34.西宮市甲陽園山王町1の東側道標

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西宮市甲陽園山王町1 南北の道(大師道)に東西の道が交差するが
西側にもう一本道が分かれている五叉路の北部に、南を正面に建つ
(西側北の道は上り、南の道は甲陽園通り。)(西にもう一基道標がある。)
尖頭型角柱 165x南面31.5x29p(頂高8p)
N34.763683 E135.334369


写真cimg9085

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写真cimg9087

写真cimg9088

南面
┌─―――――――――――――――┐
│(右指差彫)右(旧)大師道   │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│大正九年六月之建        │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│     大野宗太郎      │
│大師近道            │
│     葛馬一松       │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(疑問点、東面「大師近道」はどれを指すのか。南面には方向が指定されているが、この面にはない。「すぐ」を示
 し西への道を指すのか、東面にあるので、南北の道を指すのか。下で考慮する。
 又、建立が大正九年とあり、またすぐ西にも同年の道標があり、建設の動機は何なのか。古い道標を建て替えたの
 か。
 寺の勧請があったのか、同年は、阪急神戸線の開通により参詣者も増えた、奇特の人も増えたのであろうか。)
(『宮っこ』1982年10月号、西宮コミュニティ協会に「1982年春に道路拡幅により1.5m西に移動」とある。
 同じく、1993年6月号に、「1993年3月道路拡張工事完了」
 同じく、1991年12月号に、「1992年3月道路改良工事完了予定」等があり、道自体も道標も、大正九年当時と全く
 同じではなかろう。)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、11。)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、17。
 同書に、「昔と変りなく静かにここに建ったまま」とあるが、刊行時点でも既に南面には改変が加えられていた事
 が写真から判断できる。
  では何故、南面「旧」がセメント様のもので埋められているのか、ここからは勝手な憶測である。
 一つ、明治44年の地図には、この地点に道は無く勿論辻も描かれていないが、東約150mに南北の道(明治旧
 道とする)がある。よって、現在バスの走る大師道(現大師道とする)は明治44年には無く、昭和七年地図には、
 ほぼ現在の道が描かれており、大正九年はこの間の事となる。
 二つ、甲陽園の開発が、大正七年に始まり、六軒から尾根筋を通る、現大師道が付けられ、明治旧道よりもこちら
 の道が主要道になり、この道標や、現大師道用の新丁石が建てられた。即ち、それまでは道が無かったと思われる。
 この時点で、右(東)が旧来の大師道(明治旧道)への案内で、此処から北に登る現大師道が「近道」になり、碑
 面の案内は正しい。(明治の旧道では1.8q。)
 三つ、さらにその後、大師道と云えば「現大師道」が当たり前になった時、南面の「旧」は要らないので「消しま
 しょうよ」となった、では、「右と指差しは」どうするのと問う人がいたが、辻のやや西にあれば、北向きの道が
 「右」と解釈できるので、「このままにしておく」となり、現在に至ったのであろう。)
(他の丁石、「68.神呪寺丁石一覧」も参照下さい。)

写真dimg4897 写真dimg4909 写真dimg4915 写真dimg4900
【1.道標を北に望む 【2.道標を西に望む(右側) 【3.道標を北に望む 【4.道標の辻を東に望む
 奥(北)神呪寺へ  右、現大師道(バス道)  「旧」がセメントで  奥(東)150m坂下に
 右側が当道標】  中央奥、獅子ヶ口参道へ】  埋められている】  明治以前の旧道】

写真dimg3829 写真dimg3838
【5.西宮南部の道標】 【6.神呪寺丁石一覧】
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