まないたのこい

ライト、ついてまっか

 「言明が計測できかつ数字で表せるなら、あなたはそれについて何か を知っている。しかしそれが計測できず数字で表せないなら、あなたの 知識は乏しく意に満たないものだ」

 ケルビン卿は取り澄ました顔で厳かに言った (*)。 卿は身長百八十三センチメートル体重七十五キログラムの体躯を高さ四 百三十八ミリメートルの椅子に沈め、長さ八六・六センチメートルの杖 を前に立てて両手を杖の上端に乗せ、さらにその上に顔を乗せるように しているのだった。

 「わたしは計測し、かつ数字で表すことができます」と彼女は言った。 ケルビン卿が促すかのように見つめているので、彼女は肺式呼吸を三回 繰り返してから話し始めた。

 「今朝は時間がなかったので朝食の代わりにある種の栄養調整食品を 食べました。栄養成分は、三十六グラムにつきエネルギーが百七十七キ ロカロリー、蛋白質二・七グラム、脂質十グラム、糖質十九グラム、ナ トリウム百八ミリグラム、カルシウム百十五ミリグラム、鉄二ミリグラ ム、などです」

 「ふむ。なかなか正確だな」正確に八文字ないし十二文字発音したケ ルビン卿だが、前頭葉の一部でシナプス五十八個が不満を訴えているの を見逃す彼ではなかった。

 「お望みなら別の種類の計測も語りましょうか」

 「いや」ケルビン卿はなぜかいささか慌てたように両方の瞼を正確 に〇・二六ミリ持ち上げて、「それは別の話じゃからな。ここでするに は及ばない」

 「先ほどの計測と数値化のことですが、だとすると、小説を含む文芸 は、語り手ないし書き手が何も知っていないという ことを如実に示しているとしか申せませんね」

 「ほほぅ。それはどうしてだね」

 「だって、小説などの文芸で計測をしていることは九九・九九九九パー セントありませんし、またその表現や描写において数値化がなされた試 しもありません。従って小説中のあらゆる言明は、作者、ないし語り手、 ないし作中人物が何かを知っているというには値しない と言えると思います」

 「それは由由しき問題だ」ケルビン卿は右手で顎を三回半撫でた。 「ある種の探偵小説、ある種のSFは 正確な事実と正確な知識 が重要になる。きみはそれ は自己矛盾の露呈でしかないと言うのだね」

 「その通りです。なぜなら、そうした種類の作品でさえ、計測が行な われ、かつそれについての言明がなされることはないからです」

 彼女は合計九万三千六百八十三本ある自慢の黒髪の一部、七千四百二 本を左手で掻き上げた。部屋の隅にいる紳士が身じろぎをしたのに気づ いて、ケルビン卿は言った。

 「何か意見をお持ちですか、ノイマン博士?」

 フォン・ノイマンは身じろぎから貧乏揺すりに移行して、正確に一秒 につき一回、体を揺すりながら言った。

 「故障をまったく排除したり、故障の効果をまったくなくしてしまえ れば問題はない。できるのは、殆どあらゆる故障に対してオートマトン が動き続けることができるよう工夫することである」 (**)

 「なるほど」彼女は頭部を正確に八度九分前方に傾けることで頷くと いう動作を実行し、その動作によって賛意を表明した。「確かにそうで すわ。小説にとっての故障とはたとえ ば、故障とはたとえば、物語が自走し てしまい作者が予め想定している筋から逸脱するなどでしょうが、それ を避けることはできない。しかし、逸脱による影響を排除したり、逸脱 の副作用をなくしてしまうなどして、どれほど逸脱しても小説が続くよ うにすることはできるし、ある意味で作家にできることはそれだけだと も言えます」

 「きみの専門は小説だからな」ケルビン卿は笑った。上の前歯が正確 に三ミリ両唇の間から覗いた。「しかし、詩の場合はどうなるのかね?  韻文の世界でも逸脱やあるいはそれに類する《故障》が起こるのかな。 起こるとすればどうするのが賢明なのだろうか」

