34.茨木市上音羽402南の道標

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茨木市上音羽402 東西の府道110号の南の山側斜面に、北を正面に建つ
(「茨木市上音羽167南の道標」より東680m。(クラブ前バス停の東200m、浄福寺への分岐点から西80m))
尖頭型角柱 161x24.5x24.5p(頂高4p)(基部9p含む)
N34.905571 E135.52438


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北面
┌────――――――――――――――┐
│亀岡街道 距 高麗橋元標八里    │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│ 福井村遍照寺橋二里二十二丁二間  │
│至                 │
│ 茨木停車場 三里二十三丁五十間  │
└――─―――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――┐
│至 丹波国界 一里十三町五十間   │
└――─―――――――――――――――┘

南面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では31)
(同書に「どうしてこのような所に立っているのだろうか。」としている。明治44年の地図で見ると、ほぼ今の府道と
 同じ位置に亀岡街道が見え、当時の主要道路であれば、単に距離「八里」がこの位置であっただけで、ここに立つこ
 とは不思議でもない。敢えて言うなら、明治に建てられた道路元標は、村の中心に建てられていたが、この近辺では
 相応しい場所が無かった為かと思う。
 亀岡街道上で、吹田市の「吹田市岸部北3の道標」に「大阪へ三里」とする道標があり、官製では無い様だが、この
 鳥居前から、ここ迄が「5里=19.6q」(今の地図でザット18q以上と見える)であれば、元の位置として問題な
 いであろう。)
(西面「丹波国界」が何処を指すかであるが、東から、清坂、長谷、能勢の牧、等が考えられるが、距離の点で、同書
 にある、清坂が妥当であろう。又西面に書かれている点、東方への道を示すであろうが、すぐに分岐する必要が有り
 そうだ。)
(建設は、茨木駅開業が、明治九年(1876年)8月9日なので、それ以降であることは間違いない。
 因みに、明治25年地図(22年測量)にはこの道が無く、『わがまち茨木』(街道編)、教育委員会、平成4年刊には、
 明治25年に、この道が造られたと記述があり、しかも「上音羽には里程表もあった。」としているのはこの道標を指
 すと思われ、建設年は明治25(1892)年以降になるであろう。)
(『石の文化財』豊能町教育委員会発行、平成28年改訂の、31頁に、「元は多留見峠にあったものである。…「至丹波
 国境一里十三丁五十間」は多留見峠から清坂峠までの距離であろう。」としており、根拠は明確にされていないが、
 明治25年以前とするなら、これが正しいのではないかと思える。ただ「清坂峠」は現在の府道43号の峠ではなく、
 「茨木市清阪63地先の道標」のある旧道の峠(推定5.4q、1里14丁)であろう。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 奥府道110を泉原へ  同左、暗部を  奥(西)クラブ前バス停へ
 右山際に当道標】  近くで撮影】  特に目印がない地点】

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【4.道標を南に望む 【5.道標北面上部 【6.道標北面中部
 左(東)泉原へ  「亀岡街道」  「距 高麗橋元標八」
 右、能勢余野へ】  と読める】  と読める】

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【7.道標東面中部 【8.道標西面中部
 「照寺橋二里二十二丁二」  「国界 一里十三町五十間」
 「車場 三里二十三丁五」】  と読める】

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【9.茨木北部の道標】
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