豊中市上野西3―19 現中央環状道路の南側側道が北東に行止り(階段)になる所から、
ほぼ東に分岐す道を20m程上った南部に北を正面に建つ
(南西への道も分岐している為K字状の辻)
自然石 106x北面63x58p(像部31x17x深さ4p)(背面堀込60x22x0.5p)
N34.800553 E135.469473




北面
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│ 大峯 右 大阪 光明講中 世話方│
│ 中川宗太郎 │
│ 西田朔之助 │
│ 久保秀次郎 │
│(行者像)奉爲二世安楽五拾度 │
│ 少 路 │
│ 願主 発起人 │
│ … … │
│ 山上 左 熊野田 │
└―――――――――――――――――――┘
(願主、発起人は不明)
南面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 明治廿五年五月 │
│ 少路 │
│ 阪本新右エ門 │
└―――――――――――――――――――┘
東面
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│(なし) │
└―――――――――――――――――――┘
西面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└―――――――――――――――――――┘
(明治廿五年は、西暦1892年となる。)
(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、B2_54)
(同書に、「本来は旧少路村南端付近(桜の町6丁目地内)、新旧の箕面街道の合流するところで、正面北向
きに立っていましたが、中央環状線建設の際に現在の位置に移設されました」とあり、
明治の地図で探してみると、現在地からやや北であろうか、中国自動車道の真上の
N34.80099 E135.469150
辺りに、北からの道が南東と南西に分岐する、三ツ辻が見える。
この三ツ辻の南部に、北に面して建っていたとしたい。
尚、前述の書には、「新旧の箕面街道の合流する所」とあるが、どちらが新か分らない。
明治の地図では、南東への道を「箕面街道」とし、現、上野西(千里川沿い、南西)方面から来る道には名
前が書かれていない。今の感覚ではでは、南東への道が「旧」と受け取ってしまうが。
何れにせよ、新旧は分らないが、南西への地図上無名の道(右大阪に当たる)は、現、豊中本町でR176号に
接続し、南東、明治の箕面街道(左熊野田に当たる)も、600m程先で熊野田への分岐はあるものの、現、
豊中市長興寺南1で、R176号に接続し、此方の方が距離も短い。「右大阪」とする理由は何であったのか、
気になるところである。)
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【1.道標を東に望む |
【2.道標を南西に望む |
【3.道標南面拡大 |
【4.道標を上から望む |
右葭簀(ヨシズ)の中 |
左端に、当道標 |
施主や願主等は無し |
手前が北面 |
右奥、箕面街道】 |
右中環を潜り少路へ】 |
上書では「造立者」とす】 |
像様は不鮮明】 |
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【5.道標北面左下部】 |
【6.道標北面左下部】 |
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【7.豊中北部の道標】 |
2025/4/4 (訂正)
碑面の文字が少し判明した為、訂正し、写真を追加します。念のため訂正前の内容も残しておきます。
北面、右側下部、光明講中の右下に小さく書かれた「世話方」がもれており、且、三名の名を改めた。
同じく北面左側下部、「□主 発起人」を「願主 少路/発起人」とした。
発起人の右上の、「小 路」は発起人の住所であろうか。
願主はやや離れて書かれているようだが、読めず、南面の人との関係は分からない。
【追考】
上記「「右大阪」とする理由は何であったのか、」とする点に関して、
『大阪府史』明治36年刊一等補助里道に、箕面街道、起点、豊中村大字新免、終点、箕面村大字平尾
二等補助里道として、勝尾寺街道、起点、東能勢村大字川尻、から終点、豊中村大字新免とある。
同じく、三国街道、起点、三島郡新田村大字上新田勝尾寺街道から、終点、庄内村大字菰江能勢街道
としている。大阪府史と、『今昔マップon the web』明治42年測図の地図に有る「箕面街道」とが異な
っているのが気になる。
明治の地図に有る「箕面街道」は当道標から南東に丘を登り、「上野東1の道標」で勝尾寺街道を
南に縦断し「長興寺南の道標」で能勢街道に出る。以後は南に進めば、大阪に続くのは自明である。
(左の道は新免(現阪急豊中駅)で能勢街道に合流し遠回り。)
これを案内せず、「左熊野田」(上野東3丁目で分岐を要する)とするのは、近世道標の「最短を案内
する」とする前提が働いていないものとし、この時代にあっては、「通行のしやすい道を案内する」
とする、現代の考え方を適用したものと思う。明治25(1892)年であれば、自動車はまだ普及して
いないとは思うが、荷車による輸送は多かったであろう。この時、左に坂を登る事よりも、多少距離
は伸びても、楽な右の道を案内したとする。
尚、「長興寺南の道標」には、当道標方向を指して、「右、勝尾寺山こへ(山越え)道」とある。荷
車で山越えはキツカッタと思う。
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【8.道標北面左下部 |
【9.道標北面白黒にした |
【10.道標北面右下部 |
「安楽…」左にガンダレ |
明度を増し |
光明講中の下「世話方」 |
とし「願主」で良い】 |
コントラストを弱めた】 |
「久保六」は「久保秀」に】 |
【訂正前】
北面
┌─―――――――――――――――┐
│ 大峯 右 大阪 光明講 │
│ 中川□太郎│
│ 西田□之□│
│ 久保六□□│
│(行者像)奉爲二世安楽五拾度 │
│ □主 発起人 │
│ □□□ │
│ 山上 左 熊野田 │
└――――――――――――――――┘
(人名部分は読み間違いの可能性大である)
(『ガイドブック』では世話人、中川宗太郎以下四名とある)
【旧終わり】
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