14.豊中市上野東1の道標

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豊中市上野東1−1、南北の能勢街道と、東西の道が交差する辻の北東部に建つ
尖頭型角柱 159x24x24p(頂高10p)(行者像部30x20x深さ3.5p)
N34.78864 E135.47224


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東面
┌─――――――――――――――┐
│   いたみ         │
│すぐ     ミち      │
│   中 山         │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│   大坂          │
│すぐ     天神 道    │
│   はつとり        │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│   上新田   熊野田村  │
│すぐ     道  世話人  │
│    京      大峯講中│
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│大       みのを山   │
│ (行者像)すぐ      道│
│峯       かつをう寺  │
└―――――――――――――――┘






(「道」の字が四面とも、全て異なる書体で彫られており、東:かな、北:行書、西:草書、南:楷書、と
 なっている。複数ある時に字体を変えるものは、よく見かけ、デザイン的なものか。)
(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、B2_60)
(同書に、役行者(大峯信仰)に関する道標として、箕面街道沿いにある、「15.中桜塚5の道標」
 「13.上野西3道標」を挙げている。
 その他、市内では、「10.豊南町西1の道標」「5.瑞輪寺笠塔婆台座の道標」もある。)
(北面について、下部中央に「天神道」とあるが、上部が二行に分かれており、各々行先に掛かるとするの
 か、南への道を称して「天神道」と記したものかを考えてみた。
  私見になりますが、近代(明治以降)では、道全体を表す「…道、…街道」を使うことがあるが、それ
 以前の道標にあっては、行先の地名を書き、慣用的に「道」を付けていると考えています。
 この道標の建立年は不明であるが、明治以前とするなら、「服部天神」と「大坂天神(天満の天神か)」
 を案内するものであろうか。)
(西面「京」とあるは、京都であろう。この地より東へ向かうと、熊野田村を抜け、山田街道と合流後、
 上新田村に出る。此処から北に向かい、箕面市今宮で西国街道に出て京都であると思うが、上新田から
 山田街道をそのまま進み、南東に向きを変え、上山田から山田市場に出て、津門中道に合流後、茨木、
 富田、と進み、高槻で西国街道に合流する経路(約17qで、こちらが1q長い)も考えられる。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北に望む 【4.道標を西に望む
 奥(南)服部へ  左(北)箕面へ  左(西)岡上の町  奥(西)伊丹へ
 左、上新田へ】  奥、熊野田へ】  から走井へ】  右、小路へ】

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【5.南面上部拡大 【6.豊中北部の道標】
 役行者像か
 陰刻である】
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