35.能勢町柏原木戸岡の道標

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能勢町柏原259 府道104号柏原公民館から110m北の四辻を西の旧道に入り70m先の三ツ辻北部に
南西を正面に建つ
自然石 53x51x31p
N34.964394 E135.411251


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南西面
┌――――――――――――――――┐
│  施主            │
│    七墓巡同行中      │
│右 妙見(道)         │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『能勢の道しるべ』より)

南東面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北東面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北西面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では35)
(同書に「木戸岡の旧名月街道(妙見道)から分かれる里道との間に立つ自然石の道標で、在所道をふさぐ
 ようにして「右妙見道」 を明示している。」としている。明治の地図で此処を見るとY字路の様に見え、
 北西の来栖から丘を越えて来た場合に妙見山は「右(南)」に折れ、70m先の「石田辻の道標」で東折れ
 することになる。
  一方、同書の言う「在所道」は現在では東へ直進して府道に出るだけだが、地図では北東へと進み、大
 里、宿野へ続く聯路として描かれており、主要道であったと思われる。
  当道標の西方を辿ると「森上の地蔵道標」に行きつき、そこにも「右妙見」とあり、森上からの名月峠
 への最短路である。)
(同書の写真では、辻の南東部に有るように見えるが、現在は辻の北部にあり近接移設されていると思う。
 南東部に置いたほうが石も見易く、案内もより自然に思え、施主が右側に書かれているのも納得できる。)
(「七墓巡」とは『上方』第56号(大阪探墓号)の「七墓巡り」の序言に、「今は途絶えたが、貞亨、元禄
 の昔より明治初期に至るまで久しい間、大阪では盂蘭盆になると、心ある人々は七墓巡りと称して諸霊供
 養のため七箇所の墓地を巡訪して回向したものである。」とあるようで、wikiに「千日前、小橋、梅田、
 浜、葭原、蒲生、飛田」とし、「信心の篤い人以外にも肝試しなど娯楽の一種として人気があり、近松門
 左衛門などの上方文芸にもその様子が窺われる。」ともある。講の性格は不明であるが、前述の石田辻の
 道標も同じ講の建立とすれば、徳の高い講であろう。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を北西に望む
 奥50mで府道104  奥(南)妙見山へ  左、丘を越え来栖へ
 右(南)妙見山へ】  右、丘を越え来栖へ】  右、府道へ出て宿野へ】

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【4.道標を東に望む 【5.道標南西面拡大 【6.道標南西面右下部
 道の北側に移設か  「右妙見」道は一部  「施主」を右上に
 元南側と思われる】  木の影響か前傾する】  「七墓巡同行中」】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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