64.三田市木器元羽束橋の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
三田市木器1493 県道323号羽束橋西詰の西40m三ツ辻の南80mの三ツ辻から南西へ直線で100m、
山中の個人墓地南部に東を正面に建つ
(上記最後の三ツ辻からは西に40m登りY字路を左へ20mで民家の庭入口。この南の池土手が進入口。)
ドーム型角柱 55x24.5x24.5p(頂高7p)(上台石20x37.5x39.5p)(下台石15x55x56p)
N34.932291 E135.270855


写真fimg8053

写真fimg8054

写真fimg8055

写真fimg8056

東面
┌――――――――――――――――――┐
│皈元一相圓心信士          │
└――――――――――――――――――┘
(「皈」は「帰」の異体字)

北面
┌――――――――――――――――――┐
│右 たゝ能いん           │
│左 京あ多こ            │
└――――――――――――――――――┘
(「能」は変体仮名「の」「多田の院」か)
(「多」は変体仮名「た」「京愛宕」か)

西面
┌――――――――――――――――――┐
│文政元寅年七月七日         │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│俗名 鶴澤熊吉           │
└――――――――――――――――――┘


(文政元(戊寅)年七月七日は西暦1818年8月8日土曜日である。文政の改元は四月二日である。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では64)
(同書に「羽束橋の橋詰から移動」とあり、東西どちらの橋詰か明記されていない。
  明治の地図で見ると、東詰めに東に突当りの三ツ辻(今は四辻、東へ県道)があり、直進せず北と南に
 分かれる様子が見え、左へ折れるとすぐ北の支流に当りそれに沿い東進すると「興福寺下の道標」に続き、
 それにもこの道標と同じ「左京愛宕」が案内されており京道を示している。
  又、その三ツ辻を右(南)へ進むと、やがて南東に進み「猪ノ倉ため池堤の道標」に至る。
 こちらは「左池田伊丹」と案内されて、多田院とは書かれていないが、川西市の多田院へは同じ道である。
 依って、元位置は
N34.933098 E135.273230
 辺りと思われる、羽束川の羽束橋東詰の三ツ辻の東部に、現北面を西面させて建っていたとしたい。)
(尚、同書には幾つか読み下しに誤りがあると思われるので、書き出しておく。
 東面「皎」は「皈」とした、旁部が鍋蓋でなく「一」となっている。
 東面「信女」は「信士」である。俗名も男の名前と思われる。
 西面「七月吉日」は「七月七日」である。命日であれば日付は決まる。)

写真fimg8087 写真fimg8052 写真fimg8050
【1.上記最後の三ツ辻を 【2.墓地への入口を 【3.道標を南西に望む
 南西に望む。墓右上へ  南西に望む、生垣と  中央が当道標
 左(南)は香下方面へ】  電柱の間を奥へ】  抜ける道は無い】

写真fimg8038 写真fimg8058 写真fimg8064
【4.道標を南に望む 【5.道標東面面拡大 【6.道標北面拡大
 南北に一列に並ぶ  「皈元一相圓心信士」  「右たゝ能いん」
 内の南から二基目】  とした】  「左京あ多こ」】

写真fimg8069 写真fimg8070 写真fimg8073
【7.道標を西面上部 【8.道標西面下部 【9.道標北面拡大
 「文政元寅年…」  「…年七月七日」  「…鶴澤熊吉」
 と綺麗に読める】  吉日ではなく命日か】  熊が繁にも見えるが】

写真fimg7011
【10.三田北部の道標】
写真fimg7009 写真fimg7013
【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