 「もちろん詩の世界にも故障はあります故障はあります。 この場合は語の選択という行為に如実に現れるのです。特に短詩の場合、 文脈や作品世界に適合しない誤った語を選択することは極めて危険な状 況に作品を追い込むのですが、その場合にも、詩が異常終了しないよう に工夫することは必要ですし、可能です」

 「文章は用いる語の選択で決まる」とガイウス・ユリウス・カエサル は呟いた。

 ケルビン卿は彼女の知性の計測結果を確かめたかのように目を瞠った。 彼女は平常時よりも21パーセント得意気に、

 「ノイマン博士の提唱はコンピュータープログラムにも当てはまりま す。この領域ではソフトウェアの設計原則という形に昇華するようです。 すなわち、欠陥のないソフトウェアを創るために努力するのでなく、内 在する欠陥によっても致命的な損害を被らないようなデザインを創る努 力をするべきだ、と」

 フォン・ノイマンは正確に牛の反芻と同じ様子で口をもごもごさせた が、何も言わなかった。正確に言えば、彼は無言を発していた。彼は無 言を周囲に放射していた。

 「きみはまったく素晴らしい」ケルビン卿は感に堪えない口調で言っ た。「わたしは今正確にサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の壁画を見た 時と同じ感動を味わっている。つまりきみないしきみの見識はサンタ・ マリア・ノヴェッラ教会の壁画と正確に同一というわけだ」

 「恐れ入ります」彼女は正確に三十八度頭を下げた。

 「いやまったく、正確であるということほど快適なことはない」

 「誤りのない生命、誤りのない人生などないのと同様、また誤りのな いプログラムなどないのと同様、小説を含む文芸もまた誤りと不正確と を含むことを前提として構築されねばなりません」

 「先ほどわたしは感に堪えなかったわけだが、『感に堪えない』とい う状態を計測しかつ正確に言い表すためにはどうすればよいかな」

 「ドーパミンあるいはその他の脳内物質の分泌量、または脳内血液中 の含有量という形で計測可能です」

 ケルビン卿の脳内にドーパミンが30ミリグラム分泌され流れ出した。 「そうだ、そうあるべきだ」ケルビン卿は四百五十五回頷いた。

 「実のところ、この世界に正確さほど必要なものはありません」彼女 は勝ち誇ったように言った。「巷に氾濫する不正確さを見ているとだん だんこの世界に対して憂鬱にすらなります。それはつまり、不正確さは 言明にぶれやずれをもたらし、最終的には言明自身を破壊します」

 「きみの専門は論理学だからな」ケルビン卿は笑った。上の前歯が正 確に三〇センチメートル両唇の間から剥き出された。

 「まったく、不正確な論理ほど人間精神に対する挑戦はありません」 彼女は眉間に縦十二ミリのかわいらしい小皺を四千八百二十七本刻んで 憂慮を示した。「もちろん正確なだけではいけないので、加えて厳密で なければなりません」

 「そうだ、厳密でなければならない」ケルビン卿は七十デシベルの音 量の声を発した。

 ふたりは十八分五十三秒笑いあった。ケルビン卿の前歯は正確に三〇 メートル両唇の間から剥き出された。彼女は合計九千七百六十九万二千 二百七十一本ある自慢の黒髪を五十八本の指で掻き上げた。

 「ところでわれわれは何について語っているのかね?」

 「心霊現象の構造論的解釈についてではありませんでしたっけ」

 「そうだったかな。とろろ昆布の経年劣化と精神分析のイスラム教的 特性だったような気がするが。いずれにせよ、正確であったことだけは 間違いない」

 「何について語っているのかさえ判らないようなら、そのことの正確 さを云云しても意味がない」とフォン・ノイマンはうんざりしたように 呟いた。(***)

旱天の寒天の観点

 まるで漫画かアニメの世界から抜け出てきたような、見るからに現実 離れした少年がふたり、今のこの国ではどこを探しても見つかろう筈の ない荒れた野原で対峙している。一方は二十年前に死滅したと言われて いる番長の恰好をしている。もう一方はヒップホップスタイルで、アポ ロ帽をつばが後頭部になるように被っている。

