35.高槻市霊仙寺町の道標

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高槻市霊仙寺町1丁目 府道115号、霊仙寺薬師堂横駐車場へ下る道の分岐点北部、路肩に南を正面に建つ
(白山神社北130m、府道115号は、萩谷・西五百住線、明治時代は富田街道)
尖頭型角柱 105x南面22x19p(頂高8p)(台石47x50x50p含まず)(各面両サイド1.5pに幅、深さ3oの縦線を刻む)
N34.87764 E135.580592


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南面
┌――――――――――――――――――――――――――┐
│(梵字)一言不動尊鶴(林山霊山寺)         │
└――――――――――――――――――――――――――┘
(梵字はカーン、不動明王の種子、径85oの丸で囲み蓮華台付)

東面
┌――――――――――――――――――――――――――┐
│   右 萩谷 道                 │
└――――――――――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――――――――――┐
│(印)                       │
│時寶暦七年歳次丁丑秋九月 蘇洲沈士龍(謹書崎陽旅館)│
│                (印)(印)    │
└――――――――――――――――――――――――――┘
((印)は落款の様に見える印)
(「時」は「山、土、日」を組み合わせた字)
(「蘇」は「禾」と「魚」が入れ替わる、別体の字)

西面
┌――――――――――――――――――――――――――┐
│   當山第十世現住本瑞(覚峯十界助縁敬立)    │
└――――――――――――――――――――――――――┘
(「第」あまり見かけないくずし方と思われる)


(欠損部の読みは『高槻の道しるべ』より、同書は『大阪府史』よりとする。)
(寶暦七(丁丑)年九月1日とすると、西暦1757年10月13日木曜日となる。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、69)
(同書では、現在地より南200mの三ツ辻辺りとしており、現地点は移設後と思われ、図示された元位置は
N34.876030 E135.581279
 辺りと思われる。
 明治の地図では、寺への入口となる三ツ辻で、寺標兼道標としては申し分ない位置に建っていたものと想像され、辻
 の北西部に建っていたのではないか。)
(北面に有る紀年の文字、或いは全面かも知れないがは、中国の蘇州から来た人が書いたものであろうか、とすれば珍
 しいものと思われる。元は紙に書かれたものと思われ、落款のような印が三ヶ所にも見られ、これも又他に類を見な
 い。(2021/5追記参照)
  その他、各面の両脇に縦線が施されている等、盛沢山の道標である。宝暦七年が建立日であるなら、道標としては
 結構古くその割に、風化が進んでいる様には見えず今後も永く残って欲しいものである。
 【参考】書画には、完成時に三顆印(さんかいん)を捺すことが作者の責任とされるようで、右上が関防印、左下に
 白文印、更に下が朱文印と呼ばれるらしい。一般に白文には姓名が刻まれるらしいが、この石からは判読が難しい。)
(寺名は「鶴林山霊山寺」、地名は高槻市「霊仙寺町」であるが、読みはいづれも「りょうぜんじ」のようである。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標南面上部
 奥(北)萩谷へ  奥(南)奈佐原へ  梵字を丸で囲み
 手前、奈佐原へ】  右、寺の駐車場へ】  蓮華台に載せる】

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【4.道標の東面拡大 【5.道標西面下部 【6.道標北面下部
 折れたとはいえ  建立主の名前であろうか  右に「…士龍…」とあり
 下に過ぎるのでは】  北面との関係は不明】  左に二つ落款が見える】

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【7.高槻中部の道標】
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【8.高槻南部の道標】

【2021/5追記、落款印を持つもの「神戸市北区有馬町端宝寺北の道標」「大阪市北区中津7の道標」等。】
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