36.能勢町柏原石田辻の道標

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能勢町柏原201 府道104号柏原公民館50m北の三ツ辻南東部に北西を正面に建つ
自然石 61x37x35p
N34.963419 E135.412094


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北西面
┌――――――――――――――――┐
│右曽我宮(道)         │
│   是より          │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『能勢の道しるべ』より)

北東面
┌――――――――――――――――┐
│左ハ妙見(山道)        │
│  施主七(墓巡同行中)    │
└――――――――――――――――┘

南東面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南西面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(自然石で大きな面は4面あるが、南側に少し凹んだ面がある為、5面とした。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では36)
(同書に「…半分は埋まっているが、以前は図や写真のような…道標で木戸岡の道標と同じ「七墓巡同行中」
 と刻み、同書体であるので同時に設立されたものと思われる。」としている。尚、北西面の読みを「右ハ
 曽我宮」としているが「ハ」は「曽」の上部と見なした。又、この面の左下に「是より」の文字が見える
 が同書には記述が無い。多分距離が書かれており、「二丁」と刻まれていると想像する。
  次に、同書体としている点であるが、「くずし字」を以て同書体とすれば同じといえるが、筆跡を見る
 限り同じ人の手ではないであろう。
  又、同書に「丸い道標の頭頂には「ままごと」遊びの跡が残っているのも懐かしい。」とあり、これは
 盃状穴と呼ばれるものと思われ、触り易い道標に多く見受けられるが能勢町内では見かけない。)
(北東面「左ハ妙見」は名月峠越えを示すようで、明治の地図を見ると東へ約1qほぼ一直線に峠へと続き
 「明月峠の地蔵道標」に行き着き、現在の道と同じ経路であったように見受けられる。)
(「七墓巡」とは『上方』第56号(大阪探墓号)の「七墓巡り」の序言に、「今は途絶えたが、貞亨、元禄
 の昔より明治初期に至るまで久しい間、大阪では盂蘭盆になると、心ある人々は七墓巡りと称して諸霊供
 養のため七箇所の墓地を巡訪して回向したものである。」とあるようで、wikiに「千日前、小橋、梅田、
 浜、葭原、蒲生、飛田」とし、「信心の篤い人以外にも肝試しなど娯楽の一種として人気があり、近松門
 左衛門などの上方文芸にもその様子が窺われる。」とあれば、浄瑠璃の盛んな土地柄なれば、その講中な
 のかもしれない。)
(『能勢町史』では丹州街道(丹波街道)方面から森上、来栖、ここ柏原への最短経路でこの後名月峠から
 妙見山本滝道参道に続く「妙見道」の内の一本としている。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南西に望む
 奥(北)宿野へ  奥、名月峠、妙見山へ  左奥(南)平通へ
 右、妙見山へ】  正面やや左が名月峠】  右手前、大里、宿野へ】

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【4.道標を南に望む 【5.道標北西面拡大 【6.道標北西面上部
 左下は一段低い庭  「右曽我宮」宮は一部  「右ハ曽我」でなく
 今にも落ちそうだ】  左下「是より」とある】  「右曽我」とした】

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【7.道標を上部から望む 【8.道標北東面下部 【9.道標道標北東面下部
 下辺が北西面  「左ハ妙見」ではなく  「…施主七」まで
 盃状穴であろう】  「左妙見」とすべきか】  は読める】

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【9.能勢町西部の道標】 【10.能勢町東部の道標】

 2023/5/8 追加
 剣尾山丁石調査の折に確認すると、間もなく道下に転落しそうです。
写真jimg1605
【11.4年前の写真4と比べ
 更に傾きが大きくなる
 落ちても残って欲しい】
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