64.宝塚市切畑長尾山最明寺滝東の道標

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宝塚市切畑長尾山 宝塚市平井山荘20−1の民家の階段脇から北に入り、頂上に送電鉄塔がある燈明山を東から廻り込
み、最明寺滝大聖不動明王参道へと続く道(旧丹波道)を入口から290m登った地点、燈明山分岐点の東の山側5m上に、
南を正面に建つ
(290m地点は鞍部でほぼ北方向に進んでいる、西へは鉄塔保守用らしい登り道が分岐しており、「火の用心19」と
書かれた赤い標識が西に建ち、北側の木の枝に「灯明山」の小さい札もある。その東10m、高さ5m辺りに道標が有る。
一応踏み跡があり分岐点にも見えるが、右(北東)のザレ場に直接出る道はない。)
蒲鉾形角柱 70x16x12p(頂高3p)
N34.832148 E135.391731

【訂正とお詫び 2023年11月】 所在地経緯度等に誤りあり、修正します。重ねて申し訳ありません。
【訂正とお詫び 2023年8月】 南面右下の読下しを訂正し関連を修正します。申し訳ありません。


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写真cimg5804

写真cimg5805

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南面
┌─―――――――――――――――┐
│ 右満んく王んじ近道坂     │
│梵字(キリーク)        │
│ 左満んく王んじ大道た…    │
└――――――――――――――――┘
(「満んく王んじ」は変体仮名「まんくわんじ」
 「満願寺」であろう)

東面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(梵字(キリーク)は阿弥陀如来の種子。)
(南面の右側の読みは「右満んく王んじ近道坂」としました。「近」は平仮名「を」の様に見える。「じ近」の
 間に一字入れて「右満んく王んじノ近道」等としても良いか。
 左側は「左満んく王んじ大道た…」と見え、「左、満願寺大道、たんば」かも知れない。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)40では、原位置は今より少し南の分岐点にあったと思われるとあるが、
 行先の案内(両方満願寺)と、設置の向きから考えると、道が付け変わっていないとすれば、現在位置の前後
 二ヶ所が候補地として挙げられる。
 一点目は、「火の用心No19標識」の北20mにある三ツ辻(東、ザレ場に分岐)
N34.832331 E135.391681
 辺りか、
 二点目が、同じく南30mの「火の用心No20標識」のある四辻(K字状)
N34.831725 E135.391751
 辺りと出来るが、
 ザレ場への取り付き易さからすれば、第二地点が有望と思う。
  即ち、左は、「火の用心No20標識」を直進し、最明寺滝を西に巻いて大聖不動明王石碑前を経て、満願寺に
 出る現登山道の舗装道に合流する道を示し、右はこれより近い北へ山を越す近道を示したものと出来る。
 右の道は、明治の地図に記載されていないのと、今のハイカーでも歩きにくい急坂である事が、弱点である。
 尚、此の道は未踏査であるが、ザレ場の最上部から、無名の明治の地図250mピークの西80m程の鞍部を越し
 長尾台1-18-20の民家西にほぼ直線で繋がるとする。『今昔マップ on the web』明治42年の地図参照)
(上記より、道が廃れる前(明治より前)に建てられた古いものかもしれない。)
(尚、現在(2023年)道標を訪れる場合は、「火の用心No19標識」を通り過ぎ、上記一点目分岐から、南東の方向
 へ戻る様に、斜め上に道なき道を這い上がるのが一番楽であろう。)
(2019年10月の事、山本村、平井村にお住まいの方にお聞きし、幾つか判明した事。この道標は倒れていて建て
 直すとき、向きなど気にせずに置かれたらし。この地点の下には二本の道が存在し、西側の道は元の丹波道で
 「白坂道」と呼び険阻な為、谷を挟み東側に「岩ヶ谷道」を新しく作ったところ、村間の訴訟になり明和三年
 (1766)に和解し両道とも使われた。『源右衛門蔵(二十一)』宝塚の古文書を読む会編も参照。
  『たからづかの道標』が言う、南の分岐点はこの二本の道が南から登って来た時に合流する「火の用心No20
 標識」地点を指していると思う。尚、そこから何方の道を下っても平井村小字高山(現平井3丁目)で同じ道
 になる。依って案内の必要性は薄いと思う。)

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【1.南面下部拡大】 【2.現山道より道標を望む】 【3.この道標を挟んで左右に別れる?】

