6.箕面市粟生新家1大鳥居南東二基の内西側の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
箕面市粟生新家1−3 東西の西国街道と勝尾寺への参詣道(大鳥居がある)が北に分岐する三叉路に三基が南面して建つ
(鳥居南三基の内、東側二基にあっては西側(三基では中央に位置し、最も低い)の道標)
尖頭型角柱 88x南面24x25p(頂高3p)
N34.835098 E135.506369


写真cimg1224

写真eimg2873

写真eimg2871

写真eimg2872

南面
┌―――――――――――――――┐
│左 勝尾寺二階堂道      │
└―――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――┐
│圓光大師御遺跡        │
│        大坂講中   │
│廿五箇所第五番        │
└―――――――――――――――┘
(「廿」は「一」に「八」と彫られている)

西面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、4)
(同書に、「最近の鳥居の改築にともなって少し位置が移された。」とあり、近接移設は間違いないが
 向きはどうであろうか。鳥居正面に立って、右手にある為、正面(北方向)が左としても、あながち
 間違いはしないであろうが、西国街道筋に建っていたなら、西を向いている方が、今宮方面から来る
 人にとっては北を目指しやすく、道(西国街道)の北側に位置したなら、「圓光大師…」の面も南面
 となり人目に付くであろう。依って三叉路北東角に西向きに置かれていたとしたい。
  東側に現在、惣門迄の距離を示す丁石が建てられ、東面が読み難いが、おそらく同時に移設された
 と思われ、結果的に読み難くなったなら、向きにはこだわる必要は無いかもしれない。)
(Wikiに、「圓光大師二十五霊場は、法然上人二十五霊場とも言い、宝暦年中(1751〜63)のころ、大阪
 難波の順阿、京都洛西の廊誉という二人の僧の発起により始まり…」とあり、これを信じるなら、建
 立は宝暦以降となるが、それほど古いものではなさそうである。
 又、第四番の兵庫県尼崎市寺町11、如来院(参照は「尼崎市寺町如来院前の道標」こちら)から、この
 地へ来るには、西からが順当と思われ、上記西向き設置を裏付けはしないか。
 尚、その道標も、施主或いは願主は、これと同じ「大坂講中」であり、同時に建てられたものか。 )
(第四代座主の証如上人が建てた二階堂は、勝尾寺、本堂の北東150mにあり、浄土宗開祖の法然上人が
 証如上人の遺徳を偲び、三年十ヶ月の間、念佛三昧の行を行った場所(勝尾寺HPより)、とされる。)
(二階堂は、国立国会図書館デジタルアーカイブの攝津名所圖會. [6]のコマ番号5、にも描かれ、
 右頁の絵の上部に「二かい堂」と「階」が仮名で書かれている。)

写真eimg2857 写真eimg2859 写真eimg2869
【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を北に望む
 奥(東)小野原へ  左(西)西国道を今宮へ  左(西側)当道標
 左、参詣道を勝尾寺へ】  奥、参詣道を勝尾寺へ】  右、総門へ三十六丁石】

写真eimg2870 写真eimg2881 写真eimg2882
【4.道標を北に望む 【5.東面上部拡大 【6.東面下部拡大
 左が当道標  丁石で見難いが  「…御遺跡」
 碑面は古くなさそう】  「圓光大師」  「大坂…」
 
 「廿五箇所」と読める】  「…所第五番」と読める】

写真dimg2458
【7.箕面市の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