いねむりトムキャット

 えっちな話(たぶん)を書く。

 えっちばなしとはいえ、ここには18歳未満のよい子もたくさん見に来 てくれている筈である(定かではないが)。ここはもとより「18 歳未 満立入禁止」ではないし、そんなものに指定されたくもない。

 そこで、できるだけえっち感を薄める目的もあり、きわめて即物的な ことば遣いと簡潔で即物的な描写を心がけることにする。

 ということで、18歳未満の方は読まないでください、などとは言わな い。まー今どきこんなお話を読んでどきどきするような青少年はいない よね。いるのかしら。いたらごめんね。

そうはいっても、このお話を学校や職場など他人の目に触れる場所では 読まないように。どーなっても知りません。

(のうがきを読む)

手始めに ――礼儀正しく、(たぶんあまり)えっちじゃないえっち

 会っていきなり性交の意志を仄めかすような女性ははしたないものだ と、それどころか変態好色女だと、一般には思われている。男性の方も、 ひと目見るなり「あなたと性交したい」と言い出すような男はまず女性 に嫌われることになっている。というより、変態呼ばわりされるのが常 である。

 しかしながら、己れの心に生じた純粋な欲望の燻りを嘘の砂をかけて 消してしまうのは見方によってははなはだむごいとも言える。生物の本 性に反しているのではないか。動物の世界では、雄は性交したいと思え ば素直に性交の意思表示をするし、雌は受け入れる気があれば素直に応 じる。心と裏腹に性交に興味がないふりをするのは人間だけである。第 二次性徴期を過ぎては一年中発情期というおよそ動物らしくない動物の くせに。あるいはそれだからこそか。また、「こんな男とは性交したく ない」と大多数の女性に思われるような男や、「こんな女は抱きたくな い」と大多数の男性が思うような女、あるいは「この人にはまったく何 も感じない」と異性に思われるような男性なり女性なりがそれぞれ無視 できないほどの数存在することを考えれば、「あなたと性交したい」と 言われることはけっこう光栄なことじゃんか、とも言えるわけである。

 そこで、数え切れないほどの心の痛みを捨ててきて、今度素敵な女性 にあったら何と思われてもいいから正直に自分の欲望を伝えようと決心 した、誠実きわまりなくかつ礼儀正しい男が、失望と幻滅を顎が疲れる ほど噛み締めてきたやはり礼儀正しく誠実な女と出会う。 この辺で突如地の文の文体が変わる。

 ほの暗いバーで、お互いの存在を認めた時、ふたりはそれぞれの連れ を忘れました。女は電話をかけにいくふりをして席を離れ、店の入り口 の辺りでわざとうろうろしました。男はまるでそれを見透かしていたか のように、同じように席を離れ、女に近づきました。

 男は声をかけました。「電話でもお探しですか」

 女は振り向いて男を認めると、待ってましたとばかりにすかさず答え ました。「はい。でも、ここにはないようです」

 男は頷きました。「そうですね。ここにはないようです」

 そして女の目をじっっっっっと見つめたのです。女も男の視線を堂堂 と受け止めました。ああ、二人の間に目と目でどんな会話が交わされた のでしょうか。ふたりはそのまま何十秒も見つめあったまま、立ちすく んだように身じろぎひとつもしませんでした。

 つと、女は歩みより、男の耳元で低く囁きました。「実は、あなたに 申し上げたいことがあります」

 「何でしょう」男はさして訝る様子もなく男を見つめ続けています。

 「どんなにか不躾に聞こえることかと思いますが、どうか怒らないで ください。わたしはとても真剣なのです」

 「怒らないかどうかは聞いてみないと判りません。おっしゃってくだ さい」

 「実は……わたしはあなたと性交したくなりました」

 男は驚いた様子もなく頷きました。「わたしもです。最初にひと目見 たときから、あなたと性交したいと思っていました」

 「わたしも最初に見たときからです。わたしの方が先です。性交した い気持がふつふつと湧いてきて、高山で湯を沸かしたようにあっという 間に煮えたぎってしまいました」

 「いや。わたしの方が先にあなたを見つけて、ステキだと思ったので す。ゆるやかな衣服に隠されたあなたの肢体を想像しただけで心拍数が 高まり勃起中枢が刺激されてしまったのです」

 「いえ、わたしが先です」

 「いーえわたしです」

 ふたりはことばを止め、くすくす笑いました。そして再び見つめ合い、 互いに頷きました。

 「連れを巻いてしまいましょう」

 「はい。わたしは疲れたので先に帰るということにします」

 「わたしは明日早いので中座することにします。このビルの先の交差 点の信号のところで」

 そうしてふたりは互いに性交への期待に胸を膨らませつつ、文句を言 う連れと別れ、何の関係もないかのように別別に店を出て交差点で落ち 合ってタクシーを拾い、盛り場の裏手にある性交用宿泊所の一室になだ れ込んだのです。部屋のドアを閉めるのももどかしく男は女の体に腕を 回し腰部や臀部を猛猛しくまさぐりました。

 「わたしはあなたの服を脱がせたくてなりません」男は正直に胸の内 を吐露しました。「わたし自身の手によってあなたの裸体を明かりの下 にさらしたいのです。そうしてあなたの全身をすみずみまでかわいがり たい」

 「そうさせて差し上げますわ」女は喘ぎながら素直に応じました。 「でも、性交にとりかかる前にシャワーを浴びさせてください」

 「かまいませんとも」

 男は優しく丁寧に女を裸にしました。女の感覚からするとその脱がし 方は下手でしたが、でも手つきのひとつひとつに女体を大切にする気持 がこもって感じられましたし、内心は早く裸体を見たいのだろうに焦っ て無理に脱がせることもないのも好感が持てました。もちろん、女を焦 らそうとしていたのかも知れませんが。

 女はすっかり裸にされました。男はその姿に見とれていました。頭か ら足許まで何度も視線を往復させました。ことばにしないだけで、男が 感動しているのは明らかでした。

 (なんてすばらしい体なんだ)と呟く心の声が聞こえてきそうです。

 (そんな……そんなことありません)女は恥ずかしさに身が縮こまる 思いでした。女は自分の体を本当にぶざまなものだと思っていたのです。 しかし男の賞賛の眼差しは一向に変わりません。

 (いや、本当です。あなたは素敵な体をお持ちです)

 女はいたたまれなくなり、

 「では、シャワーを浴びてまいります。脱がずにいてくださいね。わ たしが脱がせて差し上げます」といって男に背中を見せました。浴室に 去るまで男の視線が背中から腰、臀部、大腿部を凝視しているのが手に とるように判りました。

 浴室から出ると、女は男の前に立ち、裸体のまま服を脱がせました。 上半身は体を巻き付けるようにして、下半身は跪いて股間に顔を寄せて、 脱がせました。衣服が剥ぎ取られるにつれ、息がかかるのもあったので しょう、男の性器が徐徐に勃起するのを女は凝視していました。

 「わたしの唇と舌で愛撫してさしあげましょうか」女は言いました。 そのことばが相手の男性器をさらに刺激したようです。男は答えました。

 「いえ、まだよいのです」

 男を完全に裸にすると、女は立ち上がりました。二人の顔は唇が触れ そうなほど近くにありました。とうぜん、女の固くなった乳首は男の肋 骨に触れ、男の屹立した陰茎は女の恥丘をこすっています。

 「あなたの唇はとても官能的でとても性的だ」と男は訴えました。 「吸いついてしまいたいくらいです」

 「吸いつかれたいです」

 ふたりはそこで初めて接吻をしました。初めは唇だけで、少し間をお いてお互いに舌を入れて。女は男の舌による愛撫に応えるだけでなく、 自分からも熱心に男の口腔内をまさぐります。男が接吻を止めたのは、 自分の陰茎が女の陰毛をこすって少し痛いからでした。

 「わたしもシャワーを浴びてきます」そういって男は浴室に去りまし た。女はベッドに横たわり、目を閉じて男を待ちました。

 男はシャワーから上がると体を拭くのももどかしげに女のそばにわが 身を置き、女を求めました。

 ふたりは再び接吻から始めました。男は女に被さるようにして女の口 を吸い、空いている方の手で女の体を肩から背中へ、胸へ、腰へ、臀部 へと愛撫します。女はそれに応えるように両方の手で男の体の輪郭を柔 らかくなぞりました。

 男は愛撫を続けながら接吻の対象を女の口唇から頸部へ、頸部から胸 部へ――なぜか男の唇は女の乳房を素通りしました。女は驚き、男をま さぐる手が、いやそれだけでなく体の動きが一瞬、止まりました。しか しそれは男の作戦だったのです。次の瞬間、挑むような、待ち焦がれて いるような、怒っているような、しょげているような、半分勃起した乳 首のうち、女の左胸のそれを男が包みました。女の体がびくりと震えま した。同時に男の左手がもう片方の乳首に伸びました。女は思わず呻き 声を上げ――そんなことをしてから胸部から腹部へと移していきました。 女は身をくねらせつつも男の頭部を両手でやさしく包んでいます。まる で自ら男を誘導するかのようなしぐさでした。男の唇が女の性器に達し ました。男は女を促しながら優しく両大腿部を押し開きました。 「かわいいです、とても」男の声に女は喘ぐばかりです。

 男は女性器に対する口唇愛撫を始めました。女の喘ぎの中に法悦の叫 びが混じるようになりました。男はその声に励まされるかのように、ま るで奉仕するかのように一心に口唇愛撫を続けました。女が途切れがち に言いました。

