40.能勢町吉野の題目道標

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能勢町吉野236 府道106号のR477交差点より南40mの四辻を北西に20m、小屋の北側に南西を正面に建つ
蒲鉾型角柱 148x48x40p(正面碑面xp)(南東碑面幅下部34.上部25p)(台石24x80x66p)
N34.984165 E135.473116


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南西面
┌――――――――――――――――――┐
│       右き袮能宮道     │
│南無妙法蓮華経 法界        │
│       左 いけだ道     │
└――――――――――――――――――┘
(「能」は変体仮名「の」、「岐尼の宮」か)

南東面
┌――――――――――――――――――┐
│元文二丁巳年   谷清兵衛     │
│        施主        │
│         同利兵衛     │
└――――――――――――――――――┘

北西面
┌――――――――――――――――――┐
│ 五月十三日            │
└――――――――――――――――――┘

北東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(元文二(丁巳)年五月十三日は、西暦1737年6月11日火曜日である。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では40)
(同書に「現在南向きであるが元は北向きで西橋詰付近に立っていたと思われる。…道分けの道標から四十年
 ばかりの間に岐尼の宮道は当所を通ることとなったのであろう。」とある。)
(現南西面の「右き袮能宮道」は「岐尼神社」即ち森上、今西への道府道106、「左池田」は国道477の各方
 面であろう。
 国立公文書館の「天保国絵図」から建立位置を同定するのは少し無理であるが、川の西で吉野村集落の西
 であろうことは読み取れる。
 よって現在地に近いと思われるが、向きが変わっていると思われ、「右きねの道」を満足するには、北面
 (左池田も同じ)している必要がある。よってこの道標は丹波との国境現在の「ひいらぎ峠」(絵図では
 播磨谷)から南下する人の為に設けられたものであろう。南東80mにある「奥田橋の道標」が北、亀岡
 方向を案内するのと対照的である。
 尚、峠から池田に至り大坂天神橋迄の道を「五畿内誌」75コマでは「吉野嶺」とし、池田ー吉野の間を
 四里三十二町(19q)、吉野ー峠を六町(650m)(八幡神社の石燈籠の建つ辻、酒屋さんの北辺りと
 なるか)としている。)
(南東面の施主名下部が、台石に埋め込まれている事から、台石は別製と思われ、上記の方向が変わって
 いる事も含め移設されていると思う。)
(尚、前述の書に有る「元禄から元文の間に道が付け換わった」かは分らないが、「道分けの道標(不明)」
 で述べた様に明治の地図から想像すると、吉野峠から西山裾を廻る道が主要道であったと想像でき、山越
 へで七面寺へ出る道を除けば、岐尼の宮道は以前から当所を通っていたものと思う。ただ現在の府道106
 が山裾を削り直線的に付けられたことにより、三ツ辻は西に移動し四辻になったと思われ、旧道の辻は現
 在(2018年)東の民家の北東、奥田橋の西に痕跡らしきものが見られる。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を北に望む
 右後方国道を亀岡へ  右奥、突当りが国道  左奥、旧道を峠へ
 右、旧道の奥田橋】  手前一時停止が府道】  背後、府道交差点】

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【4.道標南西面下部 【5.道標南東面拡大 【6.道標北西面拡大
 「右き袮能宮道」  「元文二丁巳年」  「五月十三日」
 「左 いけだ道」】  下部に「施主…」】  と読める】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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