13.伊丹市中野東3丁目道標と常夜灯

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南東から北西への道を北側に枝分かれする道の三叉路の鋭角(北)部に
南東を正面に建つ
常夜灯と前に道標、後ろに石柱がある
道標(尖頭型角柱) 64x18x17p(頂高3p)
常夜灯 高242p(笠石より上55p、火袋28x28x28p、火袋台14x43.5x44p、竿62x41x42p、
        台石上24x60x61p、台石中13x78.5x80p、台石下25x100x103p、礎石21x128x128p)
石柱  238x16x14p
N34.79030 E135.38917


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「道標」
南東面(正面)
┌─――――――――――――――┐
│右 中山寺 是ヨリ      │
│       廿四丁     │
│左 小濱           │
└―――――――――――――――┘

南西面(左側)
┌─――――――――――――――┐
│大阪北堀江千代ア橋東詰    │
│  願主粟谷喜八       │
└―――――――――――――――┘
(「橋」の右上部は「呑」ではなく「右」となっている。『大字典』には橋の略字とある。)
(「伊丹の道標をたずねて古道を歩く」では、「大坂北堀江千代崎 願主 西」とある。)
(「願主 西木谷喜八」とする資料もあるらしい。(伊丹市立博物館より))

北東面(右側)
┌─――――――――――――――┐
│明治廿一年九月        │
└―――――――――――――――┘

北西面(ウラ側)
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘



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「常夜灯竿部」
南東面(正面)
┌─――――――――――――――┐
│ 常夜燈           │
└―――――――――――――――┘

北東面(右側)
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

北西面(ウラ側)
┌─――――――――――――――┐
│慶応二            │
│  丙寅夏          │
└―――――――――――――――┘
(「伊丹の道標をたずねて古道を歩く」では「慶応丁卯年」としている。)

南西面(左側)
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘



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「常夜灯中台部」
南東面(正面)
┌─―――┐
│ 妙  │
│ 見  │
│ 宮  │
└――――┘

その他の面
┌─―――┐
│(なし)│
└――――┘



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「石柱」
南東面
┌─――――――――――――――┐
│   妙見講中        │
└―――――――――――――――┘


(道標の明治廿一年九月1日なら、1888年9月1日土曜日となる。)
(常夜燈竿部の、慶応二/丙寅夏 慶応二年は丙寅で、夏を四月一日とすると、1866年5月15日火曜日となる。)
(因みに、慶応丁卯年は三年で、1月1日なら、1867年2月5日火曜日となる。)
(尚、常夜灯前の線香台様の南西面(左側)には明治十九年の銘があり、度々更新されている事がうかがえる。)

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【1.三差路より北を望む(2016年9月時点、碑文が読みやすくなりました)】

(『広報いたみ』(56年6月15日号)に
 「姥ヶ茶屋で丹波街道に合流するこの道を三田街道と地元の人は呼んでいる。
 他方の中山道は鴻池の西を流れる天王寺川に沿って北上、荒牧を経て中山に至る道である。」
 とあるが、博物館等の資料では、三田街道を、有馬道(間道)と表現し、他方は荒牧で有馬道と合流するまでは、
 特に名称を付けていない。)

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【2.北を望む、右側植込みに道標】 【3.博物館の街道と道標地図】 【4.伊丹北西部の道標(明治44年地図)】

(市内で「中山寺」への距離が彫られた道標は、他に2基有り
 1.「伊丹市立博物館収蔵B(瑞ヶ丘の)道標」で38丁
 2.金剛院の「永正十四年町石笠塔婆」で12丁(移設)
 である。)
(明治44年の地図を頼りに、鴻池村を抜け、中山道に合流後、中山寺門前までの距離を想定すると
 4.5q(41丁)となり、大きく違う、
 当時の最短経路を採ったとしても、4.0q(40丁)でまだ多すぎ、
 直線距離3.8q(35丁)としても大きく異なる。
  『広報いたみ』昭和56年6月15日号に、「…村のかかりの三差路にこの道標がある。
 もとは、今より三十cmは高かったようであるが、馬力車や自動車の災難にあい、傾いたりして
 ついにこぢんまりと高さ四十p余りの今の姿になった。」とあり、移設はされていないようである。
 ならば、「廿四丁」は彫り間違いか。(「本堂迄1丁を加え、四十二丁を逆さまに彫った」はどうか。)
 因みに、小濱の東口までは3q(28丁)である。)
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