 「わたしも、かわいがってあげたいです、あなたの男性器を」

 「判りました」男は応え、口唇愛撫を続けながら姿勢をずらして女の 顔が性器に近づくようにしました。

 「あなたのも、かわいいです。男性はかわいいと言われると、イヤな のかも、しれませんが」

 「そんなことはありません。恥ずかしいけど、うれしいです」

 女は男の性器を自分の手と唇で愛撫し始めました。男はあまりの快感 にちょっと自分の動作を止めて女の行為に身を任せました。

 「どうかしましたか」

 「なんて上手なんだ。このまま射精してしまいそうです」

 「恥ずかしいわ。こんなことばかり上手になってしまったのです」

 「恥ずかしがることはないでしょう。上手であることはいけないこと ではありません」

 「いやです。あまり考えたくないの。続けてくださる」

 「そうですね。話し込んでいる場合ではありませんでした」

 ふたりは己れの唇と舌でお互いを愛撫しあいました。やがて男は言い ました。

 「ちょっと上になってもらえますか」

 「判りました。こうですか」

 「そうです。よい感じです。あなたの乳房がわたしの腹にぐにゃりと 押しつけられて、なんだかくすぐったいです」

 「恐れ入ります」

 男は両手で下から女の体をゆっくりと撫で回します。

 「またさっきのようにわたしの性器を口で愛撫してください」

 女は焦らすように男性器に接吻し、舌を伸ばしてちろちろと舐めました。

 「こうですか」

 「はい、その通りです。ああ、なんだかとてもよい気持よいです」

 「舌のざらざらした感じを好む男性は多いようです」

 「それでいて柔らかく、まるで軟体動物のようにくねくねと動く感触 がたまりません。もちろん口唇による愛撫も同様です」

 「全体のバランスに気をつけることと、一本調子にならないことが大 切です」

 「こうして見上げると、あなたの性器は本当にかわいらしい」

 「お恥ずかしい限りです」

 「……それに、とてもよい匂いだし。おいしいです」

 「やめてください、そんな……あ……」

 「ほんとうです。鼻腔の奥をくすぐるこの甘酸っぱい匂いはとても食 欲をそそりますし、陰唇を舐めた時に舌の上に広がる味はまったりとし てそれでいてしつこくない」

 女は男の描写を聞きながら陶然として男の今やすっかり張り切った男 性器を舐め回しました。

 「黒黒とした若若しい叢から陰核が控え目に顔を覗かせている。陰核 とは女性の外陰部にある小突起のこと。陰挺{いんてい}とも言うそうで す。この『梃』の字は梃子{てこ}の意味ですね。さね、おさねとも言い ます。雅語、つまり日本の中世の上品なことばでは『みほと』と言うよ うです」男は慇懃な上に知識も豊富だったのです。

 「わたしはおさねと呼んでいます」女は男性器を頬張ってくぐもった 声ながら正直に告白しました。

 「おさねちゃんが勃起してきました」男は言いました。「あなたのお さねちゃんは素直ですね。舌で這わせるとそれに反応して徐徐に勃起し てくるようです」

 「あなたのせいです」女の声には喘ぎが混入しつつありました。

 「陰核包皮を囲むように育っている小陰唇は短くてしかしふっくらと していて、性器全体にやさしい印象を与えている」男は描写を続けまし た。「そしてその中に隠れている膣は濃厚な蜜をたたえて男根が訪れる のをひっそりと待ち受けているかのようだ。すべてがくすんだ桃色と淡 い陰影で彩られている。美しい」

 男はことばを続けつつ舌と唇を女性器のあちこちに動かすのを止めま せん。

 「いや。言わないでください」女は男の上で身をよじらせた。「恥ず かしい」

 「愛撫を続けて」

 「ん……」

(なんかなかなか終わりそうもないのでこれでオシマイ)

愛の計測

 「じゃあ、計測しようか」と常盤貴子は言った。

 「そうだね」深津絵里は頷いた。 「計測しなければ意味がないもん ね」

 「そして、数値化しないとね。全裸になって」

 深津絵里は全裸になった。常盤貴子は巻尺を取り出した。

 「バスト八〇・六……ウェスト六〇・三……ヒップ八八・一。股下 は……六九・四センチメートル、と」

 常盤貴子は数値を読み上げながらノートに記入した。

 「乳輪の直径……右、二五・四ミリ、左、二八・二ミリ。へえ、絵里、 乳首大きいんだね」

 「貴子は小さいの」

 「うん。これよりはちいさい。ていうか埋没してんだよね」常盤貴子 はこれをつんつんつつきながら羨ましげに言った。

 「そういう人、けっこういるよね」

 「ふーん、こりこりしてる。それに乳輪から乳首にかけて小さなつぶ つぶがあって」

 「やめてよ。大体、それは 描写であって 計測じゃないよ」

 「そうか、ごめん。では続けましょう。」

 視線を少し上げて一度小さくこんもりとした柔らかそうな叢に目をや ると、もう少し目を上げて顔を見つめ、

 「ここに横たわって脚を開きなさい」

 深津絵里は言われるがままにここに横たわって脚を開いた。常盤貴子 は下腹部に屈み見込むようにして覗き、ノギスを取り出して計測を始め た。

 「陰毛の密度はと……一平方センチメートル当たり八十八本。ちょっ と濃い方かな」

 「そう? 自分じゃ薄いと思う」

 「濃いよ」常盤貴子はむきになったように、「濃い方だって」

 「なに、あんた実は薄いの?」深津絵里は意地悪げに笑って常盤貴子 を見上げた。「ははん、薄いんだ。だからそう言うんでしょ」

 「そんなことないよ」常盤貴子はやや赤くなって口を尖らせた。

 「いいのよ、こういうのは個人差だからね」

 常盤貴子は深津絵里のからかい気味のことばが聞こえないかのように 「続けるよ」と言って、

 「えーと陰毛部のおおよその面積は……短径×長径×円周率として…… およそ三十六平方センチメートルというところね」

 「そんなもの測って何になるのよ」

 「濃い上に面積広くない?」

 「普通こんなもんでしょ。あ、あんた薄い上に狭いんだ」

 「わたしの方が普通だよ」

 「子どもだ、子ども」深津絵里は囃すように言った。常盤貴子はむっ として、

 「あに言ってんのよ。ぼうぼうしてる方が気持悪いしだいいち怖いよ」

 「どこが怖いの。誰が」

 「ひみつ」

 「秘密じゃないでしょ。……もう、今度はわたしが測るからね。巻尺 貸して」

 深津絵里は起き上がると常盤貴子の手から巻尺を奪い取り同時に常盤 貴子を押し倒した。

 「さあ。全裸になりなさい。わたしのように」

(終わりどころがないことが判明したのでこれもここで打ち切り)

愛の必殺技

 「セカンドスプラッシュハリケーーーーーーーーーーンッ!」

 女が叫ぶと同時に、男は弾き出されたようにベッドから舞い上がって 天井に激突し、その反動でまた床に叩きつけられた。天井と床に夥しい 血や体液が飛び散った。

 「……ぐふうっ」男は妙な呻きを漏らし、がくりと首を垂れた。口か らは真っ赤な鮮血が、陰茎からは白濁の精液が際限なく噴出していた。

 てなお話ならばそこらに掃いて捨てるほどあるし、こーゆーことなら 山田風太郎という大先達がおられる(ご冥福 お祈り申し上げます)。ので、各自こぞってそちらを貪り読むように。 おしまい。

♀♂♀

 そういうことではなくて、きっともっと日常的というか、ありふれた というかさりげないというか、一見何でもない技、でも確実に決まる技、 きみの恋人がきみに仕掛けたり、きみが仕掛けたりして、ふたりの仲が うまく行っていない時とか、今夜は絶対愛してもらわなきゃなんて時に 使う、そういう技なんだろうな。

 ほら、きみにも少しは心当たりがあるだろう? ちょっとした愛の必 殺技。

 思い出しなさい。そして反芻しなさい。どれだけ《必殺》だったか、 的を外したことはどれくらいあったか。

 あ、いやだ。えっちだなあ。

即物的な性表現

 もやもやとした春の宵。

 ふたりは性交目的でデートをしていた。

 出会った晩に勢いで性交してしまい、それがきっかけで交際を始めた ようなふたりだったが、そうは言ってもまだ二ヶ月めでは、性交が目当 ての逢引であってもそれなりに雰囲気が必要だし、おろそかにしている わけではなかった。なかったけれど、この日はふたりとも特に性交のこ とばかり考えていた。

 喫茶店で話し込み、映画を観て、軽い酒を飲みながら食事をし、思惑 どおりに欲情してきたので金子賢は彼女に性交を要求した。内山理名も またいい塩梅に欲情していたので同意した。ふたりは適当な場所の適当 なラブホテルを探し、適当な部屋を選んで入った。安い部屋ではなかっ たが、その割には洒落てもいなかった。性交そのものが目的であるふた りは気にしなかった。少なくとも性交気分を高める程度の雰囲気は醸し ていたし、舞台装置に頼らなくともふたりのやる気は満ちに満ちていた。

 時間がないので服を着たままでいいと賢は言った。理名は本当はいや だったが、実際に理名には門限が(いちおう)あるので同意した。

 理名はごく平均的な女性であるから、できるならシャワーを浴びるな どした上で性交の場に臨みたい。しかし、理名は着衣性交が賢の趣味で あることを判っていた。時間がないというのは口実でしかない。その証 拠に、いつも賢は長いし、殆ど常に複数度の性交に及ぶのである。けっ きょくのところ男というものの脳髄の大半を占めているのは射精するこ との一点であって、肌身の触れ合いとかそれによる心の交流とかはどー でもよいことなのだ。そうに違いない。そうに決まっている。こんな男 とは別れてしまえばいいのだが、性交感覚というか性交嗜好が合ってい る感じがして、今すぐに別れる気にはならない。

