17.茨木市宿久庄七丁目1の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
茨木市宿久庄七丁目1 府道4号線、勝尾寺川の北側支流(川合裏川)に掛かる御殿場橋東50m、三叉路北西角に南を正面に建つ
尖頭形角柱 106x南面24.5x15.5p(頂高4p)
N34.843497 E135.526108


写真eimg4742

写真eimg4745

写真eimg4743

写真eimg4744

南面
┌────――――――――――――――┐
│  右畑豊公御座松旧跡       │
│従是         道      │
│  すぐ勝尾寺           │
└――─―――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――┐
│昭和六年五月 畑青年會建之     │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

北面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


(昭和六年は、西暦1931年となる。)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では76)
(同書に「畑村では、豊臣秀吉がここへ来て、山上の松の下で…」とあるが、集落名でいうと、ここは鳥羽になり、畑
 は北西1q辺りになる。戦国の世であれば地形を見る為に山に登るのは必定、定まった後、物見遊山で来たものか。
 「御座松」は同定できておらず、今後の調査としたい。)
(又、同書に「青年会が建てたというのも珍しい…」としている。青年会が建てたものとして他に、
 1.「18.吹田市上山手町11の道標」 大正14年
 2.「30.豊中市豊南町東1道標」   大正5年
 等があるが、これは時代が新しいためか、少し様式がことなる。)

写真eimg4739 写真eimg4748 写真eimg4741
【1.道標を南東に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北に望む
 奥、豊川1交差点へ  奥(北西)粟生間谷へ  左奥(北)須久久神社へ
 左石垣横に当道標】  左は勝尾寺川】  後方は、往生寺か】

写真eimg4747 写真eimg4746
【4.道標南面拡大 【5.道標上部
 御座松は不明  角柱よりは
 北の神社辺りか】  板碑型とすべきか】

写真eimg4675
【6.茨木南部の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