16.能勢町長谷才ノ神峠の道標3

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能勢町長谷 サイノカミ峠北東部(AとBの間)に西を正面に建つ
(峠にはハイキング道も含め8本の道があり、便宜上北長谷上所への道を@とし
 時計回りの順にAB…Gとする。Bは京亀山道に当り稲地方面へ。)
(南西に道標1、その南に道標2が建つ)
自然石(板碑状) 90x104x南面36p(北面30p)
N34.958127 E135.37034


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西面
┌―――――――――――――――――┐
│右京かめ山            │
│     道           │
│左さい所             │
│          美谷     │
│安政二乙卯年六月日   若中   │
│          土井     │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――┐
│  中佐             │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(安政二(乙卯)年六月1日なら西暦1855年7月14日土曜日となる。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では16)
(同書に「長谷村の美谷(みぞ谷)・土井の若中によって造立されたものである。有馬・槻並方面から峠を
 越えてきて、京・亀山方面へ向う人たちに知らす道標で、左にとると長谷在所であることを教えている。」
 とあり、「美谷・土井」は長谷の小字であろうか。)
(道標の立つ位置から右の道Bは迷いなく決められるが、左が問題となる。現在では左に二本の道@Aがあ
 り、何れになるのか。明治の地図を見ると北に進む道@は見えるが谷筋への道Aが明瞭に描かれておらず、
 山腹に沿って長谷上所へ下る道を指すものと思われる。この道@は舗装もされており、軽四程度の車であ
 れば対向には苦労するであろうが通行可能に見える。道標建立当時は多分徒歩、牛馬のみの使用であった
 と考えれば、現在の道筋と完全には一致しないであろうが、明治の地図ではほぼ同一経路に見える。)
(北面下部に「中佐」とあり、人名か、石屋の屋号ではないかとして、道標の制作者としたいがどうか。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南に望む
 真後奥B稲地、亀岡へ  奥左(北)@長谷上所へ  奥で四本に分岐DEFG
 左(北)@長谷上所へ】  奥右A、谷筋道棚田へ】  左から2番目E、三田へ】

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【4.道標の西下部 【5.道標の西面下部 【6.道標北面下部拡大
 「右京かめ山…」  「かめ山…道」  「中佐」と読めるが
 「安政二乙卯年」か】  「美谷/土井若中」等】  施工者の名前か?】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】 【9.サイノ神峠図】
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