23.豊中市小曽根2の道標

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豊中市小曽根2−2−34 南北の道に、西服部天神からきた道が突き当たるT字路の東部に西を正面に建つ
ドーム型角柱 23x西面25x16.5p(頂高1.5p)
N34.763040 E135.486265


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西面
┌─――――――――――――――┐
│  いけだ          │
│左 みのを          │
│  中山           │
└―――――――――――――――┘
(「だ」は「多」、「を」は「遠」の変体仮名で
  池田、箕面であろう)

北面
┌─――――――――――――――┐
│願主             │
│  勵證           │
└―――――――――――――――┘
(旧字「勵證」レイショウは、「励証」か)

南面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、B3_74)
(同書では、西、松林寺から小曽根村に入り北に折れ、当道標の南10mの地蔵堂を東に折れ、高川に
 出る道を、旧吹田街道としている。又、現在の府道145号を新吹田街道と表現しているが、明治の
 地図では、服部天神から東を目指す場合、当道標のある辻に突き当り、この道の方が旧吹田街道よ
 りも通行量が多かったとも考えられる。
(又、同書では、高川西堤防の道を「三国街道」とし、この道標の解説を、「吹田街道や天神橋方面
 から三国街道を往来するひとびとに池田、箕面方面への道筋を示しています。」としており、この
 記述通りに理解するなら、堤防上の道にあったものとしているのであろうか。)
(西面の「左、池田、箕面、中山」を現状のまま理解すると、「左」は北を指し、箕面は良いとして
 も、池田、中山は、進んできた道を戻る方が最短となり、案内が一致しない。よって移設が無かっ
 たものであれば、現西面が、南面していたであろうと思われる。
 即ち、目いぼの渡しから、小曽根の村の中を北上してきた道「五畿内志の吉野嶺(路)」がここで
 西に曲がる事を案内している。
  では、南面させた時の「箕面」はどうかというと、北西の西願寺から天竺川沿いに北上、又は、
 染香(長興寺南)まで進み、箕面街道に入るかとなり、現地点から北に進み、現在の若竹町に出る
 より近道となり、これ(箕面)もまた「西」を示さなければおかしいのである。
  依って、90度反時計回りに回して置かれていたとする。)
 「五畿内志、街道一覧」は、こちら
 「五畿内志について。」は、こちら
 『五畿内志』は、国立国会図書館ウェブサイトの近代デジタルライブラリの、
 『日本古典全集第三期14 五畿内志、下巻』 正宗敦夫 編纂 昭和4年版(摂津志は71コマより)
 で見る事が出来る。(吉野嶺(路)は75コマ参照。))
(前述の書で、「願主「励證」は、垂水神社南方の西證寺住職ではないかとも伝えられています。」
 とあるが、調査しておりません。又、フリガナが「レイトウ」とあるのも未確認です。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 道標はカーブミラーの横  奥(南)目いぼの渡しへ  右から手前へ吉野嶺(路)
 左、曽根小学校へ】  画面左小堂を左へ旧吹田道】  左(北)は府道145号へ】

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【4.西面拡大 【5.北面下部拡大 【6.豊中南部の道標】
 この状態で「左」は  「勵證(励証)」とした】
 北を指すことになる】
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