31.西宮市六軒町3の道標

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西宮市六軒町3-35 東西の道から北に分岐する三叉路の北西部に、東を正面に建つ。
尖頭型角柱 166x東面24x21㎝(頂高6㎝)
N34.755493 E135.337818


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東面
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│左甲山大師道          │
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南面
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│(左指差彫)大正八年六月建之  │
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西面
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│   大阪北久寶寺町      │
│       辰巳彌助     │
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北面
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│(なし)            │
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(旧くは、この地点より北70mにあった道が、大師道であった様に思える。)
(昭和七年地図には、西(案内の)への道が太く描かれている。)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、№9)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、№14。)
(明治44年の地図を見ると、現地点に辻は無く、東140mに三叉路(東川に五月橋が架かる)が見え、橋を北に
 渡り、六軒の集落へと続く旧道から西に分かれ、川沿いに進む分岐の無い道(現御手洗通り)になっており、
 此処に道標を建てる意味はなさそうである。
  勝手な想像であるが、大正七年の甲陽園開発に伴い、川沿いの道が整備され主道となり、集落への便も考える
 と、ここから北に折れる道を新しく付け、旧道に繋げたと思われる。(今も70m先で、東からの細道と合流。)
  そこで、この道標の必要性が生まれ、建てられたものと考える。
 右(北)に折れて、旧道に入ってしまうと、明治には既にあった御手洗川?に沿って登る、旧大師道を行くこと
 になり、新道(現バスの通る大師道)に続かなくなり、新道への案内としたものであろう。
  新「十三丁丁石」まで、850m、神呪寺まで2.7㎞(25丁)の距離にある。)
(他の丁石、「68.神呪寺丁石一覧」も参照下さい。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む 【4.道標を北に望む
 中央木の右に当道標  奥、六軒の集落へ  奥(東)広田神社へ  北への道は明治期に無し
 左奥、神呪寺へ】  左右は御手洗通り】  左は六軒の集落へ】  70mで旧道に当たる】

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【5.西宮南部の道標】 【6.神呪寺丁石一覧】
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