 欲情しているふたりは着衣のままそそくさときわめて即物的に性交し た。彼はやはり長かった。理名にはとてもとても不思議なことに思われ た。互いに裸になる、あるいは服の脱がせっこをするというのも前戯の 一種と考えられるが、それを省略するというのはやはり「可能な限り速 かに射精する」ことが第一目的なのではないのだろうか。その割には賢 は着衣を性交可能状態にしてからもすぐに陰茎を女陰に挿入するわけ でもないし、挿入してからもいろいろしようとする。体位を変えたり、 衣服の下に手を入れて乳房や臀部にたっちしたりなどである。この辺の 賢の真意はよく判らない。もしかしたら「着衣のまま性交する」とい う行為そのものに純然たる性衝動を感じる男なのかも知れない。早い話 が賢は性倒錯、俗に言う変態であるか。しかしある学者に言わせると 人間の性嗜好に正常も変態もなく、すべて異常性愛すなわち変態である そうだ。「正常」とされる性愛形態ですら後天的に獲得した「人工的な 正常」だそうだから、それに比べると賢が変態であるとしても明示的 で判りやすい変態であると言えるわけでその方がましとも言えるのでは ないか。理名にしたって着衣性交自体はさほど厭ではなく、むしろいさ さか興奮の度合いが強いといってよかった。厭なのは着衣が皺になって しまうこと。だってそうでしょ。スカートにめくり皺、ブラウスに寝皺 をつけたまま街を歩くなんて考えただけでぞっとするわ。でも服着たま まするのはそんな厭じゃないな。だってこんなに、あ、ちょっと賢、 あ、あ。

 てなことを考えているうちに終わったので、理名はさすがにせめて下 半身だけでもシャワーを浴びようと下半身を覆う衣類を脱いだ。その姿 がまた賢の劣情を誘ったらしく、喉の奥で妙な声を立てつつ彼女に迫っ てきた。いつものことではあるが理名も実は一度目はもの足りなかった ので応じることにした。また門限を破ることになりそうだ。

 ふたりとも服を着たまま、また長い長い第二回戦が行なわれた。一度 目でも充分そうなのだが、二度目ともなると服を着ているという状態か らは程遠くなる。それにやはり汗をかく。今度からジャージでやる方が よいような気もする。ブルマーなら賢の興奮もいや増すのではないか。 今度からのデートはそれで行こうかな。てゆうか、もはやデートなんて まだるっこしいことはしなくてよいのではないか。どうせもともと性交 が楽しくて交際しているようなものなのだ。確かに事前の雰囲気の醸成 はそうだよな、それでいいよな。どこかのホテルで待ち合わせる。ある いは駅から直行する。チェックインを済ませ入室直後に可及的速かに着 衣のまま性交。衣服の乱れを整え、チェックアウト。別れる。つごう二 時間ジャスト。無駄もなくお互い一日を有効に使える。わたしだってそ の前はゆっくり掃除なんかしていられるし、その後は買いものにも行け るし。あ、また、賢のばか。服着たまんまでそんなとこそんなとここ らこら。あああああああうあうあう。

 ふたたび絶頂に向かいながら、所詮性交なんて粘膜のこすり合いによ る快感の追及でしかないよなと、理名はぼんにゃり思った。

 もやもやとした春の宵だった。

性交商

 愛人、いうことばを聞くとなぜか「女性を侮蔑している」と怒る人が いるそうだ。

 主として人道的な観点から述べられるのだが、問題は「人権的・経済 的に対等な関係を結べていないことだ」という意見を持つ人もいる。販 売者・仲介者・購買者が対等な関係を結べるなら、性労働、性商売を 『悪い』と決めつけることはないだろうというわけだ。すなわち、販売 者は己れの肉体自身や労働や技術を適当な価格で販売する。購買者はそ の対価を支払う。仲介者は販売者の競争力や相場から適正な手数料をと る。「職業に貴賤はない」というのは二十性器、もとい二十世紀に既に 確立した職業観であるから、先の関係が成り立つならば、性的商行為自 体を非難する理由はなくなる。おお、確かに一理あるではないか。もち ろん、現実は販売者が一方的に搾取される(ことが非常にしばしば多い) ので、先の関係を成り立たせるためには政府・与野党をはじめ関係各省 庁の尽力が不可欠ではある。

 注意すべき点があるとすれば、性の公正な市場化が実現したとして、 市場経済の論理からしてすべての肉体が同一価格で取引されるとは考え にくい。どうしても価格競争が発生するだろうし、買い手がどこに価値 を認めるかによっても販売価格は変動しそうである。性労働者Aと性労 働者Bの価格の違いをどのように説明すればいいのだろうか。

 しかし、以上は前置きですらない。

 「金の力で女性を束縛するなど人権侵害である」という考え方なんか ちゃんちゃらおかしいぜ、と、県立P高校一年生・前田亜季は思うので ある。いったいいくら支払われれば人権が侵害されるというのだろう?  月百万? まさかまさか。一千万? へへーんだ。一億? なんのな んの。たかが金銭で侵されるほど、わたしの人権は安っ ぽくないわ。

 前田亜季はまさに「商取引としての性愛行為」を実践しようとしてい た。

 亜季は中学二年生の頃に不登校生活を送ったことがある。きっかけは 他人から見れば、そして自分で振り返っても他愛のないものだったが、 本人はひどく落ち込んだ。その頃から自分ひとりで何ができるのだろう と思うようになった。答はいつも「何もできない」だった。自分はひと りでは生きていけないか弱い存在なのだと痛感した。亜季は自問自答を 繰り返し、その度にやりきれない気持になり、その《解決》を自慰に見 出した。文字通り自らを慰めたわけである。しかし、ある時自慰に耽っ ていてふと発見した。性商売なら、確実に自分ひとりでできるので はないか。中間搾取が発生するのは斡旋を頼るからである。産地 直送の直接販売なら、悪質な仲介業者の介入を避けることができる筈だ。 加えて、昨今の風潮は若い女性であればあるほど価格が高くかつ男性の 購買意欲をそそるものであるらしい。これは言い換えれば売り手市場で ある(いま現在の亜季にしてみれば)ということであって、これに乗じ ない手はない。すっごーい、いい思いつきじゃない。我ながら冴えて るゥ、あ、いく。亜季は自画自賛しながら絶頂に達した。

 そういうわけで、目標を持った亜季は登校生活に復帰し、親も驚く熱 心さで県下の名門P高校を目指して勉強した。高校の評判も価格に反映 すると知ったからである。その一方で弁護士を探すのも怠らなかった。 世間の泥にまみれた薄汚い大人の男性に騙されることなく適正な契約を 結ぶためには腕利きの弁護士が必要と判断したのだ。果たして望みどお りの弁護士が見つかった。県下の法曹界で名を馳せながら愛人としても 活躍中の女弁護士で名前を中谷美紀といった。

 「《自立した女》のくせになんで愛人なんてやってるのかという人も いるけど」と中谷美紀は言った。

 「それ以前に《自立した女》と《愛人》を両立できるのか、矛盾では ないかという人もいるけどね。それは考えが古すぎるってもの。愛人で あるということは少なくともひとりの人間に女として認められていると いうことですからね。愛人になれるというのは女の自尊心をくすぐるの です。しかもお手当てつきよ。よく『女と男は対等なのだから対等の関 係を』なんていう人がいるけど、莫迦なんじゃないかな。まず、愛人手 当てによって『肉体・性技・心遣い・その他の奉仕。あるいは存在その もの』と金銭とが価値交換されるのだからこれは対等な商取引と見なし ていいでしょう。手当てが低いのが問題なのだとしたら本来成立しない 取引をしているわけで、そんな取引をしている方が愚かだし、その女の 価値に見合う対価が支払われているなら、誰も文句を言う筋合いじゃな い筈。人道とか人権とかいう問題にすり替えるのは卑怯ってものだわ。 百歩譲って愛人専業ならともかく、わたしみたいな職業人にとっては、 対等性なら昼間の仕事で力を見せればいいわけでしょう。夜の世界には 夜の論理が働くのであって、夜の世界を昼の論理と倫理で裁くのは無毛っ てものだわ。わたしは昼間は性のない人間だけど、その分夜は性まるだ しになるわけよ。それも知性あふれる、ね」

 一ヶ所、ことば遣いにおかしいところがあったけれど、亜季はたいへ ん感動した。

 「あたしも立派な愛人になれるかな? 立派な、というのは稼げる、っ てことだけど」

 「なれるわよ。努力次第でね。今のあなたには充分な性技も寝物語に 気の利いた会話を交わすだけの知性もないでしょうけど、その分若さが ある。今どきの男性は性愛の技巧は無視して若年性にのみ価値を置いて いるからね。盲目的にぴちぴちを好むのよ。はっきり言って莫迦。若さ に対価をもらっている間に、知性も性技もおいおい磨いていけばいいの よ」

 亜季はますます感動した。人生の師さえも得た思いになりいっそう勉 学に励んだ。そして無事P高校に合格すると、入学式が終わるや否やさっ そく自分を販売にかかった。性愛に関してろくな技術を保有していない のは事実だったが、自分が高く売れることを露ほども疑わなかった。果 たして顧客はすぐに見つかった。中谷美紀の進言を取り入れて最低落札 価格を高めに設定したのだが、入札価格は予想の三倍だった。

 (いやー、読みが当たり過ぎたわこりゃ)亜季は驚き喜びいそいそと 弁護士を通じて基本契約書を取り交わした。(あたしって値打ちあるの ね。うひょひょ)

 最高額を投じた男は渡部篤朗と名乗った。待ち合わせ場所に現れた男 は不精髭さえ生やした一見冴えない三十男だった。大丈夫かこいつ、と 一瞬思ったが、彼はバブリーな独身青年実業家なのだと言った。亜季は おざなりの質問をした。

 「どうして結婚しないの」

 「そんなかったるいことしないよ」渡部篤朗はへらへらして聞こえる 口調で答えた。「結婚というのはな、本来対等であるべき男女関係を歪 ませねじれさせる旧弊であり悪弊なんだ」

