箕面市粟生新家1−3 東西の西国街道と勝尾寺への参詣道(大鳥居がある)が北に分岐する三叉路に三基が南面して建つ
(鳥居南三基の内、東側の丁石。一見、対にも見える「5.箕面市粟生新家1大鳥居南西の丁石」が西にある。)
尖頭型角柱 117x22x14p(頂高7p)
N34.835047 E135.506418




南面
┌―――――――――――――――――――――――――――┐
│ 自是山上惣門三十六町 │
│(梵字タラーク) │
│ 町石施主大坂内淡路町小嶋長左衛門後室 │
└―――――――――――――――――――――――――――┘
(梵字タラークは虚空蔵菩薩の種子)
西面
┌―――――――――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└―――――――――――――――――――――――――――┘
北面
┌―――――――――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└―――――――――――――――――――――――――――┘
東面
┌―――――――――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└―――――――――――――――――――――――――――┘
(梵字は、西の丁石のコク(金剛愛蔵菩薩の種子)と似ているが、タラークとされている。違いは左下部が
「η」の様、タラークは「了」の様にはねている。)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、3)
(同書では、これをを寄進石とし、「5.粟生新家1大鳥居南西の丁石」を丁石としている。
違い等は、西の丁石を見ていただくとし、ここでは、丁石の元位置を考えてみる。
西の丁石は目的地が明記されていないので、丁石の一般的解釈として、「本堂」とすると、本来同じ位置
に建っている事はない。
現在の地図上で求めた距離と、現地踏査と、明治の地図で当時の参道を推定の結果、現鳥居から現山門前
迄が、36丁(1丁=109m)であり、惣門迄としたこの丁石が、元の位置と推定できる。
(詳しくは下記「表参道丁石一覧」を参照。))
(蛇足であるが、立派な鳥居の寄進者も「大坂内淡路町」であり、当丁石の施主が「後室(夫人)」であり
ながらも喜捨されるような状況は、この様な相当な資産家が住む町内であったのだろうか。近くには道修
町もあり、薬問屋でもしておられたのであろうか。)
(丁石に関しては
43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
も参照下さい。)
 |
 |
 |
【1.丁石を東に望む |
【2.丁石を北に望む |
【3.丁石を北に望む |
右奥(東)小野原へ |
左(西)西国道を今宮へ |
右(東側)当丁石 |
左、参詣道を勝尾寺へ】 |
奥、参詣道を勝尾寺へ】 |
左、二階堂への道標】 |
 |
 |
 |
【4.2014年の道標右側 |
【5.丁石の南面拡大 |
【6.西側丁石の中央下 |
碑面がやや見易いか |
左側施主部分は |
左側「…屋…」の字が |
比較の為載せた】 |
「町小嶋長左衛門」で |
入っているのが見える】 |
|
は「つ」に見える】 |
|
 |
 |
【7.箕面市の道標】 |
【8.勝尾寺への参道】 |
案内板

勝尾寺表参道と大鳥居
勝尾寺へ向かう参道は幾筋もありま
すが、西国街道に面した、新家の大鳥
居を起点として北へ向かう三十六町
(約四q)の道が表参道です。参道沿
いには、寺への距離を示す町石が残さ
れており、宝治元年(一二四七年)に
建てられた下乗石から七町石までの八
基は、最古の町石として国の史跡指定
を受けています。
現存する石の大鳥居は寛文六年
(一六六六年)に建てられたものです
が、勝尾寺文書には、鎌倉時代の寛元
三年(一二四五年)に木の鳥居が建て
られたことが記録されています。
箕面市教育委員会
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
↑先頭へ