 ふたりの間に、まるで巨大な送風機で起こしたかのような風が吹きす さんでいる。ふたりは、この国ではもう絶えて久しい、今ではテレビゲー ムの中でしか行なわれなくなったあの「決闘」 「決闘」 をしようとしているのに違い ない。その証拠に、事実(なにが事実だ)ふたりは今にも戦いを始めそ うにまなじりを決して睨み合っている。

 送風機で起こしたような風がひときわ強く吹き、収まった。一瞬の静寂。

 番長風がヒップホップに向かって走り出したのは、ヒップホップが動 いたのと同時だった。そして野原の真ん中でふたりは激突した。

 「ネブラスカ州立大学パーーーーーーーーンチッ!」

 どちらかの雄叫びが上がり、何かしらの技が炸裂した。片方の少年が 激突の地点から吹っ飛び、倒れた。他方の少年は仁王立ちになっている。 一瞬会心の笑みを浮かべたその顔が引き攣った。倒れた方がゆっくりと 立ち上がったのだ。

 「ふっ。おまえの必殺技はその程度か」少年は唇の血を袖で拭き、不 敵に笑った。

 他方の少年は明らかに動揺した。「まさか……おれの ネブラスカ州立大学パンチが利かないなんて」

 「こんどはこっちからお見舞いするぜ」一方の少年は喉も破れよとば かり叫んだ。 「シアトルマリナーズキィーーーーーーーーーック!」

 必殺技を食らった相手は10メートルばかり飛んで地響きと砂煙を上げ て野原に倒れ込んだ。

 「どうだ、シアトルマリナーズキック の味はお気に召したかな?」

 勝ち誇りかけた少年の顔が凍りついたのは次の瞬間だった。

 「ふふふ」

 相手の少年がすっくと立ち直ったのである。

 「さすが、ワールドシリーズに出られなかったようなチームの名がつ いただけのことはあるな。痛くも痒くもないぜ」

 「なにっ」

 「今度はこっちの番だ。何を食らわしてやろうか。 国連高等難民弁務官チョップがいいか、 それとも 経済産業大臣投げにするか」

 「ははっ。それならこっちは 黒人差別をなくす会がためだって 北方四島は日本固有の領土ですラリアット だってあるぜ」

 ふたりの少年が睨み合っているところへ、まるで漫画かアニメか青春 ドラマの世界から抜け出てきたかのような少女が走ってきた。

 「やめてよふたりとも!」と由紀は叫んだ(なぜか彼女だけ固有名詞 があるのな)。「そんなことをしている場合なの! もうじき コソボ難民星雲・カタロニア自治州星団連合軍 が地球に攻めてくるっていうのに」

 「止めないでくれ、由紀(なぜか彼女だけ固有名詞があるのな)。こ れは男と男の闘いなんだ」

 「もうっ」由紀(なぜか彼女だけ固有名詞があるのな)は焦れたよう に叫んだ。「必殺技をお見舞いするわよ。マンチェス ターユナイテッドクラーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ シュ!

 由紀(なぜか彼女だけ固有名詞があるのな)はのびたふたりを引き摺っ て野原を去った。

 コソボ難民星雲・カタロニア自治州星団連合軍 を相手に、彼ら、いや由紀(なぜか彼女だけ固有名詞がある のな)は勝てるのだろうか。果たしてマンチェス ターユナイテッドクラッシュは炸裂するのか。

 待て、次号

永遠の愛の歌

 昔むかし愛の歌を歌った。永遠の愛の歌だ。

 時は遥かに取り戻せないくらい流れた。最初にその歌を歌った時の相 手はもう疾うに目の前にいない。すべては虚無の彼方。この世界では何 もかも――たったひとつを除いて何もかも、時が無化してくれる。

 最初に歌った時の気持は今でも忘れずにいる。あの甘やかな気持のた かぶり。自分の想いとは無関係にただ生命を継続しようと打ち続ける心 筋のいつもと変わらぬ鼓動さえ切なく感じられた。心筋細胞どもは脳細 胞の都合などおかまいなしに、相手の顔を見つけるだけでどくんと、ひ とつ大きく高鳴る。ことばを交わせばそのことだけで頭がいっぱいになっ た。そんな記憶がいつまでも消えずに残っている。さすがの時間も、記 憶だけは無化してくれない。