 「どういうことですか?」

 「性行為って本来対等な存在どうしの関係だと思うんだよな」

 渡辺篤朗はだるそうに話を始めた。

 「動物の世界なんて引き合いに出すとまた話がややこしくなるから止 めておくけど、まあ『子孫を残す』だの何だのかしこまったことは大義 名分で、けっきょく性交に勤しむのはそれが気持いいからだろう。快感 の獲得という方向性において男女に区別はない筈で、お互い自分が快感 を得られるように努力すればいい。もちろん独りでよがればよがるほど 相手は白けるわけだから、お互いがお互いを楽しませるよう大いに励む べきだ。気持のいい相手を求めて性の遍歴を重ねてもいいし、一番の相 手を見つけたらそれとだけまぐわうのもいい。飽きたらどんどん乗り換 えたっていいさ」

 「結婚はその、性の本来の在り方を束縛し変質させてしまうってこと?」

 生意気盛りの亜季は知った風なつっこみを入れた。渡辺篤朗は鼻で笑っ て、

 「それもあるけど、婚姻によって性交渉が義務化してしまう弊害の方 が大きい。もちろん何千年に渡って世界中の部族民族で守られてきた制 度だから利点もある。つまり性交の相手を探す労力を節約するとか、繁 殖の確率を高めるとかだな。しかしどんなシステムにもいい面と悪い面 がある。制度の確立に伴って道徳とか倫理とかいうものが形成されて決 まった相手以外との性交は悪と見なされて禁止されたりした。一方決まっ た相手との性交は単なる義務に堕してしまった。義務は苦痛だ。義務は 代償を求める。男にとってその代償は、女が家事の切り盛りをすること だったし、女にとっては男が自分を含めた家族の食い扶持を稼いでくる ことだった。こうしてますます性交は本来の自由と躍動と輝きを失い、 『何かのためにするもの』に落ちぶれてしまった」

 渡辺篤朗は気だるげに続けた。

 「やがて今度は女が不満を持ち始めた。家事労働の負担の『不平等』 とやらが気になり出して、家事もまた労働だなどと言い始めた。確かに 家事は重労働だ。『そのために家に縛られている』という感覚も無視で きない。女たちは自分たちの置かれた立場を不公平と感じ、改善を要求 する。しかし性交相手の単一化としての結婚という観点から見た時、こ れらは枝葉ですらなく、お門違い、筋違いも甚だしい。なぜならそれは 結果であって目的ではない。そもそも公平・対等であろうとして性交相 手を限定するのではないのだからな。システムの帰結でしかないことに 大騒ぎするほど、もはや本来の在り方とか由来なんかからすっかり遊離 しているわけだ。しかし女たちの不満は止まらない。もちろん、男にとっ ても同様さ。今の時代を見たまえ、お互いがお互いに不満を持っている。 不幸なことだ」

 「つまり、性交の自由を留保したいがために結婚をしないってことで しょ。普通じゃん」

 渡辺篤朗の言い分を理解しつつも、突っかかるのが楽しくて、亜季は 顧客に対してあるまじき生意気な態度を崩さなかった。この辺がプロの 愛人には及びもつかない若さ故の未熟さというものであろう。渡辺篤朗 は気だるげに苦笑した。

 「判ってないなぁ。単に自由ということじゃない。おれは女と交わる なら対等な関係のもとで交わりたいわけですよ。変な拘束もなく。ねじ 曲がった義務も負わず。性の喜び・楽しみ・快感・忘我の境地を純粋に 追求したい。可能ならば相手の女性とともに、ね」

 もちろんそれは亜季の望むところだったのだ。このおぢさん、見てく れはくたびれてるけど、なかなかいいぞ。いや見てくれだって、一見冴 えなそうだけれど実はそーとーいい男ではないか。亜季の熱い視線を軽 くいなして渡辺篤朗はさらに続けた。

 「でもまあ、性交の本来の意義を見失わないまま婚姻関係を結べるな らそれもいいけどな。でも今言ったこと以外にも弊害はある。家庭とい うものはいったん築くとそれを保持するのが最大の目的になってしまう。 そもそもは別の目的のために家庭を得た筈なのに、家庭を守ることが家 庭の目的になってしまうんだ。手段の目的化ってヤツだな。これほど生 産性を損なうものがほかにあろうか。いやない(反語)。というわけで、 おれは結婚しないんだ」

 亜季は深く頷いた。

 「なんであたしみたいに若い女を愛人にしようと思ったわけ?」

 「おれは今どきの男性さ。つまり、はっきり言って莫迦な男なんだ」 渡辺篤朗はにっこり笑った。「だから盲目的にぴちぴちを好むのだよ。 もちろん、若ければいいってものじゃない。容姿や体型の美醜といった 側面については、申し訳ないが差別的な選択をする。つまり同程度に若 い女性がいるなら、自分の好みに合う方、率直に言えば美人だとかかわ いいとか感じる方を選ぶ。これは好みの問題だからね」

 「なんであたしみたいな若い女が愛人になろうと思ったのか不思議じゃ なかった?」

 渡辺篤朗は不可解そうな表情を見せた。「ぜんぜん。そんなことを穿 鑿しても意味がない。おれにとって大事なことがあるとすればだな、相 手の職業意識が高いことだ。つまり愛人という関係や立場を勘違いした り、利用しようとしたりしないことだ。それが約束されるなら、相手の 理由や目的や動機なんかどうだっていいさ」

 亜季はすっかり嬉しくなってしまい、愛人についての自分の考えを (半分くらい中谷美紀の思想が混入したものではあったが)開陳した。 渡辺篤朗は頷きながら聞いていた。そして言った。

 「若いのにずいぶんしっかりしているな。これならいい関係を作れそ うだな。よろしく頼むよ」

 「ひとつ、お願いがあるの」亜季は思いついて言った。話を聞く限り、 この男になら頼んでも大丈夫だろう。「ご覧のようにあたしは若くてぴ ちぴちだけど、性技の方はいたって未熟者なの」

 「まあそうだろうな。きみくらいの歳で性技に熟達した女子なんての は、正直に言って気持悪い。無理やりそうならされたのなら気の毒だけ れど、そうでない限り、やはり人生の選択を間違えているんだと思う よ」

 「あたしはプロの愛人になりたいの。だから、そのために、いろいろ 教えてくれないかしら?」

 渡辺篤朗は渋く笑った。「教師と生徒の関係を結ぶってことか。その 分、対等性は崩れてしまうぜ。きみはそれでいいのか」

 「かまわないわ。ていうか、崩れないと思う。つまり、あなたはあな たで好きなことをしていいの。あたしが勝手に学ぶから。ただ、遠慮と かしないでやりたいことをして欲しいし、やらせたいことを要求してく れればいいのよ。あたしが未熟だったり下手だったりしたら叱ってくれ てかまわないし、もし教え込みたいことがあれば教えて欲しい。どう?」

 「教育とか調教とか育成とかの領域に入るな。きわどいところだ」

 亜季はここぞとばかりとっておきの媚びを見せた。「でも、若い人間 を愛人にする愉しみのひとつは、間違いなくそれでしょう?」

 渡辺篤朗は苦笑した。「そうだな。まあともかくそれで始めてみるか。 手当てどおりの値打ちがないと思ったら契約を打ち切ればいいんだしな」

 「そうそう。自分の値打ちが上がったと思ったら値上げ交渉をするし、 手当てが低いと思ったらあたしから契約を打ち切るし」

 ふたりは見つめあって笑った。

 こうして亜季の現役女子高校生愛人生活が始まった。えっちな話とし てはむしろこれからが本題の筈だが、飽きてきたので例によってこの辺 でオシマイ。

恣意的で示威的な自慰

 広末涼子は自慰にはまっていた。

 一ヶ月ばかり前のある日、いつものように恋人の竹之内豊と性交した が、どうも思わしくない。竹之内豊は決して性技が下手ではないし、む ろん広末涼子は彼女を絶頂に導く要素として技巧は二の次でむしろ自分 を扱う時に感じ取れる男性の愛情や愛着の方を遥かに重視しているのだ が、その日に限って竹之内豊はろくな執着も見せずおざなりの愛撫で自 分だけ先に果ててしまった。

 「疲れているんだ」と竹之内豊は言った。確かにこの二週間ばかり深 夜残業と休日出勤が続いて竹之内豊は疲労の極にあった。

 「それに加えてこの二週間精液が溜まりに溜まっていた。一方きみは 二週間ぶりの性交の喜びにおれを必要以上に執拗に愛撫した。これら要 因が相まって早過ぎる射精につながったと見るべきだ」

 そう言って男はさっさと眠ってしまった。

 それはそうなのかも知れないけれど。女は(どーして男は性交を終え て眠る時向こうを向いて眠るのかしら)と恋人の背中を眺めつつぼんや り思い、かつ自分の中途半端な欲情をどう処理すべきか想いを巡らした。 これは放置すると不良債権になってしまう。そこで彼女は自慰を試みた。 行なってみるとなかなかに具合がいい。ごくごく標準的な手法を用いた ので新しい快感を開発したわけではなかったが、それでも他者に与えら れるのと自身で掘り起こすのとでは異なる気分がした。ってゆーか、緩 急も序破急も起承転結も己れの制御下にあるというのはそれ自体が快感 のようであった。

 あまりよいので、眠り込んでいる竹之内豊をよそに広末涼子は続けて 三回ばかり自慰をした。おお。こりゃいいわ。広末涼子は満足かつ納得 して自分も眠りについた。

 それ以来、広末涼子はことあるごとに自慰に耽るようになった。きっ かけはなんでもよかった。むしろ自慰したさに言いがかり的にきっかけ を見い出していると言ってよかった。テレビで旅客機自爆テロの映像を 見てショックを受け、自室に駆け込んで自慰をする。難民の映像を見て 涙を流しながら自慰をする。自衛隊の海外派兵を憂いながら自慰をする。 ユーロが流通を開始したニュースを見て、ユーロ紙幣を想像しながら自 慰をする。友人と電話での長話が盛り上がったといってこっそり自慰を する。ワールドカップでゴールが決まる度に自慰をする。しかも、一度 始まるとかなり長く続くのだった。部屋に籠もったら一晩くらいは出て こず、同居人はとても迷惑していた。その上持ち前の無邪気さで、人前 で平気でスカートをまくり上げ/あるいはジッパーを下ろして下穿きに 手を突っ込むことすらあり、同居人は非常に困惑していた。

