14.芦屋市三条町1の藩領石(道標では無い)

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芦屋市三条町1 阪急神戸線北側、三条八幡神社境内南東部に北を正面に建つ
尖頭型角柱 132x28x31p(頂高9p)
N34.734388 E135.296561


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北面
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│従是東尼ア領              │
└――――――――――――――――――――┘

西面
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│    尼ア領             │
│従是西    入組           │
│    佗領              │
└――――――――――――――――――――┘
(「佗」は「他」であろう)

南面
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│ 延享五年               │
└――――――――――――――――――――┘

東面
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│従是東尼ア(領)            │
└――――――――――――――――――――┘
(( )部は『芦屋の道標を訪ね歩く』より)

(『芦屋の道標を訪ね歩く』荒木勉、2007年では14「三条神社内の標石」)
(延享五年1月1日なら1748年1月30日火曜日となる。尚、延享五年は7月12日まで。当時の藩主は松平忠喬か。
 この人は28歳の時、掛川から尼崎へ転封され、1751(寛延5)年、忠名(ただあきら)に家督を譲るとある。)
(横の説明板には、「芦屋は尼崎藩領として三条村、津知村、芦屋村、打出村の四ヶ村があった。明和6(1769)年
 芦屋村、打出村は天領(江戸幕府の領地)となったが、三条・津知村は尼崎藩領として幕末に至っている。このよ
 うに尼崎領は天領の入組みが各地に存在したため所領を明示するための傍示を各所に配置した。現在、阪神間にも
 数基の傍示が遺存しているが同じ大きさのもので同一書体である。裏には延享5年(1748)の銘がある。
 昭和56年8月 芦屋市教育委員会」とある。)
(補足すると、「数基」は現存するもので尼崎2基、伊丹3基(1基は博物館内で見れない)、西宮3基、芦屋2基、
 神戸に1基で、合計11基。大きさについては、現在の露出高162〜212p、幅は19.5〜22p、奥行き19〜23p、
 頭部四角錐の高さ3.5〜7pの範囲である。
  書体については「太い楷書」で「従是」に続き方角と「尼崎領」と文面も統一されているが、筆跡は明らかに異
 なる。)
(阪神間に残る領界石の内で紀年のあるのは当石標だけで貴重な存在ではないかと思う。尼崎藩領の詳細については
 「Web版図説尼崎の歴史」の近世編第2部、成長する摂津地域1、明和(1769)上知前後の摂津国内所領変遷を参照。
  又、「尼崎市西川2の尼崎藩領碑」や、近くの「神戸市東灘区森南町の藩領石」等も参照下さい。)
(村の位置は「元禄国絵図摂津国」等で見られる。すぐ西の「中野村」が他領で南の「森村」が尼崎領で、且道筋に
 あった、とすれば元の位置は、現(2020)芦屋市三条町6−10の西
N34.733460 E135.293504
 の神戸市東灘区森北町との境辺りかも知れない。
  尚、『芦屋の道標を訪ね歩く』では「元は、三条町161の民家に保管」とあるが場所は不明。)

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【1.領界石を東に望む 【2.領界石を南に望む 【3.領界石を南西に望む
 右端に当領界石  後ろは阪急神戸線  右側が北面
 左に社殿がある】  社殿の南側にある】  左側が東面となる】

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【4.領界石北面下部 【5.領界石西面下部 【6.領界石南面下部
 「尼ア領」  「尼ア領…」  「延享五年」
 と読める】  「他領」と読める】  紀年有は珍しい】

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【7.領界石東面下部 【8.領界石解説板 【9.元位置候補を南に望む
 「…東尼ア」  「境界石標」  道左(東)は芦屋市
 までは読める】  として説明】  突当り左300mに神社】

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【10.芦屋市の道標】
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