 心を込めて愛の歌を歌った。秘かな声で、誰にも知られないように、 でも願わくは相手に聞き届けられるようにと。それは最初の歌で、最初 の想いで、永遠の歌だった。しかし、相手はやがて目の前から姿を隠し た。

 そんな時もあった。ずいぶん昔の話だ。

 それから長いこと、歌わなかった。

 歌えなかったし、二度と歌ってはいけないのだと思い込んでいた。

 たったひとりの人に、たったひとつの想い、そしてたったひとつの歌。 それが世界だった。世界はそうあるべきだった。

 今、同じ歌を口ずさんでいる。

 それでよいのだとやっと気づいた。永遠の愛の歌を、人は何度でも何 度でも歌うことができるのだと。

きみはむなしく

 「さよなら。また明日」きみはそう言って勢いよく走り出した。

 そしてきみはむなしく歩道に散った。

 なんて不幸なんだろうときみは嘆く。時折の突風に後れ毛が揺れる。 街路樹の落ち葉が肩に止まる。すぼめた肩が心の寒さを伝えて、とても いとおしく思えた。

 そしてきみはむなしく歩道に散った。

 愛を交わした後街を歩くと、よりそって歩いているわけでもないのに 両腕にきみの感触がくっきり刻まれていて、なんだかこそばゆかった。

 そしてきみはむなしく歩道に散った。

 「インターネットによるストリーム配信の感情論はマクロ経済のリス クヘッジと同値の文脈の中で語られなければならない」きみは眉をひそ めながら考え考え言った。その姿がいとおしく思えた瞬間、きみの背後 を流れる景色は色をなくして見えた。すべて溶け出してひとつのノイズ になった。

 そしてきみはむなしく歩道に散った。

 最上階にある水族館に向かう筈のエレベーター。込んでいる。棒立ち の人の間を縫ってこっそり手をつなぐ。人目を盗んでキス。ふたりは通 じている。ひそやかな温もり。ずっとその中にいよう。

 そしてきみはむなしく歩道に散った。

 「あそこで袋猫が泣いてる」きみは手をかざして向こうを見た。「助 けてあげなければ」そう言った。言い出したらきみは聞かなかったっけ。 「ちょっと待っていて」きみは駆け出した。「すぐ戻る」きみは駆け出 した。「拾ってきて育ててもいいよね」きみは駆け出した。

 そしてきみはむなしく歩道に散った。

 きみはイスラム教の精神病理学的特性について論じるのが好きだった。 民謡の構造論的解釈を話すのも好きだった。とろろ昆布の経年劣化を傾 聴するのも好きだった。きみは喧嘩をすると必ず負けた。きみは世界中 で一番弱かった。きみは夏が嫌いで、氷イチゴが好きで、寒がりの癖に 冬の夜に裸でいるのが好きでよく風邪をひいた。きみは『虹の彼方に』 を歌うのが好きだった。雨垂れを聴くのが好きだった。『迷路の中で』 と『雪白姫』と『魔界転生』と『ライ麦畑でつかまえて』と『プログラ ムの構造と実行』と『悪徳の栄え』と『夢酔独言』を同時に読み進めて 楽しんでいた。きみの写真にはよく霊が写り込んでいた。きみは平気で 霊と話していたが、怪談は大嫌いで夜ひとりでトイレに行くこともでき なかった。

 そしてきみはむなしく歩道に散った。

まないたのうえのこい

 「わたしたち、やっと一緒になれたんだね」と彼女は言った。

 彼は頷いた。陳腐な表現だ。でもこの場にはそんな陳腐なことばがよ く似合っていたし、それ以外のことばはあり得なかった。彼女は続けた。

 「ずっと、こうなりたかった」

 「ぼくもだよ」

 彼はそんな彼女をこの上なくいとおしく思ってつと抱き寄せた。

 「ずっと一緒だ」

 ふたりは抱き合った。

 「もっと言って」

 「いのちある限り」

 「もっと」

 「きみを愛してる」

 「ああ、わたしも」

 銀色に閃くものが振り下ろされて、ふたりは三枚におろされた。

まないたのこい

 好きな人ができた。

 すごく暴力的な人だ。こんな奴を好きになるなんて我ながら信じられ ない。ドメスティックバイオレンスとやらが話題になってるのに。でも、 好きになっちまったらどうしようもないんだ。