 研究熱心な広末涼子は自慰の方法論を研究していたのである。彼女に 言わせれば、といっても誰も彼女に何か言わせたいとも思っていなかっ たが、己が欲情の高まりに身を任せてひたすらに性器を刺激するのは愚 かな振舞いであって、人間たるもの意図的意識的な自慰を行なわなけれ ばならないのだった。目的意識の高い自慰こそ人間の人間たる由縁であ り、その行為によって自らを精神の高みに飛翔させることができる。そ うでない、欲情に任せた自慰は彼女に言わせれば(誰も言わせたいとも 思わないが)自らを快感機械と堕すに等しい、非人道的な行為なのだ。 まさに緩急や起承転結を制御し、意志的に絶頂を迎えるその方法を広末 涼子は研究した。これを自慰の方法論と呼ばずして何と呼ぼう。

 というのは、まぁ、建前なのだが、広末涼子はさまざまな方法を試し た。彼女の場合、さまざまな器具を試みた結果手による刺激が一番具合 がよかったので、手でいかなる刺激をどのように与えることができるか というのが主たる研究主題である。最も快感を得られるのは、まず手の ひらから指全体を使って陰部の表面を軽く撫でさする。気持が高まって きたら陰核の周囲をゆっくりと揉みほぐす。それをしばらく続ける。そ うしてかちかちに固くなった陰核を人指し指と中指の間で挟んでこする、 というやり方だったけれど、漫然と性器全体を愛撫してだらだらと自慰 を続けるのも好きだった。要するに広末涼子は単なる自慰好きだった。

 自慰に耽るようになったからといって恋人との性交を止めたわけでは なかった。それはそれで、竹之内豊も元気を取り戻したこともあって順 調に性交を繰り返しながらひと月が過ぎた。ところがある日ほんの些細 なことで喧嘩した。広末涼子はこれ幸いとアパートに飛んで帰って自室 に籠もり、自慰を始めた。

 「どうなってるんだ? 涼子は何をしているんだ」遅れて駆けつけた 竹之内豊は女が籠もっている部屋の扉を天の岩戸のように見ながら呆然 と呟いた。

 「どうせ自慰をしてるのよきっと」同居人は不機嫌そうに言った。

 「自慰?」

 「そう。知らなかったの? ひと月くらい前から急に自慰好きになっ たみたいで。それも度を越して。もうこっちが見てらんないくらい」

 竹之内豊は眉を顰めた。もちろん彼には一ヶ月ばかり前の早漏事件が 広末涼子の自慰指向性を解発したのだなどと想像だにしない。「そんな に度を越してるのかい。といっても、ぼくには女性の自慰がどんな様子 だと『度を越している』というのか判らないのだが」

 「見るともなく見ている限り、まず、きっかけは何でもかまわないら しいわ」同居人は言った。「旅客機自爆テロの映像がきっかけだったり、 サッカーの試合でシュートが決まったのが引金になったり。ふつう、そ んなことないでしょ? 次に、一度始まるとかなり長く続くのです。部 屋に籠もったら一晩くらいは出てこない。一晩に三十二回くらい絶頂の 叫びを聞くことすらあります(寝ないで数えてたのかよ、なんてつっこ みはお控えくださいね。ね)。第三に、時には人前で平気で平気でスカー トをまくり上げたりジッパーを下ろしたりすることがあり、同居人はと ても迷惑しているわ」

 同居人はまるで(頻繁に人前でかまわず自慰をする女は淫乱なのよ) とでも言いたいかのような口調で言った。(恋人に自慰をさせるがまま にするなんてあなたはどんなつきあい方をしてるのよ)と言っているよ うにも聞こえた。(つまり、あなたが彼女の欲求を満たせてないわけね、 ふんふん)(ちゃんと面倒見ろよ)(この役立たず)(不能)と言って いるようにも聞こえたのだとしたら、竹之内豊はいささか被害妄想と言 うべきなのだろう。

 男は予想外の事態からなんとか体勢を立て直そうと必死に冷静さを保っ たふりをして、「てことは、またしばらく出てこない可能性があるとい うわけか。どうしたらいいんだろう?」

 「今日は何があったの?」

 「ほんの些細なことで喧嘩した」

 同居人は鼻を鳴らした。「それじゃあ、丸一日出てこないかも知れな いね。なにせユーロ紙幣を想像しながら絶頂に達することができるよう な女だから」

 「一体なぜなんだ? どうして自慰なんかに熱中するんだ」

 竹之内豊は自慰に差別的な発言を吐いた。(独りで遂行する)自慰より は(二人以上複数の人間で執行する)性交の方が高級だと、おそらく暗に 言いたいのだろう。恋人たる女性にないがしろにされつつある男の立場 としてはもっともだ。

 「さあね」と同居人。「しかし、あなたがまさにそうですが、世間一 般には自慰の地位は不当に低く見積もられています。ここでは詳しく論 じませんが、学問的にはそれほど下劣で低劣な卑しい愉しみではありま せんし、むしろある面では性交よりも高等な行為であることが解明され ています。従ってわたし自身涼子の行為に困惑している昨今ですが、涼 子が自慰に没頭すること自体を否定しようとは思いませんし、まして 『恋人がいながら自慰に熱中するのはおかしい』といった論調の非難は 事実に立脚していない点で暴論の域を出ませんし、涼子に対しても自慰 に対しても失礼です」

 唖然として発言に耳を傾ける――あるいはそう見えただけで本当は ショックのあまり自分を失っていただけかも知れないが――男に、同居 人は頷いて悪戯っぽくウインクして見せた。「ほんとうのところは、単 に自慰のしすぎで陰核の鬱血状態が常態になり、その昂揚感というかあ のいわく言いがたい疼く感じに病みつきになったというのが案外真相に 近いのかも知れません」

 「なるほど、自慰や自慰をする人間を軽蔑する理由がないことはきみ の言うとおりなのだろう。しかし、それは学術的な観点のみ強調して利 害関係者の心理や感情を無視した議論だといわざるを得ないな。現実に は自慰に没入する{した、している、しばらくするかも知れない}涼子 のためにぼくの心と陰部は張り裂けそうだ。涼子の立場を弁護するなら ぼくの立場も考慮されて然るべきだろう。問題は自慰の地位じゃなくて、 涼子はいつまでここに籠もる気なのか、どうすれば出てくるのかってこ とだ」

 「そうね、現実に即して考えましょう」同居人は醒めた態度にすばや く切り替えた。「まず、今回『自慰籠もり』に走った直接のきっかけ、 これは明白。あなたとほんの些細なことで喧嘩したからね」

 竹之内豊は頷いた。

 「そのことからなぜ涼子が自慰という行為に走ったのか、本当の理由 や目的はもちろん本人にしか判らない。あるいは喧嘩でわずかなりと傷 ついた心を慰めるためにしているのかも知れない」

 「別の目的というとどんなことが考えられる?」

 「あなたを制圧しようとしているのかも知れないわね」同居人はいや な目つきで男を見た。竹之内豊は目を丸くした。

 「セイアツ?」

 「そうよ。一般に女性に比して男性は性的禁断および性的誘惑への耐 性が低いとされている。ちょっとお預けを食った後に性を想起させる事 物を提示されたらどうなるか。たまらずに鼻をくんくん鳴らして尻尾を 振るでしょう。え。そうでしょう」

 「うん、まぁそうかも知れないな」

 「そこで涼子はあなたとの性交を拒否して自慰に没頭する。第一義的 な性快感はこれで充分得られるからまずもって涼子にとっては不満はな い。あなたはその間涼子の自慰を指をくわえて見つめるのみ。精嚢{せ いのう}にたまりゆく精液の圧迫感を噛み締めながら。やがてそれは臨 界点に達して」

 「爆発して涼子を手籠にするかというと」

 「人権の時代の昨今そんなことはできず、あなたは涼子の軍門に下る。 いや、陰門に下ると言った方が正確かな。まあ、えっち」同居人は顔を 赤らめた。「ともあれ、あなたは涼子の前に跪いて慈悲を乞うことにな るでしょう。どうか卑しいわたくしめにあなたと性交する幸運をお授け くださいと」

 「ふ〜む」竹之内豊は唸った。

 「誤解のないように言っておくけど、こんなのは別に目新しい作 戦ではないし、涼子や語り手や書き手の独創ではない。 性的独創を求めてこんなことをしているのではないってことね。古代ギ リシアの喜劇に既に、女が男との性交を拒むっていうプロットがあるん だしね。もちろんのことは何らかの思想的政治的メッセージを含むもの でもない。言ってみれば、単に性的感興を呼び起こすだけの素材でしか ないのよ」

 「誰に向かって言ってるんだ」

 竹之内豊が思わず言い返すと、同居人はにやにやと

 「さあ、誰に向かってでしょうね」

 「性的独創なんてないよ。人類が性を意識的に営むようになって何千 年経つんだ。のべ何百億人がのべ何兆何京回、いや何垓{がい}回性交し てるんだ。もう大概のことはやり尽くされてるさ」