写真cimg5794 写真cimg5829 写真cimg5830
【4.丹波道を挟んで南東を望む 【5.丹波道から北西を望む 【6.平井山荘20から北を望む
 道標は左枠外茂みの中  左送電鉄塔の山頂、右枠外道標  丹波道は突当り階段下を
 奥、平井山荘へ下る】  奥、最明寺滝上、満願寺】  右山道に分け入る】

写真cimg5824 写真cimg5741
【7.道標から右へ登と出てくる 【8.丹波道と参道の合流点を南に望む
 ザレ場を上から南西に望む  「左…大道た…」を進むと左側に出る
 道標は中央谷筋の暗い部分  左(東)細い道が「丹波道」、
 道標から直接には来れない】  正面奥は「大聖不動明王」参道か】

写真dimg2119 写真dimg0759
【9.宝塚西部の道標(明治44年)】 【10.宝塚東部の道標(明治44年)】

写真dimg2112
【11.宝塚南部の近世街道】

【2022/2月追記】
  『たからづかデジタルアーカイブ』にある、当道標のある道筋を描いたと思われる『12土砂留場所絵図』を見ると、
 南端に「白坂丹波海道」とあり、北に辿ると「姥ヶフトコロ」を過ぎ、「サブサカ」と書かれた辺りが当地になるの
 ではないかと思える。残念ながら上記「右…」に当る道は描かれていないが満願寺への近道が有りそうにも見える。

【2023/8 訂正】内容は、旧南面右下の読み下しを変更。
 誤:(右側下「つゝれ道坂」と読み下した)
 正:「近道坂」、坂は土ヘンが見ずらく、推定です。
(『たからづかの道標』40にある、「…正道坂」も誤りとします。)
  これにより、旧記述で「つゝれ(連)」等と解釈した記述は誤りとし、明確に距離が短い道を指すとなります。
 依って、進路は何れも北向き、「満願寺」を示すが、左の太い道か、右の近道(多分細い)を選択させる道標となる。
 「左…大道坂」は滝の上部に出た後、満願寺の西を通り、川西市の若宮から宝塚市の切畑に出て、丹波へと続く幹線
 道であった為「大道」としたと考える。此の道を『今昔マップ on the web』明治42年の地図で見ると愛宕山の西に
 「丹波坂」とあり符合する。
(近道の表現としては、
1.宝塚市中山寺山門前(東側)の道標           「清水江通りぬけち可道あり」
2.尼崎市食満6の題目塔道標               「寺より□□□ちかミち阿り」
 等が有ります。)

【2023/11 訂正】
 今回経緯度の確認と共に、「右、満願寺近道坂」を探すべく再度訪問しました。
 結果、変更点として
 1.位置に関するもの
 2.行先読み下し
 3.語句の誤り
 4.それらに基ずく考察
 これらを部分訂正で示すには余りに難しいので、全面的に修正します。反省のために、旧の記述を下に残す。
 1.位置に関するもの
  経緯度が60m程度北西を指し示していました。地理院地図の燈明山への登り口が一つしか書かれておらず、
 その地点を道標西の火の用心19標識地点と誤解していたと思う。
 今回は、スマホのグーグルマップ位置情報を用いました。
  「右、満願寺近道坂」の道は道標の現在の位置からでは無く、北へ20mの東への分岐か、又は南へ30m程の
 「火の用心20」標識のある、K字状の辻から右北東に分岐か、何れかの道で、現在のザレ場に出る事は出来
 て、合流後にザレ場のピーク迄進む事が出来ます。その先、北上する道が一本有ったが、藪がひどく進む事は
 出来なかった。
  山の反対側の満願寺側(長尾台1-18-20の民家西)からもアプローチしてみたが、それらしい道は有るものの、
 こちらも途中から断念せざるを得ない状況であった。
 未踏査区間は多分300m強と思われるが、これで調査は終了します。結論としては、ザレ場を経由して現在の
 長尾台1-18辺りに北へほぼ直線的に繋がる道が「近道」であり、ザレ場への取り付きの容易さから、分岐点
 は現在、「火の用心20」と書かれた赤い標識のあるK字状の辻であったとし、30m南からの移設と考える。
 この辻の北東部に南面して建っていたと想像し、「左満んく王んじ大道た…」が現登山道(丹波道)を示す。
  道標の向きは厳密には南西面に近いが、これは従来通り、南面のままとします。
 2.行先読み下し
  又、南面の下部も再確認の結果、右、左とも「坂」としましたが、右隣の「坂」と比べると旁部分が「こ」
 と見え「反」のくずしでは無さそうである。扁の左下の「レ」の様な切れ上りが気になるが運筆によるとし、
 単純にかな「た」とした。そうするとこの下の最下部に左斜めの線があり、これを文字の一部「ん」の始まり
 部分と読めば、合わせて「たん」となり、「たんば」の可能性が高いと考えて読みを変更しました。即ち満願
 寺と丹波の二ヶ所を案内している道標であるとする。
 皆さんの判断をお待ちしています。
 3.語句の誤り
  「ガレ場」を「ザレ場」に変えました。ガレ場は、石がコロがっている所、ザレ場は砂状のもので埋め尽く
 されている所らしい、現地は花崗岩が露出した上に、その風化物(1p以下)が乗っていて非常に滑りやすい
 状態です。地形的にステップは所々有るものの、踏み跡はなく縦横に道がある様に見えます。

