14.能勢町長谷才ノ神峠の道標1

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能勢町長谷 三草山の西のサイノ神峠南西部(下記Gと@道の間)に南東を正面に建つ
(峠にはハイキング道も含め8本の道があり、便宜上北長谷上所への道を@とし
 時計回りの順にAB…Gとする。Bは京亀山道に当り稲地方面へ。)
(南に道標2、北東に道標3が建つ)
自然石(北西面以外は整面) 161x50x北東面35p(南西面38p)(台石20x73x?p)
N34.958035 E135.370253


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南東面
┌―――――――――――――――――┐
│南妙法蓮華経           │
└―――――――――――――――――┘

北東面
┌―――――――――――――――――┐
│右ハかめ山ミち          │
│左ハさい志よミち         │
└―――――――――――――――――┘

北西面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

南西面
┌―――――――――――――――――┐
│右ニすしハ山ミち         │
│た尓ハありまミち         │
│左ハいけ田ミち          │
└―――――――――――――――――┘
(「右ニすしハ山ミち」は「右二筋は山道」)
(「尓」は「に」の変体仮名、「谷は有馬道」)


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では14)
(同書に「…右側が長谷方面の道、左側が有馬・池田方面の道となっている。寛文十一年の道標に比べると
 「たにハ銀山ありま」に対し、題目塔は「たにハありま」となっていて、銀山が衰退期にあってさほど重
 要視されなかったころの造立ではないかと思われる。」としている。
  「銀山」の地名は「寛文11年の道標」で述べるが、明治期までも使用されており、造立時期の根拠に
 してはいけないと思う。
 これは、文字バランス(碑面の大きさ)の関係で「ありま」しか書けない為としたい。)
(現在位置と向きのままでは、行先の案内が一致せず、方向が180度異なっていると思われる。最も分か
 りやすい南西面の「谷筋は有馬」は、現実には南へ下る谷筋(猪名川町槻並へ)を指さなくてはならない
 が、今は北方向を向いている。題目が道から見えない向きに建てることはないはずで、元は道の反対側
 (東側)に半回転して立っていたと思われる。近接移設としたい。)
(この道標に関しては、二点不明な点があり、一つ目題目はひげ文字で書かれているのであろうが「法」の
 左に大きく点が三つ彫られ、「蓮」のしんにゅうの点に続き、四点のしんにゅう扁なのであろうか、傷と
 は思えないので何か意図があるものと思う。
  第二点目は、北東(右)面が剥離した後に文字を彫ったように見える点である。左面は粗く整面しただ
 けで、三行の案内が刻まれているのに対し、右面は非常に平らな面に彫られている。文字の深さや、石質
 を考えると、文字刻印後表面が剥離したとは考えにくく、左右の仕上げ方が違っていることに違和感を覚
 える。即ち、右面が追刻された可能性があるのではないかと考えている。)
 
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【1.道標を北東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(北東)B亀山へ  三基の道標、中央当道標  右側に当道標
 左、@A在所(棚田)へ】  奥左(北)@長谷上所へ】  奥(西)山道Gへ】

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【4.道標前より南を望む 【5.道標南西(左)面拡大 【6.道標北東面下部拡大
 左、D池田へか?  中央「た尓ハありま…」  「右ハかめ山ミち」
 右(南)D有馬へ】  左「左ハいけ田ミち」】  「左ハさい志よミち」】

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【7.道標を北に望む
 奥で@AB分岐する
 元位置は道の右側か】

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【8.能勢町西部の道標】 【9.能勢町東部の道標】 【10.サイノ神峠図】
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