19.豊中市上新田1屯所横道標

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豊中市上新田1―6 町内を逆U字状に走る道(山田街道)が東方向に向かう三叉路の、南東部に西を正面に建つ
(小川の橋の北東たもと、南東へ分岐する道は佐井寺への道。)
ドーム型角柱 70x西面22x21p(頂高3p)(基部5p含む)
N34.801793 E135.498196


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西面
┌──――――――――――――――┐
│右 さいでら          │
│左 かちをじ          │
└――─―――――――――――――┘
(「ら」は「良」の、「を」は「越」の変体仮名)

東面
┌──――――――――――――――┐
│右 大坂            │
└―――─――――――――――――┘

北面
┌──――――――――――――――┐
│天明元辛丑年          │
│    南ノ嶋尼講中      │
└――――─―――――――――――┘

南面
┌──――――――――――――――┐
│(なし)            │
└―――――─――――――――――┘


(天明元年五月一日とすると、西暦1781年5月23日水曜日となる、天明元年は四月二日より。)
(西面、さいでらを、さいてじ、とする資料が有るが、南東2.7qに佐井寺があり、「さいでら」であろう。
 もし、「てじ」と読むなら、「て」には「゛」が彫られており、それに従えば、「さいでし」又は「さい
 でじ」と読まなければならない。又、「左かちをじ」の「じ」も濁点がついており、右だけ「し」は考え
 にくい。)
(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、B1_7)
(同書に、「天明元年は市内に現存する最古の道標である…。一旦行方がわからなくなりましたが、水路工
 事の際に掘出され、再びここに設置」とあり、大きな移動はされていないようです。
 「16.上新田1西口道標」の木杭案内には「天明二年、市内最古」とあり、昭和53年に立てられた様
 なのでその当時は、行方が分からなかった時であろう。
  尚、天明元年とされる道標が、同じ上新田にもう一基有る。「20.上新田2−4−9の道標」参照。)
(「屯所横」とは、明治の地図では役場の記号があり、その前の時代に屯所であったものか、現在は消防団
 の倉庫があり、名残を留める。
  所で、現東面の「右大坂」は、山田街道を西に110m進んだ「16.上新田1西口道標」の道標に、
 つながる案内であると思われ、現状の様に、見難いことはないはずで、もし位置が変わっていなければ、
 東側の建物、又は、植木等は無かったか、もし有ったなら、その建物の北前に置かれていたのではと想像
 される。)
(南面、施主か「南ノ嶋尼講中」としたが、地名+講名か、一連の講名か、判別出来ていない。因みに元禄
 国絵図に、東成郡「南嶋村」があり、慶長国絵図では、「南ノ嶋」となっており、現在の大阪市旭区大宮
 あたりかと思われる。明治の地図にも、千林の西に「南嶋」が見え、そこから、勝尾寺を目指すなら、淀
 川、神崎川の渡しを考えなければ、吹田、佐井寺、ここ上新田とほぼ一直線であり、同講が勝尾寺に関係
 あるものなら、建てる動機としては納得がいく。但し、あくまでも想像である。
 「元禄国絵図村名一覧」はこちら。
 天明より100年前の、国立公文書館デジタルアーカイブ「元禄国絵図」はこちら。
 天明より50年後の、デジタルアーカイブ「天保国絵図」はこちら。))

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南東に望む 【4.道標を北に望む
 正面分岐点に道標  右(南)佐井寺へ  奥(南東)佐井寺へ  右(北東)勝尾寺へ
 左(北東)勝尾寺へ】  左から奥が山田街道】  橋の下は天竺川】  左、上新田1北口道標へ】

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【5.北面上部拡大 【6.北面下部拡大 【7.道標を西に望む 【8.道標の東面拡大
 「天明元辛丑…  右側より「…辛丑年  こちらの(東)面に  「右大坂」は西への道
 南…」と読める】  南ノ嶋尼講中」】  「右大坂」とある】  山田街道を案内する】

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【9.上新田案内地図 【10.豊中北部の道標】
 四基の道標が
 書かれている】
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