8.三島郡島本町東大寺の道標1/2(二基の内東側)

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三島郡島本町東大寺一丁目 北東から南西への西国街道から西の柳谷道が分岐の四辻南西部に北東を正面に建つ
西に、もう一基が建つ)
尖頭形角柱 168x28x24.5p(頂高8p)下から20pで折れている
N34.888508 E135.672219


写真eimg7841

写真eimg7842

写真eimg7844

写真eimg7845

北東面
┌――――――――――――――――――――┐
│官幣     左へ           │
│  水無瀬神宮             │
│大社     三丁           │
└――――――――――――――――――――┘

北西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

南西面
┌――――――――――――――――――――┐
│昭和十四年三月一日 水無瀬神宮洗心流  │
└――――――――――――――――――――┘

南東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(昭和十四年は西暦1939年である。)
(同時に建てられたやや細めのものが、山崎字堤下にあり、
 方向「南西」が違うだけのようだ。)
(『史跡をたずねて』島本町教育委員会発行、平成18年刊では、66)
(同書には、「…1939年水無瀬神宮洗心流が立てた。」とある。「洗心流」は華道の家元か。
 戦争の始まる直前であり、国策と神社が結びついた時代のものであろう。
 ここから三丁では、現水無瀬神宮には行き着かず、西国街道を南西に4丁で、神社標のある三ツ辻となり、
 水無瀬川を渡りすぐに西国街道から路地に入って、神社北端までとしても4丁になり、距離が一致しない。
 「三丁」が水無瀬神宮西の鳥居を示すものであれば、西国街道の三ツ辻(現社標が建つ)からが普通だと
 思われ、移設の可能性が出てくる。
  移動が無ければ、3丁地点は島本町教育センター北側の筋違い四辻辺りとなり、ここからが神社の境内、
 或いは入口と見なしたものか、3.8丁の少数部を切り捨てて表示しただけのものかも知れない。)

写真eimg7839 写真eimg7840 写真fimg0979
【1.道標を南西に望む 【2.道標を西に望む 【3.西国街道を北に望む
 奥(南西)高槻へ  手前が当道標  道標から3.8丁地点
 背後、京都へ】  奥、柳谷観音へ】  右(東)神社へ】

比較の為二つ並べると
写真cimg1561 写真fimg1002
【4.当道標を南西に望む 【5.山崎字堤下の道標
 太さ、 28x24.5p  太さ、 28.5x16p
 高さ、168p(頂高8p)  高さ、151p(頂高4p)

写真eimg6776
【6.島本町の道標】
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