 「しかし目新しいことでなければ有効でないなどということはない、 このいやらしくも奥深く、滑稽にして神聖な性の世界には」

 「で、涼子は昔ながらの方法でぼくを性的に制圧し支配しようとして いるってわけか」

 「そういう可能性もあるって話よ」

 事実(つまり、広末涼子の側の事実)はそんなことはまったくなかっ たのだが、竹之内豊は眉を曇らせた。その時、涼子の部屋の中から頂点 に至った時の絶叫と思える声があがった。竹之内豊と同居人は顔を見合 わせた。

 「今回、絶頂の絶叫は初めてだわ」と同居人は呟いた。「三時間も経 つのに」

 竹之内豊はずっこけて、「いつもはもっと多いのかい……その、叫び 声の回数が」

 「ふだんは平均して一時間に一・二五回は聞こえてくるわね」

 今の叫び声以来部屋の中は誰もいないかのように静まり返って物音も しない。さらに五分が過ぎた。竹之内豊はしびれを切らして、

 「中を覗いてみよう。ドアを蹴破ろう」

 「そんなことしたら涼子が激怒するよ」

 「したってかまうものか。してくれたら大感謝だ。もしかして、妙な 方法で自慰をしていて命に関わることになっているかも」

 同居人は薄く笑って「ひとりで緊縛の練習をしていて足が滑って、そ のまま首が絞まって死んじゃった人とかいるよね」

 「そこまでは言わないよ、でも、もしそんなようなことがあったら一 大事だ」

 竹之内豊は二、三歩後じさって、助走をつけてドアに体当たりした。 三回ほど繰り返すと、涼子の部屋を塞ぐ扉は蝶番のところからめりめり 音を立てて剥がれた。竹之内豊と同居人は入り口の裂目から中に入った。

 そこで二人が見たものは

インタラクティヴ

 深田恭子が自慰を憶えたのは小学校五年生の時で、これまでに経験し てきたどの種類のものとも異なる広く深く尽きない快感に魅せられ、以 来せっせと自慰に励んできた。自慰以外に性的な快感の得方を知らなかっ たし、知りたいとも思わなかった。学校で性教育があったけれど、ふー んそんなものかで(ま、学校の性教育は快感の得方を教えはしませんが)。

 つまるところ、彼女にとっての性はひとり為す悦びであった。「自慰」 ではなく「自悦」とする方が彼女には合っていたかも知れない。

 とはいえ誰しも年頃になればともに寄り添う愛しき存在を欲するもの であって、深田恭子も例に漏れず恋人ができたが、思春期にありがちな がつがつと目を血走らせる若者とは一線を画して性愛に溺れることはまっ たくなかった。それどころか恋人との性行為など想像したくもなかった。 いかにも気持悪そうではないか。愛しい彼の局部にある性器が屹立する ばかりか、挙げ句の果てに白濁した粘液を噴出するなんて考えただけで 吐気がする。自慰の方が遥かにステキだった。

 それ以前に、自分の体に男性の肉体が挿入されるということがたまら なく不潔な感じがした。きしょいよねー、恭子は自分の肉体に張り型を 挿入しながら呟くのが常であった。男などという得体の知れない生き物 と混沌とした性交に終始するよりは、独りで納得のいく自慰をする方が なんぼかマシだわん。

 恋人であるところの窪塚洋介はごく平均的な男性であったし、ごく平 均的な男性にありがちな醜い獣欲に血をたぎらせていたから、当然のよ うに深田恭子の肉体を希求した。人間性への敬意とか心の触れ合いとか はそれはそれで喜びであるものの、そんなものはたやすくぶっちぎって 勝ち点で30の差をつけて残り十試合も残して優勝するのが獣欲なのだ。 窪塚洋介はあの手この手を使って女の肉体に触れようとし、女の肉体に 大っぴらに触れても問題のない場所すなわち性交用宿泊所、又の名をラ ブホテルに連れ込もうと何度となく画策した。しかし深田恭子は窪塚洋 介の意図をすばやく察知しある時はのらりくらりと、ある時は先回りし て男の意志をかわすのだった。

 「恭子は本当はおれのことが嫌いなんじゃないのか」たまりかねて窪 塚洋介は血の叫びを叫んだ。夕暮れの駅前を足早に通りすぎる人たちが 何人か、何事かと二人の方を見遣ったほど、それは切ない叫びだった。

 当然であろう。

 深田恭子は心の底から申し訳なさそうに、

 「洋介は大好き。でも、性交はダメ」

 「どうしてだ。どうしてなんだ」窪塚洋介は5リットルくらいの鮮血を 吐きながら声を振り絞った。

 深田恭子はついに自分の真意を告白した。「だってわたし、性交なん てしたくないんだもん」

 「なんだって」

 深田恭子は最愛の窪塚洋介に向かって持論を展開した。そもそも、洋 介があんな醜い陽根を所持していることが既に堪えられないの(しかし 深田恭子はまだ窪塚洋介の男性器を見たことはなかったし、男性器一般 をいつどこで見たのかは言わなかった)。ただでさえ醜いのに欲情する と巨大化して硬直化するなんてサイテ〜だし。あんなものが女性器に侵 入(そうよあれは「侵入」というにふさわしいわ、と、深田恭子は強調 した)するなんて許せないし。カウパー腺液ってなんだか不潔だしいや らしいし。精液も気持悪いじゃない? もっと言っちゃうと、男子がご つい手で女子の肉体をまさぐるのだってそうとう不快だと思うわけ。想 像するに。要するに、性の交わりにはまったく興味持てないし、それど ころかむしろ否定しているの。

 深田恭子の話を聞く窪塚洋介の顔からは表情が消えていた。それはそ うであろう。第二次性徴期を順調に過ごしてきた人間が性交に対してか くも否定的な発言をするとは、ごく平均的な(醜い獣欲に血がたぎって いる)男子の窪塚洋介には信じられなかったのだ。まして好きな男子の 生殖器をそこまで明確に不潔で不快な存在と断じてひるむところもない というのは完全に理解不能だった。健康で平均的な男女が好き合った結 果体を交えるのはまったくもって自然なことではないか。そんなに嫌悪 されるべきことなのか。深田恭子の発言内容は、窪塚洋介にとっては深 田恭子自身の肉体に対する侮辱とさえ思えた。あるいはこの女は同性愛 者なのか? 窪塚洋介は訊ねた。深田恭子はかぶりを振った。

 「わたしは同性愛者ではないと思う。なぜならあなたとこうしてつき あっているのはとても楽しいし、それは同性の友人とのつき合いとは異 なった感覚だし、あなたという異性に対してほかの同性や異性とは異な る感情を持っているのも間違いないもの」

 「……じゃあ、おれが嫌いってわけでもない?」

 「当たり前じゃない。わたしは洋介が大好きだし、洋介の喜ぶことを してあげたい。でも、性交はダメ。ダメったらダメったらぜ〜ったいダ メ」

 窪塚洋介は途方に暮れて面を下げた。夕暮れに溶けかけた駅前の舗装 道路がにじんで見えた。それはそうであろう。この女が死ぬほど好きな のに、胸の中が焼けただれそうに熱い獣欲(しかも醜い)がたぎってい るのに、でも相手からは却下され、にもかかわらず女は自分のことを強 く想っているという。いったいどうしろというのか。

 深田恭子もしばらく目を伏せて考えに沈んでいたが、やがてひらめき に輝いた顔を見せて

 「じゃ、こうしましょ」

♀♂♀

 深田恭子の提案に従った結果、深田恭子の性交ぎらいを損なうことも なく、窪塚洋介の「醜い獣欲」も満たしつつ、ふたりは睦まじく交際を 重ねた。窪塚洋介にとって真の欲望は達せられなかったものの、深田恭 子があんな風に絶頂に達する現場を目撃でき、かつそのことによって自 分も果てるという《新しい》世界を知り、窪塚洋介はそこそこ満足して いた。

 なるほど、女子から見れば醜い獣欲に過ぎないのかも知れない、であ ればこういう「関係」もそれはそれであるのかも知れないな、と、窪塚 洋介はしみじみ思うのだった。

爛れきった愛欲の世界に溺れて

 という表現について日本のある小説家が随筆をものしていたのを昔読 んだことがある。

 今はもうその本が手許にないので記憶は朧だが、「これは安手の小説 や雑誌記事などでよく見かける城東区のような、もとい常套句のような ものだが、考えてみればずいぶん激烈な表現である。『愛欲に溺れる』 とはいかなる凄まじい状態か。それも『爛れきった愛欲』とは何か。ふ つうの人間にはまず実現不可能なのではないか」といった論旨だったと 思う。

 それを読んだのは中学生の頃だった。ご存じ第二次性徴期の真っ只中 であって、その表現は刷り込みのように唐沢寿明にとりついた。

 (いつか、がっぽり金を稼いで、「爛れきった愛欲 の世界」に溺れられるようになってみせる……)

 これであった。

 こけの一念岩をも通すのことわざあり、まして性的オブセションの力 は偉大である。唐沢寿明は学業の傍らアルバイトに励みに励み、就職し てからは時間外勤務を重ねに重ね、その甲斐あって昇進も重ねに重ね、 重ね過ぎて会社に早早に見切りをつけて事業を起こすかと思えばそうは せず、というのは唐沢寿明なりのもくろみがあったからだが、ともあれ 年若くして青年重役となった。当たり前である。青年重役になるには適 齢というものがあり、幼くしてなれるものではないし年老いてなれるも のでもない。なっただけではなく、並み居るライバルを陰謀や駆け引き で巧みに追い落として会社の実力者ナンバーワンの地位を築き上げた。

 なった時には貯金も金庫の床が抜けるほど貯まっていたし、会社から もちょっとやそっとの浪費ではなくならないほどの額の報酬を得る立場 となった。仕事に熱中していたので結婚もしていない。ついにかねてか らの念願である、それどころか彼の半生の原動力ですらあった 「爛れきった愛欲の世界への耽溺」に専念する 準備ができたのであった。

