65.茨木市東奈良3の道標3

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
茨木市東奈良3−12−18 茨木市立文化財資料館、西植え込みの中
自然石 62x54x36p
N34.8027154 E135.5679975


写真cimg2620

写真cimg2622

写真cimg2619

写真cimg7066

自然石
西面
┌――――――――――――┐
│右 切畑        │
│すぐ妙見道       │
│左 茨木        │
└――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――┐
│すぐ龍王道       │
└――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――┐
│明治廿四年       │
│  三月        │
│ 上音羽        │
│  辻寅吉       │
└――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――┐
│(なし)        │
└――――――――――――┘


(明治二十四年は西暦1891年)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では90)
(同書には、元所在地不明としているが、施主が上音羽とあるので、この近辺だと見当を付け、明治の地図で探すと
 「すぐ」とあるのが「妙見道、龍王道」とあるので、「すぐ」の道が山腹の亀岡街道(現府道110)であるなら、
 数か所、谷沿いの集落(上、中、下ノ谷)の中を通る道筋では、それ以上ありそうだが、道標を必要とする程の人通
 りではなかったとする。
 亀岡街道上での候補として、
 @茨木市と豊能町の境、上音羽175、(直角に交わる三ツ辻なので、現西面の「左茨木」が難)
N34.907657 E135.516654
 Aその東、「常福寺」に下る道との分岐点、上音羽402の南西100m、(案内に関して、整合性がとれる)
N34.905292 E135.525150
 B更に南東の「下ノ谷」への分岐点、上音羽212、(案内に関しては整合性がとれるが「切畑」へはAより遠回り)
N34.902435 E135.527683
 C加えるなら、Bのすぐ南で忍頂寺への山道が分岐する地点、上音羽554、(現西面の「右切畑」が難)
N34.901354 E135.526953
 等が挙げられる。
  どれか一つとするなら、Aが一番可能性が高いと思う。
 の三ツ辻の下り道の西側に、現西面を東面して立てると、「右切畑」が一度谷筋へ降りた後北に峠越えの道を指し、
 「すぐ妙見」が亀岡街道を西へ、「左茨木」が亀岡街道を南へ進むことを示す。
 今の東面は、亀岡街道の西から見た時に正面に見え、「すぐ龍王道」がそのまま亀岡街道を進むことを示し、Cの地
 点から東に分岐すれば一番近いと思われ、Bの地点から北に分岐し下音羽から忍頂寺を目指せば、多少距離は長くな
 るが、歩き易い道のように見える。
  老婆心であるが、道標の多くは「…道」は今の様に道路名称を表すものでなく、「…」への「道」を示すもので、
 ここの「妙見道」と「龍王道」が同じ「亀岡街道」であっても問題はなく、逆に普通である。)
(同じく同書、北面の読み下しに「明治三十四年」とあるが、「二十四年」とした。フォントの都合上「丗」の別の書
 き方を載せられないが、「丗」であれば、「一」のあと「川」の様に書き最後の「│」を「レ」とはねるとおもわれ
 る。この道標では、「一」に「ル」なので、「廿」とした。)
(後日判明の事。『わがまち茨木」(街道編)教育委員会、平成4年刊の「亀岡街道」の中に、「明治25年以前は、亀
 岡に行くには現在の清坂街道を通っていたが、険しい坂道であったのでバイパスとして現在の道路が造られ、亀岡街
 道と呼ばれるようになった。」とあり、明治22年の地図にもこの道は記載されていない。依って明治24年建立の当
 道標は、上記@〜Cに建てられる事はあり得なく、南西、多留見峠を通る旧道上か、谷筋の集落中を通過する道で、
 論議せねばならないが、現地未踏査である為、控える。)

写真cimg7044 写真dimg1266 写真cimg7045
【1.道標を北に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を東に望む
 背の高い道標の前  右上は大阪貨物  中央が当道標
 生垣に埋れ当道標】  ターミナル線か】  この面を西面とした】

写真cimg2620 写真cimg7064 写真eimg6306
【4.道標西面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標東面拡大
 右切畑は豊能町  「…廿四」の「廿」は  右側の凹面に
 すぐ妙見は能勢】  「一」に「ル」とある】  「すぐ龍王道」とある】

写真eimg4663
【7.茨木北部の道標】
写真eimg4675
【8.茨木南部の道標】

(2023年11月24日追記)
 資料館再訪を機に、写真の追加と元位置の考察を訂正します。

写真jimg6787 写真jimg6795 写真jimg6790
【9.道標西面 【10.道標東面 【11.道標北面
 「右、切畑」  「すぐ、龍王道」は  「明治廿四年/三月」
 「すぐ、妙見道」  竜王山であろう  「上音羽」は住所
 「左、茨木」】  忍頂寺から登るか】  「辻寅吉」は姓名】

 妙見への道が多留見峠を通過するとする事により、元位置に関する上記考察は無かった事にします。
 この道標の元位置を施主と同じ上音羽内として、相応しい地点は一ヶ所と思われる。
N34.895575 E135.524826
 茨木市上音羽の最南端、泉原との境の府道110号から旧道が北に分岐する辻で、北東部に妙見石碑が建つ地点としたい。
 この場所は明治22年地図では、西に直進し多留見峠に向かい、北に折れて上音羽から能勢町切畑に続くと読める。又、
 南東への道は遠く茨木へ向うが、泉原で分岐し忍頂寺、竜王山へ向う道でもある。
 「泉原素戔嗚尊神社北東の道標」が示す妙見山への道がこの辻に出ていたならば、変則の四辻であったかも知れない。
 現在は三ツ辻の50m程東で府道に繋がっている。この状況ならば、竜王山と茨木は同じ道となりそうであるが、四辻で
 あったならば茨木は泉原素戔嗚尊神社への道、龍王は現府道相当の道を指していたかも知れない。現在同じく資料館の
 すぐ近くに置かれている、忍頂寺を案内する「東奈良3の道標1」元位置に繋がる道が手掛かりとなるかも知れない。

写真cimg7063 写真eimg5854 写真iimg6504
【12.道標を見下す 【13.元位置?の辻を北西に望む 【14.元位置?辻を西に望む
 上辺が東面で「すぐ龍王」  左、多留見峠へ  右側の石碑に三ツ辻がある
 下「右切畑/すぐ妙見/右茨木」】  右奥、旧道上音羽へ】  左下、素戔嗚尊神社道標へ】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