21.高槻市庄所町4の道標

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高槻市庄所町4−21 芥川東堤防を南に下ったT字路の北東部に建つ
(明治時代は、東から来た高槻街道が北に折れ堤防に上る所へ、北東からの高槻街道支線が合流していたと思われる)
尖頭形角柱 136x24x24p(頂高4p)(不整面は3p巾で周囲を整形)(西面+2凸、東+5凸、北+5p凸)
N34.839386 E135.612497


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南面
┌――――――――――――――――――┐
│右 高槻街道   高槻 山崎 京都 │
│左 高槻街道支線 高槻停車場 芥川 │
└――――――――――――――――――┘
(上部が欠けているが、「右左」と判る)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│左 富田 茨木           │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│   大(阪府)          │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『高槻の道しるべ』より)

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、9)
(明治の地図を見ると、この辻は、東から来た高槻街道が、芥川の土手に突き当り堤防上へ北と南に分かれて登る道が
 あり、そこに芥川村一里塚から南下してきた「支線」が、北東から斜めに突当っている。この道の形はほぼ現在も残
 っており、土手を南に登る道だけが無くなっている。この状況では、現東面の「左 富田、茨木」が南面していなけ
 ればならない。よって元は、90度時計回りに廻されて、土手から降りて、高槻街道と支線の分岐する正面に立ってい
 たと思われる。)
(堤防上を南北に通る道は、三島江から神峯山寺への参詣道である。高槻街道支線は現府道132号が、城西橋に直線的
 に取り付けられ盛土道になっているため、当道標からは分断されているが、北東へは坂の途中から旧道を拡幅したと
 思われる道として残っている。)
(高槻駅の開業が、Wikiに明治9年(1876年)、大阪府史から高槻街道支線は明治36年以降、依って、それ以後の建
 設となる。)
(同時代の道標をみると、高槻街道を西に採ると、「富田町6の道標」に繋がり、東は「八幡町10の道標」に続く。)

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【1.芥川城西橋東詰より 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 道標を南東に望む  正面の木の右が  奥(東)高槻へ
 左(東)高槻へ】  高槻街道支線跡】  左、高槻街道支線】

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【4.道標を北に望む 【5.道標東面拡大 【6.道標北面下部
 掘上げ出来ない  「左」の少し下、やや  「大」がかろうじて
 理由があったのか】  削った面に「富田」】  読める、大阪府か】

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【7.高槻南部の道標】
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