの意思伝達に役立てばよいのであって、文学などで きなくてよいのだ」という考え方もあるとは思うが、これは次の三つの 点で大間違いだと思っている。まず、エスペラントはいやしくも自然言 語なのだから、その使い道を偉そうに規定する権利は誰にもない。第二 に、文学を著せないほどに貧弱なのだったら、日常生活の意思伝達にだっ て役立つ筈がない。第三に、仮に文学はどうでもよいとしても、日常生 活での意思伝達だって表現は多彩な方が生活や感情を豊かにするに決まっ ている。

 もっと話は逸れるが、「有限の語で無限の事象をどう捉えるか」は語 彙の水準だけでなく表現の水準でも日日起こっている。修辞(レトリッ ク)をこの観点から捉える見方もある。語彙も表現も貧弱であるよりは 豊富である方がいいと思うし、単数よりは複数の方がいいと思うし、一 様であるよりは多様である方がいいと思う。

Cxu mi povas nin nomi SAMLINGVANOJ?

 自分のことをエスペランティストと呼ばないのと同じように、 自分からはsamideanoとかkamaradoとかいう呼称も使わない。samideano はsam/ide/an/oで、sama(同じ) + ideo(観念、思想) + ano(構成員、会 員)、言ってみれば「同志」という意味になる。kamaradoは語根語でや はり「仲間、同志」という意味だ。

 これらの呼称に違和感があるのは、言うまでもなく「同じことばを使 う=同じ思想(理想)を共有している」という仮定を含んでいるからであ る。ザメンホフさんには悪いが、またザメンホフの理想に共鳴する人た ちにも申し訳ないが、世の中そんなに単純じゃないだろう。世の中を単 純で判りやすいものにしようとか理想の世界を実現しようとか思ってい るならお気の毒である。(もっとも、「同じことばを使うという志」を 同じくする者というなら「同志」には違いない)

 しかし、「同じことばを話す人への敬称」がないのも困る。ぼくは ri-istoではないが、エスペラントでの敬称であるsinjoro(男性に向け ての「〜さん」に相当)とかsinjorino(既婚女性に向けての「〜さん」 に相当)、frauxlo(独身男性への呼称)やfrauxlino(独身女性への呼 称)には違和感があり、うかつには使いたくない。ちょっと考えただけ でも、たとえば電子メイルで始めてことばを交わす時には相手の性別や 既婚/独身の別は判らないのだから、上のいずれも不適当である。いき なり呼び捨てというのも日本人の感覚には合わない。

 そこで、samlingvanoというのを捻り出した。sam/lingv/ano = sama (同じ) + lingvo(言語) + ano(構成員、会員)、日本語で言うなら「同 言語者」、方言とかになぞらえるなら「同郷人」という感じだろうか (と、ぼくが想像するだけで、人にどのように受け取られるのかは判ら ない。ぼくの造語なんだもんね(でも誰か既に創案しているかも))。 なんだかまだぎこちないが、これを使ってみようと思っている。

 自分以外に賛同者はゼロ名だろうが、思うよりいい呼称ではないかと 自画自賛したりする。エスペラントというものを離れてみても、われわ れは《思想》とか《情念》とかで結びつくより以前に強く《ことば》で 結びついている。民族語の場合はこれに加えて《同じような顔》とか 《血》とかあるいは《同じ記憶、歴史》《同じような感じ方、考え方》 を確認して安心するのであろう。だがエスペラント話者にはそのような 共通項は仮定できない。《思想》に共通性を見い出すのもナイーブで危 険と思えば、「アナタ、えすぺらんとハナス。ワタシ、えすぺらんとハ ナス。オナジコトバハナスドウシ」というところで初対面の折り合いを つけるのが妥当ではないだろうか。

 なんてね。

 エスペラント的に「よい形の」語であるのは確かだし、 「正しい形」でもあるし、高水準語じゃないし(笑)、意味も通る筈なの で、よかったら使ってみてください。

 ある時ある人がkolego(同僚、同業者といった意味)ということばを 使っているのを見た。これも悪くないね。(2002.05.07)

(おわり ―― 2002.04.12)(2002.05.07〜08.18加筆)

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