 その人が笑うと、鋭く冷たい光がこぼれる。こちらの気持などおかま いなしに好き勝手なことをする。おかげでこちらはぼろぼろになる寸前 だ。実際、そう遠くない先に体一面その人のせいで傷にまみれて、その 人が流した値が染みついて使いものにならなくなって、訳立たずにされ て捨てられるに違いない。きっとその人は以前にもそうしたように。

 それでも、好きになったらどうしようもない。

 その人はまるで「おまえはこんなことをされても何にも感じない鈍い 奴だ」とでも言うかのように斬りつけてくる。「おまえはわたしの役に 立ちさえすればいいんだ」「それがおまえの幸せなんだ」とでも言うか のように、叩いてくる。「それがわたしの愛のことばだし、それに応え ることがおまえの愛の証なんだ」とでも言うかのように、容赦なく傷を つける。鋭い刃物のように。

 ああそれでも、好きになっちまったらどうしようもないんだ。

まないたのこい

 「待ってくださいよ。そんなことってあるもんですか」

 「あるんだな。『未必の故意』というのがあるくらいだからな」

 「うむ。未必の野郎が故意を抱くくらいなら、俎がそうしたって不思 議はない」

 「切羽詰まってどうしようもなくなっての故意、ということだな」

 「ええ、まさに。未必ごときが故意を抱くのをわたしは常常懸念して おったのです」

 「待ってください」

 「…………」

 「どーしたんです」

 「いや、待っておるのだが」

 「待ってくださいとはそーゆー意味ではありません。さっきから聞い ていると、未必に対する差別意識とでもいえるものをひしひしと感じる のです」

 「何を言ってるんだね、きみぃ。そんなの当たり前ではないかね」

 「そーそー。未必なんて、普段は何もしないごくつぶしのくせにここ ぞという時になるとでかい面をする。あんなのに存在価値なんてないん だもんね」

 「それはひどい。未必だって好きで未必をやってるわけじゃないんだ」

 「お? お? きみは未必の肩を持つのかね。未必の権利を守る会の 会員かね」

 「いえ、そーゆーわけではありませんが、選択不可能な生得的な条件 を理由に優劣をつけるのは差別といわれても仕方がないでしょう。未必 は単に未必であるというだけであって、ただそれだけです。未必である からといって特別視するには当たらない筈です」

 「しかし、現に未必は何もしないじゃないか。出番が来るまではぼうっ として無為に日を過ごしているだけではないか。その点、俎は立派なも のだ。日頃から文句もいわずに下敷になって痛い思いをしているなんて な」

 「そうだそうだ。俎ほど立派な奴はいない」

 「わしもそう思うぞ」

 「その俎が我慢に我慢を重ねて、譲歩の上にさらに歩を譲って、その 挙句に堪えきれずに抱いた犯意なのだ。情状酌量の余地しかないではな いか。それだけできみ、もはや罪一等は減じられたも同然じゃな」

 「いや、おかしい。承服できません。ええい、こんなものっ」

 「あっきみっ、バッジを投げ捨てて。おい、どこへゆく」

 「放っておきたまえ。あの捜査官にはきっと未必の恋人がいるのだ。 あるいは恋人の肉親が未必であるか、自身の肉親に未必がいるか……仕 事に私情を持ち込む点は未熟としか言いようがないが、しかしそうした 熱情、正義感がなければできる仕事ではないこともきみには判るだろう」

 「はっ」

 「きみだって若い頃はそうだったのだ。まないたのこいなど認められ ないと言ってな」

 「そうでした。バッジは、わたしが預かっておきます」

 「そうしてやりたまえ」

 いったい何なんだよ、この「お話」は。

まな、いたの。こい

 「なんだ、いたのか。まな。こっちに来いよ」

ま、ないたの。こい?

