28.能勢町森上大夫墓の道標

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能勢町森上 府道602号北側にあった旧西中学校の北東角のすぐ上の墓地内に南を正面に建つ
墓台石 中台石24x104.5x103.5p(上台石29x73x71p、スリン39x50x51p、棹石92x34x35(ドーム頂高4p))
N34.969413 E135.396038

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南面
 棹部          上台   中台
                 ┌―――┐
                 │ 三 │
                 │右  │
            ┌―――┐│ 田 │
┌――――――――――┐│両  ││   │
│竹本文太夫     ││門  ││ 道 │
└――――――――――┘│人  ││   │
            └―――┘│ 池 │
                 │左  │
                 │ 田 │
                 └―――┘

東面               ┌―――┐
            ┌―――┐│   │
┌――――――――――┐│世話人││   │
│(梵字)徳應文甚居士││…  ││   │
└――――――――――┘│   ││   │
            └―――┘│   │
                 └―――┘
(梵字は「ア」大日如来の種子か)

北面               ┌―――┐
            ┌―――┐│   │
┌――――――――――┐│   ││   │
│常磐山門人     ││   ││   │
│ 大角甚兵衛    ││   ││   │
└――――――――――┘│   ││   │
            └―――┘│   │
                 └―――┘
西面               ┌―――┐
            ┌―――┐│   │
┌――――――――――┐│   ││   │
│安政二乙年卯八月日 ││   ││   │
└――――――――――┘│   ││   │
            └―――┘│   │
                 └―――┘


(安政二(乙卯)年八月1日なら、西暦1855年9月11日火曜日となる。
 安政二年は「乙卯」の年で間に「年」を入れたものであろうが、偶然に八月朔日(1日)が「辛卯」の日
 で、「卯八月」とも一致しているが日付を示したものではないと思う。) 
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では28)
(同書に「以前は神楽坂(いやん坂)下のXX理髪店付近の道路に東面して立っていた。太夫碑・力士碑で
 もある岡村甚兵衛のこの墓碑は、安政二年(1855)八月に両門人によって立てられたものであるが、基壇
 を道標に利用している。「右三田」は神楽坂越えでサイノ神峠か中山峠へ、「左池田」は錦亭南から田和
 坂・稲荷坂へ向かうものである。」としている。
  先ず元の位置であるが、国道173号来栖交差点の西90mにある四辻の北西部に理髪店があったようで
N34.968499 E135.397856
 この辺りであろう。ここで東面していたなら、「右」は「西」を示し府道602号、「左」は「南」となり
 片山への道を示すことになる。
  「左片山」となっておらず「左池田」に行くためには、この辻から100m南にある「森上の道標」で西
 に折れ、明治の地図で「自篠山至池田道」と書かれた丹州街道に出る必要がある。)
(「岡村甚兵衛のこの墓碑」とあるが、私にはこの墓石本人のことか、両門人の一人かは理解できていない
 が、岡村甚兵衛については、Web上で「松浦伸吾」さんの『能勢の人形浄瑠璃における創造性』なる論文
 の「その成立と太夫三派」に次のように書かれている。「能勢町の南西部に位置する神山の杉村家は代々
 医者の家系であった。杉村量輔は大阪に出て医学を学ぶと共に竹本弥太夫の元で浄瑠璃を学び、後に竹本
 文巴太夫を名乗った。能勢に戻った後初代竹本文太夫と改名。その後、能勢町北部山辺出身の井戸源内と
 中心部森上出身の岡村甚兵衛を弟子にする。岡村甚兵衛は後に、文太夫派として二代目竹本文太夫を襲名
 する。」とあり二代目が初代の墓を立てたものとすれば、この二名が「両門人」であろう。
  ただ「井戸源内は文太夫のもとを去り大坂に出て竹本清住軒に師事後、能勢に帰り竹本井筒太夫を名乗
 り、文太夫派に対抗して地域の人々に「井筒太夫派」を教えた。」とあるのでこの人を除くと、北面にあ
 る常磐山門人大角甚兵衛とで二人となるものか。
  大角甚兵衛と竹本文太夫との関係は不明。)
(参考、後日『能勢町史』に上杉の「若竹市兵衛力士碑」の項に「西郷では天保年間から常盤山門人の竜田
 川、小鴉、大角、若竹など多かった中で竜田川が有力で猪名川取締りの頭取となった…」とあり、「両門
 人」は二人の建て主ではなく、本人が「義太夫」と「角力」の両方に師事していた事を示すものとすれば
 よいのではないか。)
「力士に関する道標一覧」はこちら。)
 
写真fimg4377 写真fimg4339 写真fimg4340
【1.墓所を北に望む 【2.墓所を西に望む 【3.墓石を北西に望む
 左、旧西中学校  右フェンスの向こう  中央黒い石の
 正面石垣下の墓】  後、小林寺へ】  中台石部に案内あり】

写真fimg4360 写真fimg4358 写真fimg4363
【4.中台石南面左部 【5.中台石南面右部 【6.棹石部西面拡大
 「左 池田」とある】  「右 三田」とある】  「安政二乙年…」】

写真fimg4349 写真fimg4350 写真fimg4351 写真fimg4353
【7.墓石南面】 【8.墓石東面】 【9.墓石北面】 【10.墓石西面】

写真fimg3232 写真fimg3225
【11.能勢町西部の道標】 【12.能勢町東部の道標】
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