22.豊能町妙見山新滝道二十二丁丁石

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
豊能町吉川112 花折街道旧道と国道477号が出会う辻の北西部に南を正面に建つ
山型角柱 108x21.5x14p(頂高6p)
N34.918692 E135.449745


写真fimg0059

写真fimg0141

写真fimg0142

写真fimg0052

南面
┌――――――――――――――――――――┐
│是ヨリ     市外十三 講      │
│御山ヱ二十二丁  妙正講  河本壽四郎 │
│             元      │
└――――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――――┐
│大正十年二月建之            │
└――――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(大正十年は、西暦1921年。)
(『石の文化財』豊能町教育委員会発行、平成28年改訂では、73頁。)
(同書に、「上杉池の南を通って東へ急な坂道を登る旧参道とは別に、上杉池の西を北に進む新参道がひらかれた」と
 あり、その新参道と旧参道が分岐する50m南の地点に立っている。大正12年測図の地図でも確認できる。
  丁石建設時には、今の国道477号はなく、妙見口駅方面から来て黒川へ向かう道しかなく、現在の三ツ辻は無かっ
 たと思われ当然、道も拡張されているため近接移動は免れないであろうが、「廿一丁」丁石迄の距離が160mと少し
 離れすぎている。
 21丁から18丁丁石間が三丁であるべきところ、ちょうど4丁(436m)と離れすぎではある。動かしにくそうな
 地点ではあるが、21丁を基準にすると、この丁石が50m南に移設された可能性が高い。
 もし50m北であったとすると、前述の新旧参道の分岐点に一致する。この辻の北東部は池の土手になっており、現在
 も石燈籠等が残っている為、道の東側に立っていたものなら、そこに残されたと思うが、西側に立っていた為、道路
 の新設、拡幅により現在地に移設されたものと考える。
 よって元位置は、
N34.919057 E135.450063
 辺りとしたい。)
(南面の「市外十三」であるが、「大阪市外の十三」を意味するものと考える。この十三は江戸期、摂津の国の堀村辺
 りと思われ、明治22(1889)年の町村制施行により神津村に、大正11(1922)年に西成郡神津町になったとあるので、
 大正10年には「神津村」であったと思われる。
 よって普通に書けば、「神津村十三、妙正講」であるところを、「大都市の近くですよ」と言いたかったものか。世
 話人の名前の大きさなども、何か見栄っ張りな感じがする丁石である。)
(尚、新滝道参道に建つ一連の丁石中、確認できるものの内、この丁石だけが「大正十年、妙正講」で、他は「大正八
 年、大正講」となっており、同一に論じてはいけないかも知れない。
 又、大正11(1922)年2月には「妙見鋼索鉄道(株)」に敷設免許がおりて、大正14(1925)年にケーブルが開通し、
 年間40万人もの利用者があった(能勢妙見山の鳥居跡解説板)ようで、役立った期間は短かいものであったかもしれ
 ない。
 「敷設免許下付」は、国会図書館デジタルコレクション「官報、1922年2月20日」で参照可能。)
「豊能町妙見山新滝道丁石一覧」も参照下さい。)

写真fimg0138 写真fimg0057 写真fimg0058
【1.丁石を南西に望む 【2.丁石を北東に望む 【3.丁石を北に望む
 奥(南西)妙見口駅へ  左奥(北)国道477を  左(南西)妙見口駅へ
 背後、国道477交差点】  妙見の森ケーブル駅へ】  右、妙見の森ケーブル駅へ】

写真fimg0060 写真fimg0061 写真fimg0051
【4.丁石南面の上部 【5.丁石南面の下部 【6.丁石東面下部
 「市外十三」は  講元の名前が  「大正十年二月建之」
 「妙正講」の有った所か】  大きすぎて品が無い】  と読める】

写真fimg0151
【7.丁石前より北東を望む
 中央土手下より右が
 旧参道と思われる】

写真eimg9535 写真eimg9528
【8.豊能町の道標】 【9.新滝道丁石地図】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