3.西宮市下大市東町19の道標

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西宮市下大市東町19、西宮市下大市西町3(西国街道)の道標より、南に分岐して30mの地点、
三叉路の南東部に西を正面に建つ
尖頭形角柱 81x西面20.5x(北面19、南面20)㎝(頂高4㎝)(上から50㎝で折損)
N34.75921 E135.36075


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南面
┌─―――――――――――――――┐
│すぐ 高木今津道        │
└――――――――――――――――┘
西面
┌─―――――――――――――――┐
│左 尼ヶ嵜大阪道        │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│右 厄神明王道         │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│ 髙木村            │
│ 津高平兵衛          │
└――――――――――――――――┘


(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、№20)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、№51。東面( )部は同書より。)
(又、同書によると、著者が埋れていた道標を、「従来」の場所に復元したとあるので、元の
 場所に建っている事になるが、今の状態では案内が一致しない。
  今の位置のままとするなら、時計回りに90度回し、民家土蔵の北側(現西側)に建てる
 と、何とかそれらしくなる。
 或いは、「すぐ高木今津道」が、南を指すことがはっきりしているので、これを第一義にし
 現在地で、180度近く回転させると、現西面が東面となり、「左尼崎…」が隠れると共に
 東方をイメージし難くなる。現北面「右厄神…」も同様、北方向をしめさなくなる。
 そこで、この位置ではなく、三ツ辻の北西部分に建っていたとして、明治の地図を見ると、
 この辻は三叉路であると共に、北(厄神方面)への道が北西に折れており、現南面「すぐ高
 木…」が北西に面して建っていると、すべての案内が一致する様になり、施主の彫られた面
 も、目立たない位置にくる。依って辻の反対側からの近接移設としたい。)
(北30mには、西国街道が通っており、現在二基の道標もあり、尼崎、大阪方面への左折を
 案内するのが、第一目的であったのかもしれない。)
(この道標を上から見ると、長方形ではなく、現南面が1㎝長い台形状になっており、横から
 見ても南面は、下部がやや太くなっている。)
(東面の「津高」は、「44.西宮市高木西町6の道標」と同じ、偶然であろうか。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 奥右緩曲道が高木へ  奥(北西)厄神へ  土蔵の西に「左尼崎…」
 左(東)尼崎へ】  手前(南)高木へ】  だけを一致させ建つ】

写真dimg4419 写真dimg4405 写真dimg4413
【4.南横案内板 【5.元位置とした 【6.東面施主
 『西宮の道標』以上は  地点を西に望む  部分二枚を並
 書かれていない】  正面電柱辺りか】  べた「津高」
 
 
 まで見える】

写真dimg3829
【7.西宮南部の道標】

 2023/12/24 『甲東の文化財を訪ねて』改訂版による 追記
 同書に「施主は高木村の庄屋であった津高平兵衛である。」としており建立年が限定できそ
 うである。

 2024/10/3 追記、訂正
 東面、「津高(平兵衛)」を確認しました。「津高平兵衛」とします。但し、「高」の字が
 「髙木村」の「髙」と似ておらず、ナベブタの下が「土」に見えくずし字としても、余り見
 ないように思う。

写真simg0156 写真simg0158 写真simg0157
【8.道標東面上部 【9.東面中部変形 【10.道標東面下部
 「髙木村」  「村」の左側は  「平兵衛」
 「津高」か】  一応「高」とします】  と読める】
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