21.三田市志手原供養塔の道標

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三田市志手原1147−4 県道37号虫尾バス停筋違い四辻の北10m東部に南を正面に建つ
(三基の内の北側二基の西側に建つ)(「仏像の道標」へ、「バス停の道標」へ)
蒲鉾型板碑 78x36x19p(龕部下12pから70x15x-1p)
N34.911712 E135.235311


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南面
┌――――――――――――――――――┐
│ 右 志て原道           │
│西国三拾三所供(養塔)       │
│ 左 さ…道            │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│安政五戊午歳八月廿八日       │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│ 三田同行             │
└――――――――――――――――――┘


(安政五(戊午)年八月廿八日は、西暦1858年10月4日月曜日になる。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では21)
(同書では「右三□□□道」、「左さ□□□」としし、紀年の日付を「…八月八日」とする。
  先ず日付であるが「月」と「八」の間に明らかに一字あり一見「十」に見えるが右横が剥離したとして
 「廿」としたい。
  次に南面の案内であるが、「右」の次が「三」に見えるのは確かであるがその次が「て」に見えその後
 が「原道」と読める。元の辻は後述するが、右の案内に相応しいのは「右志手原」で、「右 志て原道」
 とした、強引であろうか。「志」は変体仮名「し」であろう。
  左に関しては「ささやま道」としたいが、こちらは字数もままならない。
  尚、当地の今の住所は志手原であるが、明治の地図では「梅木」とあり「志手原」は区民センターのあ
 る辺りを指したものらしく、案内は妥当であろう。)
(当地点を明治の地図で見ると辻が描かれておらず、平成7年の地図にも載っていない。すべての道が地図
 に載るわけではないが、庚申堂等もなく道標の立地地点として適性は無く移設されたものと考えられる。
  元位置の候補として、東隣りの「仏像の道標」と同じく、北230m上野台中学校西の三叉路が考えられ、
N34.913662 E135.235521
 辺りの三ツ辻の北東部とすれば、前述の行き先が納得出来そうである。)
(近辺に建つ三基の内一番風化が進むが、これは石質によるものと思われ、建設された年は一番若いのでは
 ないかと思う。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北西に望む
 奥(北)志手原へ  奥(南)三田市街へ  左、当道標
 左端が当道標】  右側(西)が当道標】  右は仏像の道標】

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【4.道標を北に望む 【5.道標南面拡大 【6.道標東面下部
 下部が無いのは  「右志て原」  「…八月廿八日」
 移設時に剥落か】  としたがどうか】  と読んだ】

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【7.三田北部の道標】
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【8.三田西部の道標】 【9.三田東部の道標】
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