 「おかしな人ね。泣くなんて」

 「だって……苦しいの」

 「判った。あなた、彼のことが好きなのね」

 「好きって……こういうことなの?」

ワイヤレス

 昔昔、まだ世界が平和だった頃、「世界」とか「平和」なんてことば もなかった頃、ヒトはテレパシーを使っていたのだという。そのうち人 人は自分や自分たちの領域を区切ることを覚え、争いを覚え、ことばを 使うことを覚え、テレパシーには用がなくなってしまったけれど、今の 人人にもその能力がかすかに残っているのだという。殆どはその能力を 呼び醒ますことなく一生を終えるが、中には遠いご先祖さまと同じくら い強い能力を持つ人もいるという。

 最近このいわゆる先祖返りが増えてきたようだ。きっと人類がどんづ まりの袋小路に入りつつあるからだろう。この先行き止まりという事態 になると進化の方向を探ろうとして無くしつつある形態や能力を取り戻 したりする、種の知恵というやつに違いない。

 だいたい《ことば》なんてものが生きていく上で不要なものであるこ とは、地球上のあらゆる生物の中で《ことば》を持つのがヒトだけであ ることを見れば判る。そして不要どころかそのおかげでさまざまな問題 が怒ったり、すれ違ったり衝突したりを際限なく繰り返しているのは、 ヒトを見ていればよく判る。

 実は、ぼくもその能力を持っているひとりである。

 《フツウの》ヒトが持っていない《特殊な》ないし《異常な》能力を 持ち合わせているが故に、人目を避けてひっそり生きているんだろうっ て? とんでもない。ひとつ場所に長くいると能力を見破られるので居 場所を転転としても不思議がられない女中をして暮らすなんて、二十年 以上も前の話。大体女中なんて職業がもう死に絶えちゃったし。

 二十一世紀の《超能力者》は大手を振って伸び伸びと生活しているし、 朗らかに街を闊歩するんだ。思いついたらすぐその場で

 (やあ、アキコか? おれ、ナツオ。昼飯一緒にどう?)

 (はい、いいわよ。二十分後に「ひまわり」の前でどう?)

 てなもんだ。携帯電話とかいうものをみんな有り難がってるけど、あ んなものに入れ込む気持が判らない。

 能力者どうしじゃなきゃ駄目なんじゃないかって? そうでもないね、 回りが無能力者ばかりだって、ひとりがこの能力を持っていれば充分な んだ。だって能力者が周囲の人の意思や感情を読み取ればよいのだし、 能力者から周囲の無能力者の精神を感応させればいいんだからね。確か に最初は気味悪がられる時もあるけれど、便利さに気づけばみんな目か ら鱗さ。だって、電話番号を打ち込む必要もないし、電話帳自体がいら ないわけだし、持ち歩く必要もないし、ってことは忘れたりなくしたり する恐れがないってことだし、いいことづくめなんだから。 どこぞではなにやら携帯電話の研究も してるらしいけど、莫迦げてるよな。無駄な努力もいいところだ。 それよりテレパシー能力を開発した方がずっといい。環境にも優しいし。 ぼくは学校でコンピュータとネットワークを専攻しているけれど、イン ターネットとかいうのもちゃんちゃらおかしい。ぼくたち超能力者はそ んなものの遥か以前から、精神感応のネットワークを築いてきたんだぜ。

 テレパシーは単純ですっきりしている。無駄がなく、美しい。回りく どいことば遣いなんてしなくていいし、相手の立場を気づかって曖昧な 言い方をする必要もない。ってゆーか、そもそも、できないし。伝えた い気持が伝わらずにやきもきすることもない。他人を誤解することもな い。コトバなんていう道具を使って奥歯の間にホウレンソウが挟まった ような思いをするのに比べて、なんと明快なことだろう。好きは好きだ し嫌いは嫌いだ。莫迦なヤツだと思っているなら莫迦なヤツと思うしか ないし、セックスしたい気分のときはセックスしたい気分以外にはあり 得ない。そうだろう? みんな何を気にして「自分の気持」「ほんとう の気持」を隠しているんだ?