写真jimg6031 写真jimg6046 写真jimg6123
【11.火の用心20標識を振返り 【12.火の用心19標識の北20mの 【13.引返し点を北に望む
 丹波道上から南を望む。  東への分岐を南東に望む  下に土留の木が見え
 元位置か、左ザレ場に登り  左、ザレ場へ急登  山道が続くと思われるが
 奥(南)は平井山荘へ下る  右、19標識から平井山荘へ  20m北で藪に阻まれる
 N34.831725 E135.391751】  N34.832331 E135.391681】  N34.832979 E135.392219】

写真jimg5988
【14.宝塚長尾台1-18辺りを西に望む
 小屋から先に南に登る道が二本
 有るが何れも藪で不可、奥60m
 で南へ向う道が可能性が高い
 N34.835565 E135.393537】

写真jimg6060 写真jimg6061 写真jimg6080
【15.南面上部拡大 【16.南面上部拡大 【17.南面上部拡大
 「右満んく王…」  「…王んじ近道…」  「…近道坂」
 「左満んく王…」】  「…王んじ大道…」】  「…道た…」】

【旧記述】
(梵字(キリーク)は阿弥陀如来の種子。)
(南面の右側の読みが難解である。「右満んく王んじ」迄は問題ないがその下が2字か3字かが分かり難い。隣
 の文字「大」の位置と比べて3文字分とすれば「つみを」「うみを」「つゝれ(連)」等と出来そうで、あり
 そうなものとして「つづれ道(ぼろぼろ道)」としてみる。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)40では、原位置は今より少し南の分岐点にあったと思われるとあるが、
 行先の案内(両方満願寺)と、設置の向きから考えると、現在位置のままのほうが、ふさわしいと思う。
  即ち、左は、ここから不動明王石碑のある(西)最明寺滝上部(井植山荘の北でもある)へ下り、平井から
 滝を西に巻いて北上する満願寺参道に合流して、満願寺門前の西側へと続く道(大=広い道)を指し、右は、
 此処から北ザレ場を登り長尾山を越えて真っ直ぐに満願寺の門前へと続く道(つづれ=ボロ道)を指している
 としその右の道を「つゝれ道坂」、左の道を「大道坂」と、呼び習わしていたのではないか。
 遠く、丹波を目指す道は「左大道坂」へ進むものと思われます。
  設置されている場所も、水が流れる谷筋をさけ、旧道の通る条件に則っているものの、明治後期の地図に
 右側の道が記載されていないのと、今のハイカーでも歩きにくい急坂である事が、弱点である。)
(上記より、道が廃れる前(明治後期より前)に建てられた割と古いものか、はたまた、「じ」と濁音表現が
 されているので、最近のものなのか、悩ましい。)
(2019年10月追記、山本村、平井村にお住まいの方にお聞きし、幾つか判明した事。この道標は倒れていて建て
 直すとき、向きなど気にせずに置かれたらし。この地点の下には二本の道が存在し、西側の道は元の丹波道で
 「白坂道」と呼び険阻な為、谷を挟み東側に「岩ヶ谷道」を新しく作ったところ、村間の訴訟になり明和三年
 (1766)に和解し両道とも使われた。『源右衛門蔵(二十一)』宝塚の古文書を読む会編も参照。
  『たからづかの道標』に言う、南の分岐点は、この二本の道が南から登って来た時に合流する地点を指して
 いると思う。尚、そこから何方の道を下っても平井村小字高山(現平井3丁目)で同じ道になる。依って案内
 の必要性は薄いと思う。)
【旧記述以上】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