43.宝塚市湯本町11(明治)の道標

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宝塚市湯本町11 武庫川西岸沿いの道から西に分岐する三叉路(宝来橋南詰北)を15m程西に進んだ北側に南を正面に建つ
二基の内、西側古い道標
頭丸形角柱 145x南面29.5x30.5p(頂高5p)(上から38,62,100pで折損)
N34.80802 E135.3404648


写真cimg2519

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南面
┌─―――――――――――――――――┐
│六甲山               │
│   十一面観世音         │
│塩尾寺    すぐ十五丁      │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│ 大  観栄講           │
│ 坂  (発起人田中〔利平〕)   │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│厄神明王              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│          (石工摂〔津〕)│
│明治三十二年九月建之        │
│          (本丁)    │
└――――――――――――――――――┘


(明治32年は1899年)
(〔 〕部は過去のweb記事より参照。)
(( )部は『たからづかの道標』(昭和61年刊)26より、又
 「塩尾寺の参道は、23の道標から来る道筋と、25、26の道標前の道筋と2本があり
 紅葉ガ丘で合流する。」とあり、
 (23は当資料では45宝塚市中州1の道標
  25は当資料では44宝塚市湯本町11(大正)の道標
  に該当する。)
 明治の地図では、
N34.805556 E135.336225
 辺りのように見える。)
(丁石として「十五丁(1635m)」を見ると、現在の車道ではなく徒歩による道を想定すると
 ピタリと一致する。よって大きくは移設されていないであろう。
 『たからづかの道標』では、「県道との分岐点に立っていたものであろう。」としているが
 分岐点に立っていたなら、現在の南面が、東面していたと思われる。写真2.参照)
(西面にある「厄神明王」と塩尾寺の関係は知らない。方向や距離がないので、例えば西宮の
 門戸厄神を指す等、道案内ではないと考えたい。)

写真cimg5634 写真dimg2193 写真dimg2214
【1.道標を北に望む 【2.宝来橋南詰交差点より 【3.参道から東を望む
 左側(西)が当道標】  参道を西に望む  左端(北)に二基
 
 奥へ20m右側(北)に道標】  手前が当道標】

写真dimg2119
【4.宝塚西部の道標(明治44年)】

写真dimg0762
【5.宝塚南部の道標(明治44年)】

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