86.宝塚市波豆向山東の(大)道標

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宝塚市波豆向井山 県道68号普明寺橋(宝塚市波豆谷田西掛)を南に渡り道なりに約600m、
池西掛の土蔵のある民家西側より近畿自然歩道を南西へ徒歩220mの分岐点に西を正面に建つ
(西10mに小さな道標がある。)(向山は山の名前、住所は向井山と思われる。)
自然石 136x78x34p(台石30x90x80p)
N34.902209 E135.280778


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西面
┌─―――――――――――――――┐
│  延享二乙丑年八月是□□   │
│          施主(麹)屋│
│(梵字)奉大峯山上三十三度供養 │
│         (庄右衛門) │
│  左 京あたこ        │
└――――――――――――――――┘
(梵字はカーン:不動明王か)

東面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(延享二(乙丑)年八月1日なら、西暦1745年8月27日金曜日となる。)
(( )部は『たからづかの道標』(昭和61年刊)85より、解説中に、
 「大原野から現在千刈水源地に沈んでいる波豆村を通り山を越えて三田に向かう街道に立つ」とあり、
 水没を避け移設かと思いきや、明治の地図でも現位置のままで沈まなかったようで、移設なしとする。)
(西面の「左 京あたこ」は京都亀岡市の東、愛宕山とする。江戸時代、京都方面への道は、今の国道に
 等しく、主要な道であったと思われる。
  この道標のある道は、三田と大原野村を最短で結ぶ道である。時代の近い国絵図を見ると、
 元禄国絵図(1702年)では、大原野村からは街道を示す赤線が国境まで繋がっており、京への主要道で
 あることが確認出来ますが、三田から大原野村への道を赤線で辿ると、三田から北、木器へ、南下し、
 波豆へ、東進し大原野となり、なぜか遠回りしている。慶長国絵図(1604年)にはそれらしき道があり、
 天保国絵図(1838年)には無く、明治44年(1911年)の地図にはある事が判った。
  江戸中期から後期だけ道がなかったとは考えにくいので、この道は当時からあったとする。
  即ち、この道は、三田から波豆まで、全7qで、元禄国絵図の道を採るより、約4qも近道である。
 当道標の西にも小さな道標(87)があり、人々の行き来が多かった主要な道であったと想像される。)
(南西から来て、ここを左(北)に進むと、「bW5.宝塚市波豆大畑東掛23の道標」に続くとした。)
(波豆から後の、京への道順であるが、佐曽利、木津(又は笹尾か)、その先清水から、北西、柏原村経由、
 丹波国入り、又は北へ、杉生村経由、丹波国入り後、亀岡(亀山)への二通りがあるが、何れも一度丹波の
 後川に出ることになり、遠回りとなり過ぎる。
  そこで、木津から東へ、槻並、上阿古谷、民田、平通、下田尻と進み北へ吉野村(現国道477)経由か、
 更に東へ、野間、野間口から現国道423で亀岡へと行けそうであるのだが、国絵図ではうまく辿れない。
 さて如何なものであろうか。)

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【1.池西掛の土蔵のある 【2.道標を東に望む 【3.西隣の小道標を南に望む
 民家を南西に望む  左手開けた所が北からの道  右(南西)三田への登り
 右突当り白い納屋を左(南)へ】  道標より右は湖畔へ】  左枠外に当道標】

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【4.西の道標越しに北東を望む 【5.道標二基を南に望む
 撮影場所の背後から登り  中央左、斜めの木の左に大
 になる】  中央右一番太い木の右に小道標】

写真cimg7282
【6.宝塚北部の道標(大正5)】

【参考】
 元禄絵図は、
 「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「元禄国絵図摂津国」
 閲覧可能です。
 【追加 2023年9月】
 『今昔マップ on the web』明治の地図でこの辺りを見る。
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