13.豊中市上野西3道標

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豊中市上野西3―19 現中央環状道路の南側側道が北東に行止り(階段)になる所から、
ほぼ東に分岐す道を20m程上った南部に北を正面に建つ
(南西への道も分岐している為K字状の辻)
自然石 106x北面63x58p(像部31x17x深さ4p)(背面堀込60x22x0.5p)
N34.800553 E135.469473


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北面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 大峯  右 大阪  光明講中 世話方│
│           中川宗太郎   │
│           西田朔之助   │
│           久保秀次郎   │
│(行者像)奉爲二世安楽五拾度     │
│            少 路    │
│         願主  発起人   │
│         …   …     │
│ 山上  左 熊野田         │
└―――――――――――――――――――┘
(願主、発起人は不明)

南面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 明治廿五年五月           │
│  少路               │
│   阪本新右エ門          │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――――┐          
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(明治廿五年は、西暦1892年となる。)
(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、B2_54)
(同書に、「本来は旧少路村南端付近(桜の町6丁目地内)、新旧の箕面街道の合流するところで、正面北向
 きに立っていましたが、中央環状線建設の際に現在の位置に移設されました」とあり、
 明治の地図で探してみると、現在地からやや北であろうか、中国自動車道の真上の
N34.80099 E135.469150
 辺りに、北からの道が南東と南西に分岐する、三ツ辻が見える。
 この三ツ辻の南部に、北に面して建っていたとしたい。
  尚、前述の書には、「新旧の箕面街道の合流する所」とあるが、どちらが新か分らない。
 明治の地図では、南東への道を「箕面街道」とし、現、上野西(千里川沿い、南西)方面から来る道には名
 前が書かれていない。今の感覚ではでは、南東への道が「旧」と受け取ってしまうが。
 何れにせよ、新旧は分らないが、南西への地図上無名の道(右大阪に当たる)は、現、豊中本町でR176号に
 接続し、南東、明治の箕面街道(左熊野田に当たる)も、600m程先で熊野田への分岐はあるものの、現、
 豊中市長興寺南1で、R176号に接続し、此方の方が距離も短い。「右大阪」とする理由は何であったのか、
 気になるところである。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南西に望む 【3.道標南面拡大 【4.道標を上から望む
 右葭簀(ヨシズ)の中  左端に、当道標  施主や願主等は無し  手前が北面
 右奥、箕面街道】  右中環を潜り少路へ】  上書では「造立者」とす】  像様は不鮮明】

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【5.道標北面左下部】 【6.道標北面左下部】

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【7.豊中北部の道標】

 2025/4/4 (訂正)
 碑面の文字が少し判明した為、訂正し、写真を追加します。念のため訂正前の内容も残しておきます。
 北面、右側下部、光明講中の右下に小さく書かれた「世話方」がもれており、且、三名の名を改めた。
 同じく北面左側下部、「□主 発起人」を「願主 少路/発起人」とした。
 発起人の右上の、「小 路」は発起人の住所であろうか。
 願主はやや離れて書かれているようだが、読めず、南面の人との関係は分からない。

【追考】
 上記「「右大阪」とする理由は何であったのか、」とする点に関して、
 『大阪府史』明治36年刊一等補助里道に、箕面街道、起点、豊中村大字新免、終点、箕面村大字平尾
 二等補助里道として、勝尾寺街道、起点、東能勢村大字川尻、から終点、豊中村大字新免とある。
 同じく、三国街道、起点、三島郡新田村大字上新田勝尾寺街道から、終点、庄内村大字菰江能勢街道
 としている。大阪府史と、『今昔マップon the web』明治42年測図の地図に有る「箕面街道」とが異な
 っているのが気になる。
  明治の地図に有る「箕面街道」は当道標から南東に丘を登り、「上野東1の道標」で勝尾寺街道を
 南に縦断し「長興寺南の道標」で能勢街道に出る。以後は南に進めば、大阪に続くのは自明である。
 (左の道は新免(現阪急豊中駅)で能勢街道に合流し遠回り。)
 これを案内せず、「左熊野田」(上野東3丁目で分岐を要する)とするのは、近世道標の「最短を案内
 する」とする前提が働いていないものとし、この時代にあっては、「通行のしやすい道を案内する」
 とする、現代の考え方を適用したものと思う。明治25(1892)年であれば、自動車はまだ普及して
 いないとは思うが、荷車による輸送は多かったであろう。この時、左に坂を登る事よりも、多少距離
 は伸びても、楽な右の道を案内したとする。
 尚、「長興寺南の道標」には、当道標方向を指して、「右、勝尾寺山こへ(山越え)道」とある。荷
 車で山越えはキツカッタと思う。

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【8.道標北面左下部 【9.道標北面白黒にした 【10.道標北面右下部
 「安楽…」左にガンダレ  明度を増し  光明講中の下「世話方」
 とし「願主」で良い】  コントラストを弱めた】  「久保六」は「久保秀」に】

【訂正前】


北面
┌─―――――――――――――――┐
│ 大峯  右 大阪  光明講  │
│           中川□太郎│
│           西田□之□│
│           久保六□□│
│(行者像)奉爲二世安楽五拾度  │
│         □主 発起人 │
│            □□□ │
│ 山上  左 熊野田      │
└――――――――――――――――┘
(人名部分は読み間違いの可能性大である)
(『ガイドブック』では世話人、中川宗太郎以下四名とある)


【旧終わり】

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