 いざそういう状態になってみると本人はすっかりそんなものに興味を なくしていた、というオチも悪くないが、ちょっとありがちでヒネリが ないし、だいたい思春期の刷り込みはそうそう簡単にはなくならないの で唐沢寿明はいよいよ行動にとりかかった。

 単なる愛欲ならどんな相手でもよさそうなものだが、 爛れきるためには自ずと条件が絞られる。若い 男性と同じように若い女性は性技に淡白であると想定されるので、ここ はやはり年増が望ましい。もちろんただ単に年が増しているだけの女性 は却下である。性愛経験豊富であって、数数の性技を習得していなけれ ばならない。最低、第一種性愛技術者の免許を取得していること。特種 ならなおよし。

 といったことを考えて、唐沢寿明はワールドワイドウェブに人材募集 の広告を出した。

求む・性愛経験豊富な女性。
問題領域の関係上男子不可につき、雇用機会均等法に抵触すれども許さ れたし。
容姿不問。人種不問。委細面談。応募者は経歴書ないし遍歴書送付のこ と。

 応募者が殺到した。第一次選考で絞りに絞り、第二次選考の電話面談 でさらにふるい落とし、最終選考に残ったのはひとりだった。会場にやっ てきた応募者を見て驚いた。若い女だったからだ。

 「応募者の小倉優子でっす」と女は名乗った。遍歴書に記載のとおり の名前だった。

 「きみが本当に応募者の小倉優子本人かい」女がこっくり頷くのを見て、

 「失礼だが、応募書類にあるような経歴の持ち主とも思えないけど、 見かけの年齢から言って」

 「年齢は見かけどおり十九歳でっす〜。でも経歴は嘘じゃありません ことよ。本当にそこにあるようにそんなことやそんなことをしてきたわ けです。その歳でか、と訊かれたら、おぢさまは古いわね、最近の女の 子は若い頃からそれはもうすごいことを経験しているのよ、と答えます わ。だからこそ、『二十歳になったら人生はオシマイ』『二十歳過ぎま で生きていたくない』といった嘆きや恐れが出てくるわけ。お判りかし ら?」

 唐沢寿明は気圧されてなんとなく頷いた。早くも小娘にペースを握ら れているようだった。小倉優子は余裕が出てきたのかまるでパンツを見 せようとでもするかのように脚を組んで坐り直し、唐沢寿明を見つめた。 パンツが見えたので唐沢寿明はちょっとどきどきした。

 「で、おぢさまはどういうことをしたいわけ」

 パンツの性、もといパンツのせいもあり、唐沢寿明はうろたえて、 「いやその、愛欲の世界に溺れたいんだ。しかもその、ありきたりので なくて、爛れきった愛欲の世界に

 「ふ〜ん」小倉優子はやや目を細めて値踏みするように唐沢寿明を眺 め回した。「本気なの?」

 「本気だとも」

 「ど〜れ。この道厳しいよ」小倉優子は弟子入り志望の若者に対する ベテラン漫画家のような口調で、

 「まずは枠線100枚引いてもらおうか。その次はベタね」

 「これこれ。弟子入り志望の若者に対するベテラン漫画家じゃあるま いし」

 「これは失敬」小倉優子はぺろりと舌を出した。

 「爛れきった愛欲の世界に溺れたい、ねえ。 おぢさま、自分がどんなに難しいことを言っているか判ってらっしゃる のかしら」

 「判ってらっしゃるつもりだが」唐沢寿明はむっとして答えた。

 「いーえ、判ってないわ。よいこと? そもそも『愛欲の世界に溺れ たい』と人は一息で言いますが、それ自体が一息で言いきれるほどたや すいことではないわけ。溺れるのよ? 愛欲によ? 人は誰も水に溺れ そうになると本能的にもがいて浮かび上がろうとしますよね。愛欲だっ て同じです。超えてはならぬ一線を超えたらそれは地獄です。息が続き ません。体力も持ちません。すぐに逃げ出したくなります。人は楽にし ていられることを本能的に好むのです。そして溺れるということは死を 想起させるほど辛いことなのです」

 「しかし、水に溺れるのは苦しいだけだが、愛欲の世界には 快感があります」唐沢寿明は反論した。「それも、 えも言われぬ快感です。それあればこそ、人は 飽きもせず性交に文字通り精を出すわけであります」

 「精を出し続けるのが地獄にも等しい苦行だって言ってるのよ」

 最後に判らないじじいね、とつけ加えたのかどうか定かでないが、小 倉優子はそう言って唐沢寿明を見つめた。「それはじきに快感を上回り ます。やがてあなたの肉体に加えられる快感が同時にあなたへの苦痛と なるのです」

 ふん、と唐沢寿明は鼻を鳴らした。小娘のくせにずいぶん知ったかぶ るじゃないか。「きみはずいぶんと経験が豊富そうだけど、 爛れきった愛欲の世界に溺れたことがあるのか い?」

 今度は小倉優子が鼻を鳴らす番だった。「そんなことやそんなことを してきたと申し上げたでしょう?(わからないじじいね) 遍歴書に書 ききれなかったから省いたけど、わたくし、過去五度ほど爛れきった愛欲の世界に溺れたことがありましてよ。 一度目は十何歳のときで、これはそこら辺のエロじじいに誘われて好奇 心から参加したのですが(決して札束に目がくらんだんじゃありません わ)、そこで愛欲の世界に開眼しました。エロじじいの探求心のすごさ といったら、それはもう爛れまくりの溺れまくりでございます。あそこ まで愛欲に執着できる(それも爛れきるほどの)なんて、人間ではあり ません。悪魔です。異星人です。エロじじいはすごいです。エロばばあ も怖いですが。二度目から三回ばかりは職業的に溺れました。自発的あ るいは成り行きで溺れるのより遥かに困難であることは言うに及びませ ん。一番すごかったのは三年前のヤツで、七日七晩ひとつ部屋に籠もっ て十三人の男女と爛れきった愛欲の世界に溺れ た例です。工数的に言うと九十一人日ってことね。申し添えておくと、 過去五試合闘って全焼もとい全勝です。九十一人日の時も、最後まで生 き残ったのはわたしひとり」

 小倉優子はにっっっっっこり笑った。「いかが? お気に召しました かしら」

 小倉優子の無邪気そうな顔、口紅をさしていないふっくらした唇から 子どもの声で聞こえる、しかしそんな外見とはまったく不釣り合いな話 を聞いてはや身も心も波立つのを必死で抑えながら、唐沢寿明は辛うじ て平静さの感じ取れなくもない口調で言った。

 「うむ。まあいいだろう」

 小倉優子は目を輝かせた。「契約成立ね」

 「いや、まだ条件について話し合わないとな。年俸はこれだけ」唐沢 寿明は厳しい表情のまま掌に何やら書いて見せた。小倉優子は興味津津 覗き込み、失望した声を上げた。「これだけぇぇぇ?」「これは基本給 と考えてくれ。この分は必ず毎月支払おう」「つまり、何もしなく てももらえるってことね。それなら判る」「そのとおり。で、愛 欲手当てがこうだ」唐沢寿明はまた掌に書いた。小倉優子は頷いた。 「確認ですけど、愛欲手当てというのは……」「もちろん、きみとおれ とが愛欲的行為に及んだ場合に支払う手当てのことだ。行為の能動主体 がいずれかは問わない。ただしおれが要求した場合、同行為を拒否する ことはこれを認めない。もし拒否したら、罰金として手当てと同額を基 本手当てから引く。きみが愛欲行為の主体である場合、おれはこれを拒 否する権利を有する」「なんだか不公平ね」「そんなことはないさ。き みはおれが拒否することのないようあらん限りの手練手管でおれを誘惑 すればよい」「なるほど」「最後に、爛れきり 手当て。爛れきった愛欲の世界に突入した場合、 一回につきこれだけ支払おう」小倉優子は唐沢寿明の掌を覗き込み、目 を輝かせた。「おおぅ。これ、基本手当てより多い……」

 「早早簡単に入れるものじゃないだろうからな、爛 れきった愛欲の世界には。それに一回がそう長続きもするまい」

 唐沢寿明は冷酷に見えなくもない笑みを浮かべた。

 そうして小倉優子と唐沢寿明の爛れきった愛欲生活が始まった。

 この先はまた別の話でってことで逃げて、例によってこれでオシマイ。

これもよくある手

 伏せ字といいますものは、もともとは昔のお役所が「猥褻な語句、ま たは思想的に問題のある語句を大衆の眼前に曝すことはまかりならん」 と発行前の雑誌や本に検閲てぇことをしまして、目をつけた箇所を潰さ せるところから始まったそうで。ひと頃は文章の半分以上が伏せ字とい う実に大変な書物もあったそうでございます。そんなことをするくらい なら本なり雑誌なりを発禁にしてしまえばよさそうなものですが、お役 所のすることはいつの時代も常識人には判りません。ところでこれもま たいつの時代にも悪ガキはいますもので、この伏せ字をなんとか「復元」 しようと試みる。×一字が一文字なのに違ぇねえ、てわけで、「『陽子 は××した』てところは前後の文脈から考えて『失神した』だぞきっと」 などとやらかすんですな。前後の文脈を考えるところがさすがです。悪 ガキも一生懸命智慧を絞る、時もある。そうこうするうちに、「伏せ字 があるがゆえに、却って『隠されることによるエロチシズム』がある」 などと考えられるようになってきまして、こうなると伏せ字てぇものが 本来の目的からくるっと引っくり返って受け取られる。人間世界という のはまことに面白うございます。

