33.西宮市甲陽園山王町1の西側道標

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西宮市甲陽園山王町1 南北の道(大師道)に東西の道が交差するが、
西側にもう一本道が分かれている五叉路の北西部に、南を正面に建つ
(西側北の道は上り、南の道は甲陽園通り。)(東にもう一基道標がある。)
尖頭型角柱 142×30.5×30.5p(頂高6p)
N34.763646 E135.3343


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南面
┌─―――――――――――――――┐
│(左り) 大師道        │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│大正九年四月建之        │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│   富永組配下        │
│寄附者 吉田長蔵        │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

(南面(左リ)がセメント様のもので埋められている。)
(明治時代の地図には、ここの道、辻、共に描かれていない。甲陽園土地組合による開発が大正7年とされる。)
(昭和七年地図には、ほぼ現在の道筋に当たると思われる道が描かれている。)
(現在の辻の左(西)北寄りの道は、甲陽園目神山町10の道標へと続いている。当時の大師道の一つであろう。)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、10。)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、16。
 同書で、「この碑は始めからここに建てられていたのであろうか」と疑問を呈しておられる。理由は、「東隣の道
 標に先立ち建立されたのに、後方に控えめな姿でひっそりとたつ。」とされる。
  それはさて置き、現南面の「左リ」がセメントで消されている点である。東隣の道標より二か月早いだけでなの
 で道路状況は変わっていないとすると、「大師道」がどの道を示すかを検討してみる。
 東隣の道標には、旧、新(単に大師道と書かれている)の道が示されているが、当道標にあっては、一本の道しか
 書かれていない、これが、新道か、旧道のどちらを示しているのか。「旧」が無いなら一般には、新道であろう。
 現辻に建っていたなら、辻の中のどの位置に置こうとも、「左」が北を指す様に設置可能であるが、北面の空白を
 考慮し、それが背面にきて、左が北になるのは、辻の北東部か南東部に限られる。
 現在の道路状況を見ると、大師道の東側は、民家で歩道も広く取れないようで、道路拡幅をする時、東側に建って
 いたなら、間違いなく、拡幅に障害のない、北西部に移されるであろう。
  辻東側の、北か南かを、人の動線から考えてみる。当時、甲陽園(現レジャー施設の様なものか)や、阪急の同
 駅から、甲山神呪寺へが向かうに、甲陽園通りを南西から来てこの辻へ出ることが多いと思われる。ここで最も目
 立つ位置は、辻の北東部で、歩行者には正面に見える。先行して道標を建てるならこの位置であろう。
  依って、この辻の、北東部に、現南面が、西面となり建っていたものとする。
  移設する時には、既に、「34.東側道標」が二番目に目立つ位置に置かれていたため、少し遠慮してやや西に
 した。
 ここに移したなら、現南面「左リ大師道」をそのままにしておくと、西を指し不都合が起きるため、コンクリート
 で埋めてしまったものとする。)
(一方、移設は無かったとすると、「左リ」が埋められた理由を次のように説明すれば解決する。
  神呪寺参詣道の内、三番目の道として、獅子ヶ口道がある。この道筋は、獅子ヶ口町から甲陽園目神山町を通り、
 神呪寺山門の南に有る、一丁丁石に到る、ほぼ北への直登ルートである。(下図6.では、明治時代を紫で示す。)
 当道標から、この道に出ることが可能で、その道は、やはり「大師道」なのです。今のバスが通る大師道ではない、
 獅子ヶ口系統の大師道を案内していたのだが、現大師道の筋が、バスが通るような道に拡幅された時、「左」を残
 しておくと、誤って車を乗り入れると厄介なので、この「左リ」を消したと考える。
  こちらの説を補強する事実として、此処を左に道を採ると、途中、二つの道標(甲陽園目神山町の4243
 に出会い、その道標の寄附者がなんと「吉田長蔵」、建立日が「大正九年四月」なのです。(三基を同時に建立。)
 これは、最早疑いなく、「左リ獅子ヶ口系統の大師道」への案内に違いない。道の形状もここで180度Uターンし
 て西に進まなければならず、辻の内にあるより、むしろ少し西に位置した方が、自然な感覚となる。
 ならば移設の必要もないのです。(道路拡幅による、北への移動はあるかもしれない。)
 であるから、「左リ」を消してはいけないのです。
 「大師道」の下に、「獅子ヶ口系統」又は、「目神山町経由」と入れるべきなのです。)
(依って、移設は無く、碑面は、改悪されている、とする。(道路拡幅による近接移設は否定しない。)
 尚、東側道標は、1982年春に道路拡幅で1.5m西に移動されているらしい。)
(他の丁石、「68.神呪寺丁石一覧」も参照下さい。)

写真dimg4901 写真dimg4910 写真dimg4903 写真dimg4904
【1.道標を北東に望む 【2.道標を西に望む(左側) 【3.道標を北に望む 【4.道標南面の拡大
 左(北)神呪寺へ  右、現大師道(バス道)  現在は歩道上にあり  埋められた文字は
 左側が当道標】  左奥、獅子ヶ口参道へ】  「左リ」をセメントで塞ぐ】  「右」でなく「左リ」】

写真dimg3829 写真dimg3838
【5.西宮南部の道標】 【6.神呪寺丁石一覧】
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