 今日もぼくはテレパシーで話をする。この手の能力は使えば使うほど 強化されるというのは本当で、以前は半径500メートルとかキャンパス の中とか限定されていたのが、今ではかなり遠くの無能力者とも会話が できるまでになっている。

 しかし、最近、悩みがある。

 人間の脳の構造というのは人によらずほぼ同じである。構造が同じな ら、それが発したり受けたりする念波の周波数も大体同じになるだろう。 つまり、同じ周波数帯域に何十億という人間の念波がひしめいているわ けだ。これはアマチュア無線のある周波数帯の混雑ぶりを遥かに凌いで いる。感度がよくなったということは、これまではアンテナに引っかか らなかった無数といってよい多数の話者の念波まで受信するようになっ てしまったということだ。自分はその気もないのに、知らない人の思考 や感情がわんわんと頭の中に響き渡って、下手をすると夜も眠れない。 感度が低かった頃には気にすることもなかったのにな。

 でも、話したい相手なら一発で識別できるだろうって? 甘いあまい。 人間の脳の構造が誰でもほぼ同じなら、念波の送受信方式も精神感応の 仕方もだいたい同じになる理屈だ。同じ周波数帯に念波がぎっしり詰まっ ているだけでなく、念波通信方式も同じだから、識別などできないのだ。 正しい相手かどうか判るのはある程度読み取ってからで、多くの場合こ れでは手遅れ。切羽詰まった焦燥や、剥き出しの欲望や、ねじれた願望 がぼくの精神にどろどろと流れ込む羽目になった。

 さらに、電波が干渉するように、念波も干渉を起こすのですね。混信 が生じるみたいなのだ。

(さっきまったくあの好き好きオヤジに隣の席にはもうあいつといた娘、 今度はむかつくの客はちょー金離れがよさそうかわいかったは好き好き 別れてやるなぜ)

という、コネクションレスで順番が保証されない思考のパケット群から、

(さっき隣の席にいた娘、ちょーかわいかったな)
(まったくあのオヤジにはむかつくぜ)
(もうあいつとは別れてやる)
(今度の客は金離れがよさそう)
(好き好き好き好き)

というスレッドを復元するのは容易なことではない。終わった時にはぼ くはぐったり疲れている。別に復元してやる義理はないのだけど、そう しないとぼくが狂ってしまいそうなのだ。

 事実、ぼくは憔悴した。発狂した方がマシだとさえ思った。ある時ま ですごく便利だった通信手段が今度は自分を苦しめているなんて。この 能力を呪いさえした。

 しかし、でも、技術の進歩というのはそういうものだ。ある技術(能 力)を獲得すると、できなかったことができるようになる。その技術 (能力)はどんどん進歩してますます便利になるが、半面、それまで問 題にならなかったことが問題として認識されるようになる。その状態に 適応できるように、また技術(能力)を進歩させるなり改善させるなり するのだ。一度始まったら、止まらないのだ。止まる時は技術(能力) に不適合を起こしてこれ以上堪えられなくなった時、つまり、死ぬ時な のだ。ぼくはまだ死にたくない。

 どうしたらいい? 要するに多数の人が同じ周波数帯を使って無秩序 に思考や感情を垂れ流しているのが問題なのだ。であれば、解決策は簡 単ではないか。

 そんなわけで、「テレパシーの通信プロトコル」の開発にいそしんで いるこの頃なのである。

 やれやれ。

 作中、ケルビン卿の発言 「言明が計測でき……」は、直接には次の本 からの引用です。

『ソフトウェア文化を創る2 ワインバーグのシステム洞察法』、
G.M.ワインバーグ(大野とし朗監訳)、共立出版、1996. ISBN4-320-02707-8

 フォン・ノイマンの発言 「故障をまったく排除したり……」は、直 接には次の本からの引用です。

『一般システム思考入門』、
G.M.ワインバーグ(監訳)、紀伊國屋書店、1979. ISBN4-314-00254-9

 フォン・ノイマンの発言 「何について語っているのかさえ……」は、 直接には次の本からの引用です。

『要求仕様の探検学』、
D.C.ゴーズ、G.M.ワインバーグ共著(黒田純一郎監訳)、共立出版、1993. ISBN4-320-02352-8

(おわり -- 2002.05.08)

この物語は虚構です。登場する、あるいは引用/言及される個人、団体、 事件等はすべて架空のものです。現実世界との関連性を想起させる要素 があったとすれば、それは偶然の一致であり、作者の意図するところで はありません。
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