 賢は舞子の××を××た。舞子は×××を××、×××のまま××× ×。×××が×××、×、×××××××××。

 「舞子、×××。××」賢は叫んだ。

 舞子は賢の肩に両手を回してしがみついた。舞子の熱い息が賢の耳を くすぐる。息遣いを掻き消すようにせつない喘ぎ声が聞こえた。

 「××××」

 舞子がそんなはしたないことばを口走るのが賢の脊髄を刺激した。

 もちろん舞子は×××××女だ。誰でも知っていることで珍しくもな い。しかし普段の××××さとこういう時の××××さではわけが違う。 賢ひとりの前での××な×××××なのだ。賢は舞子を×××××せ、 ×××××にさせて××から×く××した。舞子が××の×を××た。 その×に××されて賢はいっそう×××く×を××す。舞子の×がより ××××変わった。

 「舞子、×××の×××が××なに×××るぜ」

 「××、やめて」舞子は×を××けて××に×めたまま××る。

 賢はそんな舞子の×を×××ながら囁く。「××の××な×が××× ないぜ」

 「××、××」

 「本当に×××なんだな、××」

 「×××、××××」

 「××な××××なよ。××××よ、××」

 賢はなおも××い×で×き××る。舞子は×を×××せて×××。そ の×はまるで×××の××た×が×を××て×××いる×××を××さ せるの××た。賢はそれを××て×××した。

 「舞子、××××××よ」

 「××、×××。××く××」

 急に××の×が×の××を××××るようだった。×く、××く、× ××ように。その×××××な××が×の×も×も××して、×は×× の×に××して××ような××を×××た。

 「××、×××」

 「×××、×××」

 「×××××? ××××××××」

 「×××、×××」

 「×××××××××」

 「××××××××××××」

 ×は××××を×××××。××も××××の×に×××××××× ×。×××××××××××××××××××××××××××××× ×××××××××××××××××××××××××××××××× ×××××××××××××××××××××××××××××××× ××××××××××××××××××。

のうがき

 文芸に限らず創作の世界で一般に性愛の表現やいわゆる「しもネタ」 が好まれないのは、人間の言動を一気に動物レベル、生の生きものレベ ルに「引きずり堕ろしてしまう」からなのだろうか。

 性愛の行動とか排泄とかは「なまなましい生そのもの」を想起させ、 人間の崇高な精神活動をある意味否定する。精神の飛翔を肉体の鎖とい う呪縛で絞めつける。排泄物は一般に不潔と思われているし、いいにお いもしないとされている。性愛行動をとると普段は出ないような各種分 泌液が流れ出るし、性愛器官は排泄器官に非常に近い場所にある。そう いうものが、自分たちがただの生きものであることを否応なく思い知ら せてしまう。だからそのような種類の表現が忌み嫌われるのだろうか。 しかし、だとしても、人間も生命体である以上それから逃れられないわ けで、文芸としてはそれを対象にすることも考えなければならないので はないのだろうか。

 あるいは排泄行為やそれに伴う感覚、排泄物、性愛行動やそれに伴う 感覚が単に「恥ずかしい」からだろうか。それらは確かに恥ずかしい。 世の中には「えろ話」「しもネタ」を好む男性や女性もいるが、そうい う人人とてもあからさまなことば遣いをしながらも暗に示したり聞き手 に想起させるにとどめ、自己の体験や行為を完全にさらけ出すことはし ないのが普通だ。それほど恥ずかしいと言える。しかしこれについても、 「なぜ恥ずかしいのか」という問いかけ、掘り下げをするのは文芸の大 きな主題であってよいわけで、「(多くの人にとって)恥ずかしいから 取り上げない」では思考停止であり文芸の名折れという言い方ができる。

 あるいは、性愛とはあまりに「個」的なものごとであり、他者と共有 することが本質的に困難ないし不可能だからだろうか。絶頂も忘我も法 悦も、すべてはそれを体験する個に帰属する。あなたの快感とわたしの 快感とは同じかも知れないし異なるかも知れない。同じといってもまっ たく同じことはあり得ないし、あったらあったできっと不愉快になる。 異なるとしたら何一つ類似するところがないほど徹底的に異なるかも知 れない。それを確認するのがためらわれるのか。または、快感の在り方 絶頂への達し方が異なることを知る(知られる)のを厭がるのか。確か にもし自分の方法や手順、その瞬間の感覚がほかの誰とも異なっている としたら、人は不安になるだろう。だがそれにしても、文芸の一分野と して個の在り方の考察、個の精神や内的世界の探訪というのがあるのだ から、その一環として性の探求をしてもよさそうなものだ。

 なぜ性愛は一般の文芸・創作から嫌われ、排除され、「ポルノグラ フィ」といった矮小で卑称で侮蔑的な分類に押し込まれて辛うじて存続 するような憂き目を見なければならないのだろうか。

 動物の性愛行動は概ね種の保存に結びついているし、排泄物はある種 の動物にとっては個体を識別する重要な手がかりであって、彼らがそれ らを恥ずかしがることはないし、彼らはただの生きものであることから 離れはしないし、わけのわからない衝動に突き動かされながらもそれを 止めようとはしない。人間もまた己れのよって来る由縁を確かめるため に、この領域から目をそらさず見つめ直すことが必要なのではないだろ うか。

 のわ〜んちて。

♀♂♀

 いずれはエロティシズム文芸のひとつもものしてみたいものよのぅ、 と思っていた。今でも思わないでもない。

 日本語で言うなら「官能文芸」とでもなるだろうか。実はこれは難し い。単なるエロではない。ポルノとは違うのである。筆者の独断かも知 れないが、そうなのである。

 単に濡れ場を羅列すれば官能文芸になるわけではない。それではポル ノグラフィである。官能文芸たるもの、単に官能を描くだけでは済まさ れず、官能の描写、性の描写を通して人間の《真実》に迫るのでなけれ ばならない。人間の《真実》とは何か。それは生の呻きであり、性の疼 きであり、性を中核とする人間の精神生活および肉体生活の活写であり、 またそれらへの批判であり、とりわけ現実への批判である。それはまた 当然のことながら社会通念や常識への挑戦を孕まざるを得ない。そんな 大それたものを描出しようとするものが、濡れ場を書くだけで満足して 何としようぞ。すぐれた官能文芸は決まって強烈な思想を含んでいる。 と思うのは筆者だけかも知れないが、でもそうであっても当然と思う。 と思うのも筆者だけかも知れないが。性とは人間にとって自我にとって 根源的な要素だからだろうか。あるいは道徳とか倫理とかいうものと結 びついているからか。そのいずれでもあるのかも知れないし、どれでも ないかも知れない。だいたい「官能の描写を通して人間の《真実》に迫 る」という命題自体が大嘘かも知れない。

 ここで筆者が念頭に置いているのは、たとえばジョルジュ・バタイユ の『マダム・エドワルダ』である。あるいは、エロティシズム文学とす ることに賛否はあろうが、サド侯爵の『美徳の不幸』であり『悪徳の栄 え』である。『マダム・エドワルダ』も長いこと再読していないが、あ れはなかなかスゴい虚構世界であって、現代日本の性状況はやっとジョ ルジュ・バタイユに追いついてきたな、ふむふむ、というか、現代日本 人の性状況に慣れ親しんだ者から見ると「なにこれ、古っう〜い」で片 づけられてしまうくらい現代日本は突っ走っているなぁということにな るかも知れないけれども、まぁとにかくスゴい。ああいう作品が書けた ならばその場で死んでもいいや、てなもんである。死にたくはないが。 それ以前にどうせ書けないから突然死は免れそうである。

 エロティシズムが無理ならば、せめて書きたやポルノグラフィ、とい うほど熱望しているわけでもないが、ポルノくらいは書いてみたかった。 今でも思わないでもない。もちろん「ポルノくらい簡単に書けるだろう」 ということではない。まったく逆だと思う。世にポルノ小説くらい難し い文芸はないのではないか。

 何といっても、文章の力だけで読む人にえっちな気分を味わわせたり えっちな気持にさせたりしなければならない。これはえっちなことばを 書き並べればできるというものではなく、文章力とか表現力、描写力が 必要である。(既存のポルノ作家がこれらの能力を有しているのかどう かは知らない)

 次に、いつもいつも同じ事柄、同じ描写ではすぐに飽きられる。書く たびに手を変え品を変え目の色までも変えして目新しさを提供しなけれ ばならない。飛翔する想像力、持続する創造力が求められる。(既存の ポルノ作家がこれらの能力を有しているのかどうかは知らない)

 文芸作品――に限らずあらゆる芸術は読み手がいなければ成立しない わけだが、なかんずくポルノグラフィは読み手の要求が苛烈であり評価 が厳格である点、他の文芸他の芸術とはっきりと一線を画しているといっ てよい。ふつうの文芸、ブンガクと呼ばれるものは、自己満足でも言 い訳ができる。「わたしの小説を理解できる奴はいない」と開き直れる し、「百年後の人人がわたしを評価してくれる」と言い放ってもいい。 だがポルノはそうではない。書いている本人だけが満足するポルノなど、 それこそ自慰である。同時代人に理解されないポルノは――それはそれ で凄いとは思うけれど、でもそれはもはやポルノではない気もする。そ のような苛酷な分野で斬るか斬られるかの勝負をし、絶賛を博すことが できたらその幸福感達成感は如何ばかりのものであろうか。

 まったく、好色を貫くのも楽ではないのである。別に作者は好色を貫 いているわけではないが。

 そういうわけで、言うまでもないことであるが、ここに載せた「えっ ち話」たちは決してポルノではない。ましてパロディでもカリカチュア でもパスティッシュでもない。特に思想もない。

 では作者は一体何のつもりでこんなものを書いたのだろうか。ポルノ でない小説にもしばしば見られる性描写の予行演習だろうか。ぼくには 作者の真意が判らない。今度問いただしてみよう。

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(おわり -- 2002.12.20)

当然のことながらこの物語は逃げも隠れもしない虚構です。登場する、 あるいは引用/言及される個人、団体、事件等はすべて架空のものです。 現実世界との関連性を想起させる要素があったとすれば、それは信じ難 いまでの偶然の一致であり、作者の意図するところではありません。
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